83.女王が生まれる時
ソラは籠に入っていた卵から、かすかな音を聞いた。ソラが足を止めると、ティティールが不思議そうに抱きついてきた。
「どうしたの?」
この籠はローズマリーの城下町で買ったものだった。ソラが連れて歩くことを提案したため、いつまでもアーチェに持たせているわけにはいかなかった。
「卵から変な音がしたんだ」
ソラは籠を降ろすと、卵を取り出した。卵からは確かに音がした。その証拠に、あらゆるところにヒビが入っている。
「そろそろ、孵るんじゃない?」
アーチェがロロを押しのけると、嬉しそうに駆け寄ってきた。アーチェがこんなに、楽しそうなのは珍しい。一番世話をやいていたし、元々生き物が好きなのだろう。
「ちょっと、アーチェ。見えませんわ」
ティティールが不満を言った。彼女の身長は四人の中で一番小さく、アーチェに阻まれると、卵を見ることができない。
ロロが後ろから卵を覗き込んだ。必然的にティティールに近づくことになり、彼女はあからさまに顔を赤らめて、少しだけ距離を取った。
「へぇー、どんな色なんだろうな?」
ロロは竜に興味津々だ。
「赤じゃない? 子は親に似るって言うし」
アーチェが卵をさすりながら、呟いた。
殻に包まれた大きな卵が、静かに揺れる。中から何かが動いている音が聞こえる。次の瞬間、ヒビが蜘蛛の巣のように広がっていく。
殻の割れ目から、かすかに鱗が見える。それは赤い絵の具に桃色の絵の具を垂らしたような、そんな色だった。
内側から、小さな爪が出てくる。中から殻を割ろうとしているのだ。
手伝った方がいいかと思いつつも、このままにした方が良い気がする。
殻が崩れると同時に、それは姿を現した。瞳が大きく見開かれる。その瞳は綺麗な赤色だった。ルビーを閉じ込めたようなその瞳を、何度も瞬かせている。
小さなドラゴンは丸く身を縮めていたが、少しだけ体を動かした。
「ウニャー」
小さな翼をゆっくりと伸ばし、かすかな鳴き声をあげる。流石にまだ飛ぶことはできないほどの、小さな翼だ。その声も、ドラゴンとはかけ離れた弱々しい鳴き声だ。子猫の声と言われても、信じてしまう。
ドラゴンというものは、ソラも知っている。しかし、それは本の中だけであったため、紅竜を初めて見た時は驚いたものだ。
しかし、もう驚きはしない。実際に目の前でそれを見たからだ。
小さなドラゴンは歩こうとしたが、その足取りは拙く、地面に転がってしまった。足をパタパタと、動かしている。その様子は愛らしい。
ソラはその子を抱きしめると、頭を撫でた。
「キュー」
小さな手を上げ、ドラゴンが嬉しそうに鳴く。
「ソラ! 私にも、私にも!」
ティティールもその腕に抱きたいらしく、その場で飛び跳ねた。
「気を付けてね」
ソラは恐る恐るドラゴンを手渡した。彼女は震える手でドラゴンを受け取ると、嬉しそうに顔をほころばせた。
「名前、何にしましょう?! ここは、私が考えるべきでしょうか?」
「名前か? うーん、ドラゴンローストステーキっていうのはどうだ? 略してドラスキ」
ロロの言葉に他の三人は黙り込む。
ドラゴンローストステーキは、ソラもここに来てから食べたことがある。
それは昔からある肉料理の一つであるらしく、空を駆けるドラゴンを特製の火山岩プレートでじっくりと焼き上げた一品だ。
肉は外側がカリッと焼けて香ばしく、内側は逆に生の赤身が広がり、噛むほどに塩の辛味が舌を刺激する。表面には醤油が薄く塗られており、焼き上がると香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
ソラもその料理は食感が変わっていて、好きだが、その名前をドラゴンの名前にするのはありえない。
アーチェもそう思っていたらしく、ロロの発言には触れない。あのティティールも流石にロロに助け舟を出せずに、口をつぐんでいた。
「実は、前から名前を考えてたんだけど、フリュームっていうのはどうかな? 鳥人語で尊き者っていう意味なんだよ!」
アーチェが口を開く。どうにも、彼は鳥人を嫌っていながら、鳥人にこだわっているところがある。しかし、ロロの名前よりかは百倍も良いだろう。ソラはその言葉に頷いた。
