40.黄金と白銀 1章完結 2章に続く
ローテリヴァ国には、いつも風が吹いていた。
高い城壁に囲まれたこの王城は、白い石造りの塔が幾重にも連なり、空を突き刺すようにそびえている。
そこが、第一王子ローテリヴァ・ヴァン・ローテリヴァの家であり、牢でもあった。
国王にはつまり、ローレンツの父親には多くの妃と子供がいた。ローレンツは第十一王子だった。母親はあまりいい身分ではなく、権力もなかった。体は弱く、実の息子のローレンツですらあまり会ったことがない。彼女は療養をしているのだという。
しかし、ローレンツは母の真意が幼いながらに分かっていた。ローテリヴァ王国では王座は争うものだ。物心ついてから一体何人の兄弟が死んだのかもう分からなくなってしまった。
ローレンツだって本当は十一番目の子供ではないのだ。前に生まれた兄が何人もいた。
母は諦めているのだ。権力も知力もない自身の息子が生き残れないと思っているのだ。だから、彼女は息子に愛情をかけない。しかし考えてみれば、ローレンツが生き残っているのは本当に不思議な事だ。
廊下ですれ違うメイドや執事もローレンツのことを不思議なものでも観察するかのように見てくるのだ。新人ほどその傾向が強い。一体、ローレンツのどこがそんなに物珍しいのだろう。
ローレンツは草原に寝転び、待っていた。もうかなり時間が経っている。早く来ないと次の訓練が始まる時間になってしまう。ローレンツがソワソワしていると、足音が聞こえた。嬉しくてたまらず、すぐに立ち上がる
「ローレ!」
「エド!」
弟のエドワードが駆けて来る。ローレンツより三ヶ月遅く生まれた彼は同い年の弟で、ローレンツの一番の親友だった。
王宮の庭の噴水のそばで、木の枝を剣にして戦いごっこをしたり、黄金の夕暮れに白い鳩を追いかけたり。彼の笑い声は、太陽みたいにあたたかくて、ローレンツはその声を聞くと胸がふわっとするのを感じた。彼と過ごしている時は、厳しい訓練や権力争いの事など、辛い事を全て忘れられるのだ。
「ローレ! 次は僕が騎士で、君がドラゴンだ!」
「やだよ、昨日もドラゴンだったじゃないか!」
ローレンツは不満を言った。いつもそんなふうに笑っていた。王族としての訓練の時間以外は、ほとんど一心同体だった。鏡の中のもう一人のように思っていた。
エドワードの母親はイザベラといった。
彼女は南方の名門貴族の娘で、美しく、聡明で、何より強欲だった。ローレンツはその人が苦手だった。いつも怖い目をして他の子供を睨むのだ。
エドワードは紛うことなきそのイザベの子。でも、彼は母親とは全く似ていない。見た目も性格も。
ローレンツとエドワードは同じ年に生まれた。同じ年に産声を上げたのだ。
遊び相手を見つけるのに苦労する城の中で、年の近い二人は最高の遊び相手だった。幼いローレンツにとって、エドワードは大事な友達だった。
彼の母親に見つからないように可能な時間は一緒に過ごした。ローレンツが読み書きを覚えれば、彼もすぐに真似をした。ローレンツが剣を振れば、エドワードは盾を構えて笑った。
ある日、エドワードが空を指差して言った。
「ねえ、ローレ。僕たち、大きくなったら二人で王様になろうよ」
「エドは馬鹿だなぁ。王様は一人なんだよ。絶対そうなの!」
ローレンツは首を横に振った。二人で王様など聞いた事がない。そもそも、国で一番偉いのが王様なのだ。二人もいるなど、絶対に変だし実現しない。
「ローレは頭が硬いんだから。じゃあ、僕が王様になったら、ローレを王様にして、二人で王様!」
「何それ、変だよそれ」
ローレンツの言葉にエドワードが笑い出す。
「ハハハハ!」
二人で顔を見合わせて笑い合う。しばらくして、二人で笑うのを辞めた。
「サーベルト兄さん、死んじゃったんだって」
「知ってる……」
エドワードがポツリと言った言葉にローレンツはそう返した。サーベルトのことは少し知っている。大人の顔色をうかがい、怯えているローレンツに甘いチョコーレートをくれた。
