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17.長き確執の終わりに

 ―― 息が切れるまで走った。

 学園の裏門を抜け、誰もいない暗い路地裏に滑り込み、ギルバートは膝をついて嘔吐(えず)いた。


「ぐっ……、はぁ、はぁ……ッ!」


 胃の中身を吐き出しても、胸の内の濁りまでは吐き出せなかった。

 惨めだった。無様だった。

 「最も尊き血」の前で、弟に完敗した。

 あれほど馬鹿にしていた「お行儀の良い剣」に、自分の持てる限りの力が通用しなかった。これでもう、学園にも家にも、居場所はないだろう。そう、絶望した瞬間である。


『見事でしたわ』


 ふと、脳裏にあの声が蘇った。

 冷徹で、無感情で、けれど芯の通った、鈴のような声。


『それは生き残るための執念。誰かを守るための、最後の手段になり得る剣です』


 ギルバートは、震える手で自分の顔を覆った。


 嘘だと思った。慰めだと思った。

 だが、あの皇女の瞳に嘘はなかった。

 彼女は、あの美しい紫の瞳で、ギルバートの薄汚い本性をすべて見透かした上で――それを「力」だと断言したのだ。


「……なぜ」


 涙が、指の隙間から溢れ出した。

 父ですら、母ですら、一度も褒めてくれなかった俺の剣を。

 本来であれば、己が傅く事すらあれど、まともに目を見て言葉を交わすことすらないような、その高貴な存在が。


「なぜ、今更ッ……!ッ!! ―――――――― う、うぅ……!」


 ラファエルへの憎しみが消えたわけではない。

 あの輝くような才能への嫉妬は、死ぬまで消えないだろう。

 「英雄」と呼ばれる連中は、無自覚に人を傷つける。自分たちが持っている「正しさ」が、持たざる者をどれだけ追い詰めるか、知りもしないで。そうだ。俺は卑怯者だ。弱くて、狭量で、嫉妬深く、狡い。そんなのは、自分が一番よく知っている。


 だが。

 俺には ―― 俺の、戦い方がある。

 あの人が、そう言ったから。


「……アレクシア、殿下」


 その名を口にするだけで、背筋が震えた。

 恐怖? いや、違う。もっと根源的な、魂がひれ伏すような感覚。

 泥の中を這いつくばる自分を、泥ごと肯定してくれた唯一の女神。


「……く、くくッ …… ふふ、ははは……!」


 暗い路地裏で、ギルバートは自嘲気味に笑った。

 ラファエルがあの方に「光の騎士」として仕えるなら、それでいい。

 あいつには、あの眩しい場所が似合っている。

 だが、あいつの剣は。泥に汚れたが最後、力を失う剣ではないのか。


 俺はどうだ。

 綺麗なことだけでは回らない世界があることを、俺は誰よりも知っている。


「もし……あの方が、手を汚さねばならない時が来たら」


 毒が必要な時。

 闇討ちが必要な時。

 騎士道精神などという綺麗事では守れない局面が来た時。


「その時は、俺が……」


 ギルバートは、泥だらけの短剣を懐から取り出し、きつく握りしめた。

 まだ、彼女に仕える資格などない。今のままでは、ただの負け犬だ。

 誰よりも卑怯で。誰よりも確実に。敵を排除する術を学ばねばならない。

 いつか、あの方の影となり、あの方の足元を掬う混沌を排除するために。


 ―― 英雄たちよ。

 お前たちの知らない泥濘の底で、俺は俺のやり方で、あの方の治世を守ってみせる。


「……悪くない」


 ギルバートは夜空を見上げた。

 星は見えなかったが、暗い雲の切れ間から、微かな月明かりが泥水を照らしていた。

 それは、歪で、暗く、重い感情。

 だが、それは確かに、ギルバートという男が初めて抱いた「誇り」の萌芽だった。


◇◇◇


 騒動が去った校舎裏。

 ラファエルは、兄が走り去った方角をぼんやりと見つめていた。


 かつてラファエルは、兄ギルバートの剣を「卑怯」だと断じた事があった。

 騎士道精神の欠片もない戦い方だと軽蔑した。

 周囲の人間もそう言った。だから、自分もそう思っていた。それが「正しい」ことだと信じて疑わなかった。


 だが、それは間違いだったのだ。

 アレクシア様は言った。『持たざる者が生き残るための剣』だと。


(……傲慢だったのは、俺の方だ)


 ラファエルは、うつむく兄の背中を思い出した。

 自分は恵まれていた。才能にも、師にも、そして周囲の期待にも。

 だからこそ、兄の苦しみを想像することすらしなかった。

「正しさ」という安全な高みから、足掻く兄を見下していたに過ぎなかった。

 俺たちは、ただ、盲たままにお互いを傷つけていただけなのだ。


(もう、謝れない。謝る事すらしてはいけないんだ)


