53.君のそばには僕がいるよ
霧が深く立ち込める森の中、四人は足を踏み入れた。地面は湿ってぬかるみ、靴底が吸い込まれるような感触に思わず足を止める。木々は絡み合い、幹の隙間から覗く影は、まるでこちらをじっと観察している生き物のようだ。
ソラは小さく肩をすくめ、剣の柄に手をかける。
「……みんな、気をつけて。ここ、何が起こるかわからない……」
その声には恐怖が滲むが、同時に探究心も含まれていた。足を前に出すたびに、胸の奥で恐怖と冒険心が入り混じり、鼓動が速くなる。
ティティールは扇を握りしめ、赤い瞳を細めた。その瞳には年相応の怯えがあった。
「誘惑の森なのよ! 甘く見てはいけませんのよ!」
その声は毅然としているが、胸の奥では心拍が早くなるのを感じていた。森の気配が、皮膚の下をぞくぞくと這うように忍び寄るのだ。
ロロは半ば呆れながらも、少し身を屈めて前方を見た。
「……なんだよ、この森。話に聞いてたより、ずっと気味が悪いな」
口に出して言うことで、心の中の緊張を誤魔化していた。影が動くたびに、体の奥がざわつく。けれど、どこか心の奥底では「面白そうだ」という気持ちもくすぶっていた。
アーチェは頭を傾げ、布にくるまれた卵を抱きしめる。ロロが何度もツタで転びそうになったのをみかねて、アーチェが持つことにしたのだ。
卵はそんなに重くないらしく、アーチェでも持てるらしい。ソラも持ちたかったが、ロロに持ったらヒビが入るから止めろと言われてしまった。心外だ。確かに料理の際に、卵を何度も潰してしまったが、だからといって竜の卵を潰したりなんかしない。多分――。
「……ここから出た方が良くない? 森自体が何かを隠していそう」
普段は落ち着いているアーチェも、薄暗い霧に包まれた景色に警戒心を募らせる。呼吸が少し早くなり、握った卵の感触に自分の心を落ち着けようとしていた。
木々の間を進むたび、影が揺れ、時折風が吹き抜けるたびに葉のざわめきが低く囁きに聞こえる。森は四人の呼吸や足音さえ吸い込み、まるで森自体が彼らをじっと試しているかのようだった。
「……なんだか、見られてる気がする」
ソラは小声でつぶやいた。波動を感じないが、何か不気味だ。
ティティールはうなずき、扇を軽く振る。
「その感覚、きっと正しいですわ。この森はただの森ではありませんのよ……心を惑わせ、その森の一部にしてしまうという話です」
ロロは眉をひそめ、剣を握り直す。
「ふぅ……とにかく、気を抜くな。何があっても、俺たちで助け合うしかない」
その言葉に、四人の足取りは少しだけ固まったが、互いの存在が小さな安心を与えていた。
森の奥へと進むにつれ、霧は濃くなり、影はより長く、不気味に伸びていく。低く漂う甘い匂いに顔をしかめるティティール。枝のざわめきが囁きに聞こえ、足元の土が吸い込むような感触でソラの心臓が跳ねる。
白い靄がやがて、ソラたちを包み込んだ。その靄からは不思議な香りがした。甘くて落ち着く香り。
「……! ソラ、みんな! この匂いを嗅いでは駄目ですわ!」
「何だ? いきなり……」
大声を上げて、口元を塞いだティティールにロロは眉をひそめた。アーチェは卵を持ち直す。
「思い出したのです! この匂いを嗅いだ人間は誘惑に囚われてしまうのです! 決して誘惑の手を掴んでは……!」
「……」
それはソラの聞いた最後の言葉だった。
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目を開けるとソラは真っ白い空間にいた。そこには何もない。
霧のような白に包まれた空間――地面も、空も、すべてが真っ白で境界が消えた世界。ソラは足を進めるたびに、自分の影さえも見失いそうになった。呼吸の音、足音、それ以外のすべてが吸い込まれるようで、心がぽっかりと空洞になる。