笑顔が素敵な人だった。そのチョコレートを食べたあとは、乳母に散々怒られたものだ。毒を盛られていたらどうするのかと、喚いていた。確かに軽率だったが、食べたあとは何もなかった。
「だからさ、僕達が王様になったら、凄い優しい国を作るの。その国では兄弟で殺し合ったりしないんだ」
エドワードは宣言する。それはローレンツが考えた事もないような、だいそれた事だった。やはり、エドワードは凄い。しかしそれを口にするのは、はばかられた。
「エドには無理だよ。僕が先に王様になるからね。エドがそのあと!」
「ローレもきっといい王様になるよ」
そう言って、彼は子どものくせに真剣な目をした。
その瞳の奥には、僕を守ろうとする光があった。そのときの僕は、彼の言葉を疑わなかった。
まさか、その手が僕を裏切る日が来るなんて思いもしなかったんだ。
イザベラは、ローレンツの存在を邪魔に思っていた。彼女にとってローレンツは、「王座を奪う他人の子」でしかなかったのだろう。そんな大人の事情など深くは考えられなかった。彼女の言葉に、振る舞いに、毒が潜んでいることを、六歳のローレンツが見抜けるはずもなかったのだ。
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その日、午後の陽射しは金色に輝いていた。
中庭の噴水の水しぶきが虹を作り、風が白い花びらを運んでいた。いつも通り二人は木の枝を剣にして戦いごっこをしていた。
「ローレ、負けたらおやつを分けるんだぞ!」
「ずるい! エドが先に当てたくせに!」
笑いながら転げ回る僕らを、侍女たちは微笑ましく見守っていた。あの笑顔の中に、あんな夜が待っているとは、誰も思っていなかった。
日が傾き始めたころ、エドワードが言った。
「母上が君に話があるんだって。少し遠いんだけど、一緒に来てほしいんだ」
「僕に? どうして?」
彼の母親、イザベラに呼ばれることなど初めてのことだった。本来なら、他の王子の母親の元に行くなど暗黙の了解で禁止されている。
「分からないけど……たぶん、いい話だよ! 一緒に来てよ!」
エドワードはいつものように柔らかい笑顔を浮かべた。ローレンツは彼の手を握った。
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馬車は静かに動き出した。窓には黒い布がかけられ、外の景色は見えなかった。最初は王城の石畳の音、やがて道が土に変わり、車輪がごとごとと音を立て始めた。
「ねえ、どこまで行くの?」
「……すぐ着くよ」
彼の声は小さく、どこか震えていた。ローレンツはその手を握った。
「だいじょうぶ? エド……」
「……うん」
やがて馬車は止まった。
扉が開くと、そこには見知らぬ建物――古びた倉庫のような場所があった。空気が違う。甘い花の香りではなく、湿った鉄と汗の匂いがした。
ローレンツの胸の奥がざわついた。ここにいてはいけない気がする。
「ここ……どこ?」
答えの代わりに、男たちが近づいてきた。無精髭を生やし、目つきの悪い男たち。彼らは僕を見てにやりと笑う。
「こいつが例のガキか。なるほど、王子様とは思えねぇが、いい顔してる」
僕は後ずさった。どう見ても普通の状況ではない。 幼いローレンツは未だに状況を理解出来ていなかった。
「エド、どういうこと? この人たち誰?」
そのとき、イザベラが現れた。薄いベールをかけ、香の匂いをまとっていた。彼女はゆっくり僕の前に立ち、笑った。エドワードの母親であることが信じられないほど、冷たい目だった。
「ローレンツ。あなたは今日から旅に出るの。遠い国で、新しい人生を送るのよ」
「え……?」
その言葉の意味が分からなかった。けれど、男たちが腕を摑んだ瞬間、全てを悟った。
「やめてよ! 離して!」
イザベラは微笑を崩さず、エドワードの肩に手を置いた。エドワードは信じられないという様子でその光景を見つめていた。
