12.双頭の鷲、その確執
消毒液の特有の匂いが鼻をつく学園の病棟を出ると、外は黄昏時を迎えていた。
肌を刺すような冷たい風が、ラファエルの頬を撫でる。彼は小さく息を吐き出し、重い足取りで正門へと向かった。
正門前の馬車止めには、多くの貴族生徒たちを迎えに来た豪華な馬車が列をなしていた。
だが、その中に「双頭の鷲」の紋章 ―― ヴァンデルハイム侯爵家の馬車はなかった。
退院の連絡は入れているはずだ。執事も確かに受理したと聞いている。
にも関わらず、馬車が来ていないという事は ――
(兄上は、とことん私が嫌いらしい)
自嘲気味に口元を歪め、ラファエルは鞄を握り直した。
乗り合い馬車を使うか、あるいは鍛錬のために歩いて帰るか。
ラファエルが一歩を踏み出そうとした、その時だった。
「――ラファエルか?」
威厳ある低い声が、彼を呼び止めた。
振り返ると、そこには鬼のような厳めしい顔立ちの男が立っていた。
学園の生徒指導主任にして、かつて軍部で名を馳せた猛者。
ラインハルトである。
「ラインハルト先生……」
「退院は今日だったか。……迎えは?」
「……いえ。手違いがあったようで。家の馬車は出払っているようです」
ラファエルは咄嗟に嘘をついた。尊敬する恩師に気を使わせたくなかった。
ラインハルトが眉間の皺を深くし、短く息を吐く。
「そうか。なら、乗っていくといい」
ラインハルトが顎で示したのは学園の紋章が入った公用馬車だ。
個人の馬車に乗せれば、ラファエルが「施しを受けた」と惨めな思いをするかもしれない。あるいは、周囲に「教師に媚びている」と邪推されるかもしれない。
あえて事務的な学園の馬車を手配してくれたのだろう。この強面の教師は、見た目に反して細やかな気遣いの人だった。そして、ラファエルの「家庭の事情」を把握している。
「……お心遣い、痛み入ります。お言葉に甘えさせて下さい」
「気にするな。ついでだ。私も市街に用がある」
◇◇◇
馬車に揺られながら、二人の間には重苦しい沈黙が流れていた。
車輪が石畳を叩く音だけが響く。
窓の外を流れる貴族街の景色を眺めていたラインハルトが、不意に口を開いた。
「ラファエル。……寮暮らしをしてみないか?」
「え……?」
「お前の成績なら『特待生』枠が使える。申請さえすれば、学費も寮費も免除されるはずだ。私が理事長に掛け合ってもいい」
ラインハルトは、ラファエルの実直な性格と、類稀な剣の才能を高く買っていた。
だからこそ。彼が摩耗し、その輝きを失っていくのを見ていられなかったのだ。
「……ありがたいお話です」
「ならば」
「ですが……今は、考えさせてください」
ラファエルは膝の上で拳を握りしめ、首を横に振った。
その碧眼には、頑ななまでの拒絶が宿っていた。
ラインハルトが怪訝そうに眉をひそめる。
「なぜだ? 家に未練があるようには見えないが」
「……」
「ギルバートのせいか?」
兄の名が出た瞬間、ラファエルの肩がピクリと跳ねた。
ラインハルトは続ける。声には微かな怒気が混じる。
「お前が兄に遠慮しているのは知っている。だが、あいつのやっていることは度を越している。あれは指導でも訓練でもない。ただの――」
「先生」
ラファエルは強い口調で遮った。
そして、ハッとしたように顔を伏せ、深く頭を下げる。
「申し訳ありません。ですが …… 私には、何が最善なのか、まだわからないのです」
「ラファエル……」
「お申し出は本当にありがたく思います。ただ……」
(……真面目すぎるのだ、お前は)
ラインハルトは深く息を吐き、それ以上追及することを諦めた。
ここで無理強いをしても、この真面目すぎる生徒の心は動かないだろう。彼のその高潔さと危うさは表裏一体だ。いつかその真っ直ぐさが、彼自身を折ってしまうのではないか。ラインハルトの胃がキリキリと痛んだ。
「……わかった。無理には勧めない」
馬車が減速し、ヴァンデルハイム侯爵邸の前に到着する。
高くそびえる鉄柵の向こうに、重厚だがどこか陰気な空気を纏った屋敷が佇んでいた。ラファエルにとっては、帰るべき家であり、牢獄でもある場所。
馬車を降りたラファエルに、ラインハルトは窓から声をかけた。
「ラファエル。返事はいつでもいい」
「……はい」
「それと、これだけは覚えておけ。私は――そして騎士科の多くの者は、お前の剣を認めている。何かあれば頼れ。必ず力になる」
その言葉は、冷え切ったラファエルの心に、熱い火種を落とした。
認められている。必要とされている。
その事実だけで、泣き出しそうになるのを必死で堪えた。
「……ありがとうございます、ラインハルト先生」
ラファエルは深々と一礼した。
喉の奥からせり上がってくる熱い感情を、無理やり飲み下す。
ここで泣いてはいけない。ここは戦場なのだから。
馬車が去っていく。
ラファエルは表情を「鉄仮面」に戻し、冷たい鉄柵の門をくぐった。
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