56.絵の材料はなに?
ソラは街の市場を見ていた。ここでは絵を描くことが盛んなようで売り物は絵で溢れている。しかしその絵がとても変わっているのだ。
人々が苦しんでいたり、悲しんでいたり、何というか気分を害する絵が多い。それに子供が描かれている絵が多いのだ。子供が苦しんでいる姿には目を痛める。
たくさんの絵を市場で目にしたが、一つもソラがいいと思う絵はなかった。ソラの感性が悪いのだろうか、これをいいと思う人の気がしれなかった。
「やぁ、お姉さん。安くしとくよ」
「あ、すみません。遠慮しておきます」
つい目を通してしまったが、ソラにこの絵を買うにはない。慌てて断り、店から離れる。ティティールはそれでも絵の前から動かない。一つの絵にとても目を奪われているようだ。その絵を両手で持ち上げ、ジッと眺めている。
「お兄さん、これ買うわ!」
「やぁ、ありがとう。豪華なお嬢さん!」
若い男性はティティールの言葉を嬉しそうに顔を綻ばせると、ティティールから大量のお金を受け取っていた。あのような絵があんなにも価値のあるものだとは思えない。それにそんな絵は不気味だ。どうしてそんな物がいいのだろうか。
「……ティティール、それが好きなんですか?」
「えぇ! だってこんなにも魅力的なんだもの!」
ソラはもう一度その絵を見たが、やはり魅力は分からない。しかし、あれだけの値打ちなのだから、ソラには分からないだけで「良い物」なのだろう。
「それにしても、この街は初めて来たわ」
幼い彼女は小さな手で絵を抱きしめながら、呟いた。
「確かエターナルって街なんだよね」
ティティールに教えてもらった街の名前をソラは、思い出しながら口にする。
「そう! 美術に特化した街なんだけど、外にはこの街の絵とか情報とかが一切漏れないのですわ」
「どうしてなんだろう」
「さぁ、分かりませんわ。でも、この街にはいずれ来たいと思っていたので、本当に嬉しいです!」
外に情報が漏れない。その言葉をソラは頭の中で繰り返した。
街の市場を歩いていると、アーチェが市場の向こう側から歩いてくるのが見えた。
「あ、アーチェ。何か良い物は買えた?」
「ソラ。ううん、何も……。ここには絵ばかりで何も旅に役立つ物は無かったよ。それより、ここの街、何だか不気味じゃない?」
「不気味……? どこがですか?」
ティティールはアーチェの言葉の意味が分かっていないようだ。しかしソラもアーチェと同じ考えを感じていた。
「売ってる絵もそうだし、それに……子供が少なすぎない?」
それは確かな事実だった。市場には多くの人間で溢れている。その上、昼間なのに全く子供を見かけないのだ。しかし、彼女は気にした様子もない。
「そう? こんなものでしょ? それより、ロロはどこに行ったのよ?」
アーチェの横にはロロの姿が見えなかった。アーチェは呆れたように肩をすくめた。
「さぁ、食べ物の匂いに誘われてどこかに行っちゃったよ。ティティールも波動とかで分かるんじゃないの?」
「波動? 随分と古い言い方をするのね。ソラは分かるんじゃないの?」
彼女の赤い瞳が見開かれる。ソラは意識を集中させた。ロロの波動は露天の方から感じる。元々、ロロの性格上そこにいるのは調べなくても分かることだった。露天からはいい匂いが漂ってくる。
「……。あっちの露店の方にいるよ」
ソラが露天を指差すと、ティティールが嬉しそうに飛び跳ねた。
「流石、勇者ですわ! ほら、行きましょう! アーチェ、ソラ!」
ティティールが露店の方に足を運ぶ。ソラもロロの元に向かいたかったが、市場の隣にある豪華な家から何やら気になる波動を検知したのだ。
「ごめん、先行ってて。気になる事があって! すぐ追いかけるから――」
「あ、ソラ」
アーチェが呼び止める声が聞こえたが、杞憂であったら困る。ソラは市場を横切ると、その家を見つめた。