「エドワード、心配しないで。あなたが次の王になるのよ。お兄様の分まで、立派な王に――」
「やめて!」
エドワードは叫んだ。彼の手がローレンツに迫る。しかし、大男に突き飛ばされてしまった。
「エド!」
エドワードの唇が震えた。彼は母の袖をつかみ、涙をこぼした。
「母上、やめて! ローレンツを離してよ!」
「静かにしなさい」
イザベラの声は冷たく、鋭く、彼の抗いを断ち切った。そしてローレンツに視線を向け、まるで優しく子守歌を歌うように言った。
「さようなら、ローレンツ。あなたがいなければ、この国はエドワードのものになるの」
その瞬間、男たちは僕を引きずっていった。足がもつれ、地面に膝を打ち、痛みとともに、幼い心が砕けていった。
「エド!!!」
叫びは空へ吸い込まれ、返事はなかった。
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その夜、薄暗い牢のような部屋の中で、僕は一人泣いた。窓の外に星は見えない。ただ、遠くで馬のいななきが聞こえた。
「エド……」
呟いた名は、もう届かない。
しかし、あの日の彼の瞳を、ローレンツはまだ覚えている。あれは、裏切りの瞳ではなかった。
それは、助けたくても助けられなかった、弟の涙の色だった。
黄金の午後の光が、もう一度戻る日は来るのだろうか。ローレンツは小さな胸の奥で、その答えを探し続けていた。
あの黄金の午後、二人で追いかけた鳩はもう戻ってこなかった。
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行き着いた先は奴隷の労働場だった。毎日殴られ、ムチで打たれる。こんな日々だが、涙は我慢した。
しかしある日、ローレンツは課せられた積み荷を運ぶことが出来ずに、地面にうずくまっていた。とうとう気を保てなくなったのだ。
誰もローレンツに手を差し伸べない。他の奴隷たちは悪くない。みんな自分を守るのに必死だった。
もしローレンツがそれを見ている立場だったとしても、手は差し伸べなかっただろう。そうやって動かないでいると、すぐに怖い人たちが来る。
けれどもう動けない。体は動けるが、寂しくて辛くてもう立ち上がれなかった。ローレンツの瞳から涙が出た。辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い。誰か助けて。
「……大丈夫? 君……」
ローレンツの目の前に小さな手が差し出された。否、ローレンツよりは大きいのだが、それは子供の手だった。白くて傷だらけの痛々しい手。
銀髪に青い目の少女がローレンツに向けて手を差し伸べていた。陽の届かぬ牢獄で、ただ一筋の光のように銀の髪がなびいた。辛くて苦しい中に差し出されたその手に、一瞬だけお迎えがきたのかと思ったほどだった。
「立てる? ……名前は?」
その言葉にローレンツは自身の名を久しぶりに思い出した。それと同時にその名前を親しげに愛称で呼ぶ彼の姿が浮かぶ。ローレンツは涙を流しながら、首を左右に振った。
「嫌い。この名前もうやだ……」
少女はこんなことを初対面で言われて戸惑っただろう。実際、彼女は少しの間黙り込んでいた。
「名前、何ていうの?」
「……ローレンツ・ヴァン・ローテリヴァ」
この名前を名乗っていいかは分からなかった。けれど、それ以外に言う言葉がなかった。
「ローレンツ……ローテリヴァ……」
彼女はその言葉を繰り返し呟いた。
「じゃあ、ロロ」
「え……」
「ローレンツ、ローテリヴァだからロロっていう名前はどう?」
彼女は再び手を伸ばしてきた。ローレンツは――ロロはその手にゆっくりと自身の手を伸ばした。
その日、ロロは生きる希望を、名前も――全てを彼女から貰ったのだ。
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