 もし。もっと早くアレクシア様のような視点を持てていたら。

 兄の必死さを理解し、己の驕りを自覚し、言葉を交わすことができていたら。

 俺たち兄弟のあり方は、違っていたのだろうか。


 ズキリ、と胸が痛む。

 彼はいい奴ではないかもしれない。でも、必死だったのだ。

 おれは確かに被害者だっただろう。わけもわからぬまま連れてこられ、愛されず、捨て置かれた。

 ―― だが、剣を持った後はどうだ。

 本当は、俺が正しいと。俺こそが正義で、報われるべき存在だと、本当に少しも感じてはいなかったのか。


 以前のラファエルなら、兄の醜態にただ心を痛めていただろう。

 だが今は、不思議と胸の内に重苦しい澱みはなかった。

 むしろ、胸の中を風が吹き抜けていくような感覚があった。

 決して仲直りをしたわけではない。過去が消えたわけでもない。

 やられた事は消えはしない。

 それでも、兄を「卑怯な悪」としてではなく、一人の「弱き人間」として認識できたこと。そして、己の隠れた傲慢さを目の当たりにした、ラファエルの世界は鮮やかに色を変えていた。


 ラファエルは深く息を吐いた。

 なんてことはない。空はこんなにも青く、風はこんなにも澄んでいたのだ。

 それはまるで、長い戦いを終えた朝のような、爽やかな余韻だった。


◇◇◇


 そして、夜。

 屋敷の自室に戻ったラファエルは、ベッドの上に正座していた。

 目の前には、白布の上に置かれた「剣」が一振り。


 アレクシア様から賜った剣だ。


「……はぁ」


 ため息が出る。重いため息ではない。熱を帯びた、陶酔のため息だ。

 あの瞬間の光景が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。

 夕陽を背負ったアレクシア様の神々しさ。

 『待っていたんですのよ』という言葉。

 そして、『友人』の証として渡されたこの剣。


 ラファエルは、震える手で剣の(つか)に触れた。

 冷たい感触が、火照った体に心地よい。

 一生の宝にしよう。いや、墓まで持っていこう。この剣と共に戦い、この剣と共に死ぬのだ。

 忠誠心はマックスまで振り切れ、ラファエルの心は清らかな決意に満ちていた。


 ――はずだった。


 ふと、冷静な思考の一部が、鎌首をもたげた。

 貴族として叩き込まれた「教養」のページが、脳内でパラパラとめくれる。


(……待て。落ち着けラファエル。これは、どういう意味だ?)


 ラファエルは眉間に皺を寄せた。

 帝国貴族の不文律。

 『夕暮れ時』。

 『高貴な女性から』。

 『異性へ』。

 『剣を贈る』。


「……いや、まさかな」


 ラファエルは首を振った。乾いた笑いが漏れる。

 アレクシア様は雲の上の存在だ。皇女殿下だ。自分のような一介の貴族、しかも庶子上がりの次男坊ごときに、そのような意味を持たせるはずがない。

 あれは純粋な、主君から臣下への褒美だ。

 そうだ、そうに決まっている。


(しかし……!)


 脳裏に浮かぶ、あの一瞬の微笑み。

 『はしたないと、思わないでくださいね?』という言葉。

 わざわざ教室で待っていてくれて、探しにきてくれて、そしてあのシチュエーション……。


「い、いやいやいや! あるわけがない! 殿下はただ慈悲深くて、お優しいだけで……!」


 ラファエルはブンブンと頭を振った。

 不敬だ。そんなことを考えること自体が不敬だ。

 自分はただの剣。彼女を守る盾であればいい。


(だが、もし……万が一……いや、億が一……)


 一度芽生えた疑念――いや、期待は、雑草のような生命力でラファエルの理性を侵食していく。


「え……? まさか……いや、でも、あれだけ言われたら……」


 ラファエルは贈られた剣を抱きしめるようにして、ベッドの上でゴロリと転がった。


「あるわけがない……いや、しかし……いやいやいや……」


 ゴロゴロ。

 右に転がり、天井を見上げる。


「ありえない。俺ごときが。……しかし、あのタイミングは……」


 ゴロゴロ。

 左に転がり、枕に顔を埋める。


「いやまさか? いやあるわけないよな? いやワンチャンあるか? いやあるわけないよな?(錯乱)」


 高潔なる騎士ラファエル。

 剣の腕は天才的。容姿端麗。性格も真面目。

 そんな彼が今、生まれて初めて「恋の病」と「特大の勘違い」という猛毒に侵され、ベッドの上で芋虫のようにのたうち回っていた。


 彼の青春の苦悩は、夜明けまで続くことになる。



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