97.死よりも残酷だということ
ティティールは母親のことが大好きだった。この場合は産みの母親ではなく、育ての母親のことだ。産みの母親も十分にティティールを愛してくれただろう。
しかし、幼い頃に実母を亡くしたティティールにとって、産みの母親のことは記憶にはなかった。
代わりにあったのは、優しそうに微笑む銀髪の母親と、穏やかな父親の姿だった。父親もティティールにとっては、叔父だ。しかし、父親と言っても差し支えがない。
数年前、幼いティティールを置いて母親は戦場に行ってしまった。口では、母親の武運を祈ったが、本当は行ってほしくはなかったのだ。それは当たり前のことだった。しかし、ティティールは子どもである前に、王女なのだ。いつでも凛としていなくてはならなかった。
だからこそ、母の帰りを背筋を正して待つことに決めたのだ。だが、母親は戻ってこなかった。遺体すら回収できなかったのだという。骨すらもティティールの手には残らなかった。
父親の衝撃と悲しみはどれほどのものであったか、想像もできない。あの件以来、父は随分と年を取った。実際には数年しか経っていない。大人にとってはそこまで、大きな変化をもたらす時間ではない。
精神的な理由だろうと思った。父はすぐに白毛になり、皺が増えた。かつての若々しい見た目は微塵も感じない。そんな彼のことを思えば、ティティールは旅立つべきではなかったのだろう。
しかし、どうしても知りたかった。母親の最後を。そして、仇を打ちたかった。それができないということに、少しだけ悔しさを覚える。
ティティールは黙り込む声の主の応えを、ただただ待った。長い時間に感じたが、それは数秒にも満たなかっただろう。目の端では老人が結界を叩いているのが見える。彼の口の動きから言っていることは、なんとなく分かる。
これが噂に聞くそれなのかと、ティティールは思った。おとぎ話の一つだと思っていた。だが、こうして体験してしまった以上、信じるしかあるまい。
(よかろう。受理した)
やがて声が聞こえた。それは死刑宣告を告げる処刑人の声のようだった。いや、現実はそれよりも残酷なのだ。ティティールはただ死ぬではない。自身のその命の証すら散らしてしまうのだ。人は死んだら、記憶の中に残る。彼女にはそれもない。
「……。少しだけ時間を下さらない? 数分だけでいいの」
ティティールがそう口にしてしまうことは仕方がないことだった。声の主もそれが残酷なことだと分かっているのだろうか。少しだけ沈黙が流れる。
(もう一つの概念を選んでからだ)
「もう一つ……?」
彼女は口を震わせた。なぜ、もう一つ選ばなくてはいけないのか。ティティールは説明があるだろうと、口を閉じた。
(お前らは二人だからな。私は最初にここに入った人間と概念の契約をしなければならないと定められている)
「概念の契約……」
(お前らは消したいものを選ぶ。私はそれを叶えると、天界に帰ることができる。お前らは同時に入ってきた。よって二つだ)
「フフ」
少しだけ笑いが漏れてしまう。ここから抜けられるのはロロだけだというのに、二つ用意しなければならないというのは、何とも滑稽な話だ。もちろん、ティティール以外の人間やそれと同じぐらいの価値があるものを選んでもいいのだ。しかし、この世に価値のないものなどないのではないかと思った。
それ以上に自身のせいで何か一つでも概念が消えるのが嫌だった。どんなに嫌われているものでも、大事に思っている人はいるのだ。
しかし、人によってはこれは魅力的な提案なのだろう。嫌っている人や物を消すことができるのだから。
だが、ティティールはそんな思考にはならなかった。
何を選ぶべきか。ティティールはロロを見やった。
彼がこのあと逃げる上で、逃げやすいものを選ぶべきではないか。しかし、それを消せばどれだけの被害が出るのか分からない。それはやめよう。何か他のものを――。
(よかろう。受理した)
「え、ちょっと!! 私はまだ何も言ってないわよ! ゲホゲホ」
予想外の声にティティールは反応した。その拍子に重たい咳が出てしまう。あまりの酷さに立っていることも困難だ。思わず、その場にひざまずく。
(時間切れだ。お前の頭の中を読ませてもらった。もう、これは覆らない。先ほどお前が言った通り、少しだけ時間をやろう)
声はそこで途絶えた。何とも身勝手な天界人なのだと思った。そして最後にとてつもない概念を、思い浮かべてしまったことで自責の念に駆られる。しかし、もう何をしても無駄なのだ。この先に起こる混乱のことを思うと、ティティールは胸が痛むのを感じていた。
ティティールは手でその場を這うと、ロロの顔を触った。彼の目が少しだけ開かれる。ようやく意識が戻ってきたようだった。
「てぃ、ティティール? 何を……」
彼はまだ状況を理解していないようだった。無理もない。最後にこれだけは言っておこうと思った。
「ロロ、好きだよ」
「……?」
ロロはこの言葉を忘れるだろう。それどころか、ティティールに関する全ての記憶を忘れてしまうのだ。
彼女の存在すらも、概念が消えてしまうのだから――。
最初に会った時から、好感を持っていた。しかし、彼がソラを好きなことは一目で分かった。そしてそれは決して勝てないのだということも。ソラの髪の色は銀髪だった。そのことは父親も気付いたはずだ。ロロはそのことに関して、何も気にしていなかった。
思い返せば、アーチェもその一人だ。しかし、なぜかロロに惹かれてしまった。不器用な優しさというものが好きなのかもしれない。いや、惹かれることに理由などないのだ。
そして、それは彼にわたあめをもらった日に、決定的となったのだ。最初に好意を抱いていたことでその想いを完全に意識した。
「じゃあね、ロロ」
「まっ……、まて」
ティティールはロロの髪を撫でた。その瞬間、視界が揺らいだ。ロロはもちろん、結界を叩いていた老人、そしてアユリアと名乗った少女が倒れていることから、他の者にも同じ現象が起きているのだ。
強烈にグルグルと視界が回り始める。頭が割れそうだ。徐々に自身の体が消えていくのを感じる。もう目を開けていることもできない。彼女は最後に扇を彼の手に握らせた。
●●●●●●はこの世から消滅した。
●●はこの世から消滅した。
◆
「はぁ、何だったんだ。今のは……」
ロロは息切れをしながら、仰向けになった。天井を見上げる。視界がグラグラとしていて、すぐには立ち上がれない。いつの間にか結界は消えていたが、老人もアユリアも腰を抜かして動けなくなっていた。意識を失っている間に何が起こったというのだ。ロロはまだ概念を渡してはいない。何か奇跡が起きたのだとしか思えなかった。
石はすでに消えていた。いつだったか、中から何かが飛び出し、空に飛んでいくのをみた気がする。その直前、今までに感じたことがないほどの●●を感じたのだが、それはすぐに忘れてしまった。
「今が逃げるチャンス」
そう思ったが、なかなか動けない。肉体はすでに回復し始めているのに、動けない。
「くそ、何で涙が止まらないんだ」
ロロは腕で涙を拭った。しかし、それはしばらくの間止まることはなかった。
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