「アーチェ、もう考えてたんだ。確かにいい名前だね」
「私だって負けていませんわ! 私が考えていたのは、リームよ。どう?」
リーム。ティティールの名前も捨てがたい。ソラは考え込んだ。名前はあまり考えていなかった。名前というものは、こうも付けるのが難しいものか。
「あの、ドラ――」
爪弾きにされているロロが会話に入ろうとしたが、アーチェに肩を小突かれた。
「その名前は無しだよ。ロロのことだから、そんな名前にしたら、いつ本物のステーキにするか分かったもんじゃない」
「酷いな! 流石に俺だってそんなことしないぞ」
いや、ロロはするかもしれない。彼の食事への執着は異常だ。最初だって、ドラゴンの卵を使って卵料理を作ろうとしていた。そんな名前を容認するわけにはいかない。
ソラが無言で首を振ると、ロロは極めて残念そうな顔をした。申し訳ないが、仕方がない。
名前はアーチェのものと、ティティールのものの実質、二択だ。
しかし、ティティールは意外なことを言ってきた。
「ほらほら、次はソラの番ですよ!」
「え……、私も名前出すの?」
ソラは自分が考えた名前などよりも、アーチェとティティールが考えたものの方が良いと思うため、名前など急に思いつかない。
「そうだよ。みんなで出して、投票にしよう!」
アーチェも便乗する。ロロも異論はないようだ。
名前。少しの間考える。ティティールに抱きしめられているドラゴンが、こちらに首を傾げている。その瞳は曇りなき眼であり、まだその子は汚れを知らないのだと認識させられる。
「そんなに深く考えなくてもいいんじゃないか? こいつの顔を見て、真っ先に思いついた言葉でいいんだよ」
「ロロはこの子の顔を見て、ステーキの名前が出たんだね」
アーチェが少し冷めた目を送る。
「も、もういいだろ!俺のことは」
真っ先に思いついた言葉。それは確かにあった。しかし、この名前でいいものか。彼は嫌がるのではないか。だが、それ以上の名前は浮かばなかった。この子の顔を見て、思いついた名前は一つだけ。
「ヘリオ……」
懐かしい名前を呟く。その名前はあの件以来、初めて口にした。彼の緑の髪が、青い瞳が、声が頭の中で自然と思い浮かぶ。声だけはどうしても、思い出せなかった。
人が相手のことに対して、最初に忘れるのは声だということを再認識させられる。あの時から、そんなにも長い月日が経ってしまった。
「ヘリオ? そんなに珍しい名前じゃないけど、いい名前だね」
「そうかしら? 少し可愛さに欠ける名前だけど。大体、この子は女の子なんだけど」
ティティールが言葉を濁すが、彼女はその名前を本心から否定しているわけではない。ソラ自身も、その名前になってほしいと、どうしても思っているだけではない。二人のうち、どちらかの名前になればいいのだ。
「俺はソラの考えた名前がいいと思う」
「ロロなら、そう言うと思いましたわ」
ロロの同意に、ティティールが頷いた。ソラの名前は少なくとも、ドラゴンローストステーキよりはいいだろう。
「私は当然、自分の考えた名前ですけれど、アーチェはとうなのです?」
「ソラの名前がいいんじゃないかな?」
アーチェは意外にも、ソラの考えた名前に賛同した。彼も自分の考えた名前がいいと思ったが、そうではないようだ。
「もう! 二人はそう言うと思いましたわ! ソラの意見は聞くまでもないですね! ほら、ヘリオちゃん。これが貴方の名前ですわよ」
ティティールがドラゴンに、ヘリオに話しかける。ソラはアーチェの名前に投票しようと思っていたため、確かにソラの意見は聞くまでもないだろう。ヘリオに二票入っているので、名前はもう決まったようなものだ。
ヘリオはまだその言葉の意味を分かっていない。不思議そうに、自分自身を見つめる人間を見つめている。彼女がその言葉の意味を理解するのに、どれだけの時間がかかるのか。
思えば、ヘリオの親はソラたちが奪ってしまったのだ。彼女には愛情を精一杯にかける義務がある。
ソラはヘリオの頭を撫でた。嬉しそうなヘリオの声がこだまする。
こうして、ソラの意図せずにヘリオという名前が、命名されたのである。
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