24.忘却の赤い薬
その老婆は体に無数の傷跡があった。面構えからも、かなりの戦場を生き抜いてきたことが容易に想像できる。カダと同じ目の色だ。眉間に皺を寄せて、彼女は高らかに笑った。
「ハハ、あのセザールがワシの心配とはな。長生きはしてみるものじゃ」
「また余計なことを。リーザル、我はいらなかったかな?」
「客人を門前払いするわけにはいかん。連れがいるようだしな」
リーザルはソラに目を向けると、勇ましい目から穏やかな目へと変化した。
その目からリーザルが人当たりの良い人物であることが分かった。波動を読み取ると、少し揺らいでいる。体が不調なのは本当のようだ。ソラは招かれるがままに家に上がる。
「ソラ、リーザルには気をつけろよ。首元に薙刀を突きつけられるかもしれぬぞ」
セザールが顔を近づけて、ソラに耳打ちをする。リーザルはもちろん聞こえていて、舌打ちをした。
「ふん、そんなことお前にしかせん。今、茶菓子を用意しよう」
リーザルはキッチンと思われる場所に歩き出した。少し足元がふらついている。
「良ければ我が――」
「お前の菓子は不味すぎて食えん。ほれ、そこに座っとれ」
リーザルが大部屋の椅子にセザールを無理やり座らせる。カダは外で素振りをしているのが、窓からうかがえた。
「うーむ、あれが病人か?」
セザールは両肘を膝に当てて顎を支えた。
「元気そうでしたけど、波動が少し不調でしたね」
「おぉ、ソラも人の体調まで分かるようになったか。どうだ? 波動は使い心地が良いだろう?」
セザールは得意げに聞いてくる。波動を教えた本人としては、波動を使われるのは嬉しいのだろう。しかしソラはそのことを全面的には肯定できずにいた。
「うん。でも、あまり人には使いたくないかな」
「なぜ?」
彼の目がソラを映す。
「こう、人のことをその人に聞かないで知るっていうのが、なんか良くないことかなって……」
自分の気持ちをうまく言葉にできなかったが、セザールは「分かるぞ」というように頷いた。
「そうだな。それは我も思う。いやいや、ソラは本当に昔の我そっくりだ」
昔の我。それは褒め言葉なのだろうか。そもそも全然似てないと思うが。
「昔のセザールってどんな感じだったの? 本では知ってるんだけど、なんか本と雰囲気が違うかなって」
本の中でのセザールは血気盛んな若者という感じで、今のセザールとは似ても似つかない。本だから、多少史実とは違うのかと思ったが、セザールがそんな嘘を本に書くとは思えなかった。
「昔の我は野蛮でな。我は強く、人より優れていると信じて疑わなかったよ」
セザールは笑いながら語った。それは本での主人公と共通している。
「想像できないな」
「ハハハハ、あの頃の我は本当に愚かであったな。世界を旅しても、自分にはもっと相応しい場所があると考えていた。あんな自伝など残し、家族も捨てて海に漕ぎ出したのだ」
「人に歴史ありだね」
その言葉はセザールの人生にぴったりだった。彼の生き様はまさに波乱万丈と言えよう。
「実にその通りだ」
「あの、リーザルって人は――」
ソラは気になることを聞こうとしたが、言葉が詰まる。あまり人の関係を聞くのはよくないだろうか。しかし、セザールは質問にすらなっていないその言葉に不満を見せることはなかった。
「我の初恋の相手さ。しかし、その頃の我はまだ若く、素直に気持ちを伝えられなかったのがこのざまだ。気がついたら彼女は他の人と結婚していたよ。いつの間にか子供までいてね」
セザールは悲しげな表情を作る。ソラは一瞬、言葉を失った。セザールにとっては苦い過去なのだ。同時に、先ほどの彼の言葉も理解できた。
「だから、カダは特別なんだね」
「正解だ。あぁ、ソラよ。好きな人がいるのなら、その気持ちを素直に伝えた方が良いぞ。恋はタイミングだ。逃せば全てを失う。当たって砕けろだ!」
「できれば砕けたくはないかな」