午後の光が傾き、黄金色の光線が石畳のアプローチを斜めに照らしていた。目の前には、まるで夢の中から抜け出したような豪奢な屋敷がそびえている。
白大理石の壁に、黒鉄の門扉には繊細な蔦の模様が絡んでいた。
ソラはその門の前に立ち、息を整えた。聞こえるのは風の音と、遠くで揺れる噴水のしずくの音だけ。
ソラは家の前の階段をゆっくりと登った。ひと段、またひと段。上へ進むにつれて、屋敷に潜む静けさが深くなっていく。
階段を登りきった先には、想像を超える庭園だ。
白砂が敷かれ、松や竹が整然と植えられた中に、透明な池が静かに光をたたえていた。池の中央には小さな石橋がかかり、鯉がその下をゆったりと泳いでいる。水面が風に揺れるたび、陽光が反射して天井のような空を淡く染めた。
ソラは息をのんだ。こんなに豪華な家は初めて見た。その庭を横切るとドアノブに手をかける。
ドアノブに手をかけた瞬間、ソラの鼓動がひときわ大きく鳴った。冷たい金属が指先にまとわりつく。鍵はかかっていなかった。
軽く押すと、扉は音もなく開いた。重厚なドアのはずなのに、まるで歓迎するように滑らかに。
中は薄暗く、外の光を拒むように厚手のカーテンが閉じられていた。靴底が大理石の床を踏むたび、乾いた音が響く。
香りが漂っていた。古い木の匂いと、ほんのり甘い香水の残り香。
ソラは息を潜め、静かに歩を進める。目の前に広がるのは、信じられないほど広いリビングだった。
壁一面を覆うガラス窓の向こうには、夜の庭園がぼんやりと浮かび上がっている。天井は高く、金色の装飾が細工され、シャンデリアが闇の中でわずかにきらめいていた。
革張りのソファ、磨かれたピアノ、棚に整然と並ぶ洋書。どれも手入れが行き届いている。部屋の隅々に多くの絵が置かれていた。
ソラはその中心に立ち尽くした。
リビングの中央に人の影が二つ、揺れていた。
小さな子供が床に座り込んでいる。白いシャツが涙で濡れ、肩が小刻みに震えていた。
そのすぐ側に、背の高い男がいた。厚い背中、重たい息。手には、金属の光を放つものが握られている。
刃物だ。月の光がその表面を一瞬だけ照らし、ソラの目に焼き付いた。その子供は男によく似ていた。
男の腕が、ゆっくりと持ち上がる。空気が、ひとつの音も立てずに凍りつく。
子供の小さなすすり泣きが、リビングの広さの中でひどく遠くに聞こえる。
ソラの体は自然に動く。背中の剣を引き抜くと、男の腕を切り裂いた。切断された男の腕が宙を舞う。その光景には見覚えがあった。
血が噴き出し、白いカーテンに赤い斑点を描いた。
男は苦痛に顔を歪め、後ろへと倒れ込む。こんな幼い子供に何をしようとしているのだ。
怒りが湧き、何やらドス黒いものがソラの体を駆け巡った。その黒いものにソラは体を蝕まれんとして――。
「お姉ちゃん!」
子供が抱きついてきた。彼の黒が風に揺らぐ。その小さな顔を見た瞬間、ソラは現実に引き戻される。
ソラが男の方を振り返った時には男はもう逃げていた。彼の血の跡が入り口まで続いている。追うこともできるが、今はこの小さな子供を保護することが先決だ。あのような見た目で逃げているのだから、どのみち逃げられないだろう。
ソラは子供の頬に手を置いて、涙を拭った。さぞ、怖かっただろう。
「もう、大丈夫だよ。怖かったね」
「ち、違うんだよ……。違うんだ……」
「?」
子供は泣きじゃくりながらもそう言った。ソラはその言葉の意味が分からずに、子供の次の言葉を待った。
「僕は、僕は絵の材料にならなくちゃいけなかったんだよ……。どうして、助けたの? やっと死ねると思ったのに……!」
子供のか細い声が広いリビングにこだました。
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