「ここ……どこ……?」
小さくつぶやく声は、自分の耳に吸い込まれていく。足元も感覚が曖昧で、一歩を踏み出すたびにふわりと宙に浮くような違和感がある。
しばらくソラはそこを歩いた。そこには何もないのだ。歩いても何も景色が変わらない。不気味な空間だった。けれど、どこか懐かしさを覚える。それを打ち破ったのは声だった。
白の海に孤独に漂う声――それは、子供のものだった。
前を見据えると、白に溶け込むように、小さな影が座っていた。膝を抱え込み、体を丸めて泣いている――その姿から、孤独と不安が漂ってくる。ソラは胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じた。見た目は六歳ほどだろうか。髪の色は黒に近い灰色だ。灰色がかった黒髪、とでも言うべきだろうか。
ソラはその子供に近寄った。
「……大丈夫?」
思わず声が漏れた。空間は静かすぎて、声は自分の胸に跳ね返るようだった。子供は小さく首を振る。すすり泣きだけが、白い世界にかすかに響く。
ソラは膝を曲げて、少しずつ子供に近づく。手の先に、温もりを伝えたい――ただそれだけの思いだった。
「怖いよね……ここ、私もよく分からないけど、でも……ひとりじゃない」
手を差し伸べると、子供は一瞬、視線を上げた。涙が頬を伝い、無垢な瞳がソラを見つめる。その瞳は紫色だった。恐怖と不信、そして少しの期待が混ざったその目に、ソラは息を呑んだ。その瞳をソラは知っている。いつも自分の側にいる彼の目だった。右目は髪に隠されていて見えない。
「来て……僕の手を取って……」
言葉は震えていた。彼はゆっくりとソラに手を伸ばしてきた。その子供の小さな手をソラは咄嗟に握ってしまった。
白い空間は静かに二人を包み込む。冷たくも温かくもない、境界のない空間で、ただ手と手が触れ合うその瞬間だけ、確かな存在があった。その瞬間、世界は色を持った。白い空間が色に染まっていく。その瞬間、世界が創られた。
目の前の子供は――彼はもう泣いていなかった。その顔に笑顔を浮かべて、ソラの手を握り返した。
「そ……ら? ……ソラ?」
自身の名前を呼ぶ優しい声が聞こえた。ソラはその声が好きだった。聞いているだけで落ち着く優しい声。ソラはその声に目を開けた。
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そこは草原だった。とても綺麗な草原。その丘の上でソラは寝転んでいた。誰かがソラに手を差し伸べる。その手はソラよりも大きかった。ソラはその手の持ち主の先を辿った。その手は作り物ではなかった。
「寝てたの? もう家に帰る時間だよ」
優しい瞳。紫色の慈愛に満ちた瞳。ソラはゆっくりと名前を口にした。
「ろろ……?」
「うん、どうかしたの? 随分と長く寝ていたね」
彼は笑みを浮かべた。ソラの手を掴むと、ソラを丁寧に立ち上がらせた。彼の左足は確かにあった。ソラはロロをジッと見つめた。彼は少し顔を赤らめて、その顔を背けた。
「どうしたの? そんなにジッと見て」
「手、足……もある」
「? 何言ってるの? 当然じゃない。何か変な夢を見てたんじゃないの?」
ロロはそれを聞いてくすくすと笑った。ソラ自身も、どうしてそんなことを尋ねたのかと思った。ロロに手も足もあるのなんて当たり前なのだ。ロロがその手をソラの頬に当てた。
「きっと長い夢を見てたんだね。ほら、僕たちの家に帰ろう?」
ロロがソラの手を握った。その手は白い空間で握ったものと全く同じものだった――。
ソラはその手を握り返した。きっと悪い夢を見ていたのだ。
ソラは家に――帰るべき場所に行くのだ。
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