「まさにその通りだ! ハハ」
彼はあまりいい思い出を語ったにもかかわらず、あっけらかんとして笑っていた。しかし、一瞬で真顔に戻る。
「して、ソラよ。記憶を失っていると前に聞いたが、あれの原因はなんだったかな?」
「あぁ、まだ言ってなかったね。ロロが飛ばした木の実が頭に当たったんだって。私は覚えてないんだけど……」
「それは嘘だな」
「な?! ど、どうしてそんなことを?」
断言するセザールにソラは唖然とした。「嘘」という言葉に、かなり前に感じた感情がまた蘇る。
「これを見てみるが良い」
「これは、確かアーチェが本来持ってた瓶だね」
セザールが懐から取り出したそれは小瓶だった。アーチェが持っていたのを覚えている。今はロロが持っていただろうか。赤い液体が揺らめいている。
「それは薬だ。アセートーラという薬だよ」
「これがどうしたの? アーチェは医者だし、薬ぐらい持ってるのは当然だよ」
セザールが何を言いたいのかが理解できない。しかし、セザールは何かをソラに伝えようとしている。そしてそれは、あまり良いことではない気がした。
「これは人の記憶を失わせる薬だ」
「!」
予想もしていなかったセザールの言葉に、ソラは息を詰まらせた。記憶を失う――意味が分からない。いや、意味は分かるのだが、脳が理解を拒んでいた。混乱するソラにセザールは止めどなく言葉を浴びせる。
「おかしいとは思わなかったか? 普通はそんなことで記憶を失ったりしないであろう」
「で、でも打ちどころが悪ければ……」
そう、頭は非常に重要な生命器官だ。少しの衝撃で不調を起こすこともあるだろう。
「あり得ない話ではない。しかし、現実的ではないな。それに、こんな薬があること自体がもうそれを否定しているだろう?」
「……」
セザールの言葉は正しい。しかし、正しいことが人の心を救うとは限らない。胸がざわつき始める。
「そんな薬、なんの治療に使うというのだ。我の推理だと――そうだな。アーチェがソラにその薬を盛った。ロロがそのことに協力した」
ロロたちが共犯であることは、状況からしても簡単なことだ。ロロが投げた木の実をアーチェが外したという話は、二人が口裏を合わせなければ通用しない理由だった。しかし、その可能性が高くとも、確定していても、ソラはそんなことを信じたくはなかった。
「か、仮にそうだったとしても、なにかの事故かも」
「だとしたらなぜ隠す? 罪悪感からというのもあるかもしれないが、隠す方が後々波乱を生むだろう。それに、薬を持っていた理由にはならん」
ソラは黙りこくった。セザールの言葉から、そのときの二人の様子がありありと頭に浮かんだ。
「……」
「ロロたちが何かを隠していることには、とっくに気づいているのではないか? だとすれば普通は仲間を疑われたら怒る。ソラはそれをしないで、ただ我の推理を必死に否定しようとしている」
「返す言葉がないよ」
セザールの推理に、ソラは返答ができなかった。
「フフ、まぁ当たり前だがな。これはソラに渡しておくぞ。好きに使うが良い。ロロからすってきたのだ」
ソラはセザールから小瓶を受け取った。赤い液体がやけに不気味に思える。ソラがそれを眺めていると、茶菓子とお茶の香りが漂ってくる。
「ほらほら、辛気くさい話なんかしてんじゃないよ」
「リーザルよ。聞いていたか」
「ワシは人の事情に首を突っ込んだりせんよ。今の話は割と面白かったがね。その話、小説にしていいかね?」
リーザルはソラたちの前に茶菓子とお茶を置いた。リーザルは人の気も知らず、のん気に笑っている。その様子はセザールに似ていた。
ソラは窓の外を見ると、ハクの言葉を思い出した。
――赤血と俺らでは分かり合えない。
その言葉が頭に何度も響いた。
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