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155.逆鱗

「アーチェさん、俺はもう疲れたので休みたいんですけど」


 森を少し歩いたところで、ロロのそんな言葉が耳に飛び込んできた。まだ、少しも森を探索していない。アーチェは生態調査の本から目を離すことなく、答えた。答えながらも、見かけた動物のところにチェックを入れていく。


「もう少ししたら、お弁当をあげるから」


 宿屋の人が好意で持たせてくれたのだ。お陰で食べ物代が浮いて助かった。お金に余裕があるとはいえ、絵も買ってしまったし、貯めておくのに損はない。一度お金がなくなってしまい、草をかじっていたあの頃には戻りたくなかった。どの草が美味しいかなどの、知識をもうこれ以上導入したくない。


「お弁当って何が入ってるんですか?」


 ロロは中身が気になっているようだ。弁当の中身は開けていないので何が入っているかは、分からない。しかしいい匂いがすることから、美味しいものが入っていることは分かる。


「卵と唐揚げ?」


 匂いからアーチェはそう推測した。どちらも、ロロの大好物だ。そもそも、ロロはパン以外のものだったら、何でも大好物になってしまう。


「今、食べちゃいましょうよ」


 ロロがバックを下ろすと、早速弁当を取り出した。アーチェの意見関係なく、弁当を食べる気満々のようだ。今はまだ昼前。昼ご飯を食べるにしては、まだ早い時間だ。こんな時間に食べてしまったら、帰りに腹が減って仕方ないだろう。


「そうしたら、帰りにお腹が空いちゃうだろ?」

  

 アーチェの口からはもっともな言葉が出ていた。


「私も今食べるの賛成!」


 意外にもアリアはロロの意見に同調した。アリアのことだから、ロロを諌めてくれると思ったのだが、そうでもなかったようだ。しかしアリアの表情を見て、彼女はまだほんの子供だということに気付かされた。

 アーチェが大人びているアリアに色々と期待しすぎなのだ。この反応が子供としては自然なのだ。


「アリア。先に開けるなよ。お?! 凄い、おかずがたくさん入ってる!」


 ロロが弁当の中を見て、双眸を輝かせた。その瞳の輝きと言ったら、まるで宝石箱を眺めているようだ。比喩でも何でもなく、ロロにとってはそれが宝石箱なのだろう。実際、弁当の中には色とりどりのおかずやご飯が入っており、とても美味しそうだ。


「二人はお弁当が好きだね」


 アーチェは止めることを諦めると、辺りを警戒し始めた。ここは嫌な気配がする。一見、何の変哲もない森に見えるが、油断はできない。岩の上に飛び乗ると、そこから森を少しだけ眺めることができた。森にはアーチェが想像していたような変化は見られなかった。


「アーチェさんもそんなところにいずに、一緒に食べましょうよ」


「僕はあまりお腹減ってないから、あとで食べるよ」


 本当は弁当の香りに釣られていたが、一人でも見張りをしなければいけない。食べるのはあとでも十分だ。ロロはそれを聞いて心底残念そうな顔をした。

 ロロは今でもアーチェのことをさん付けで呼ぶし、敬語も使う。何だか変な気持ちになるので、辞めさせようとしたが一年経ってもそれは継続していた。


「この卵焼き美味しい!」


 アリアは食べ物にすっかりと夢中になっている。そんな様子を見ていると、まるでロロが二人になったみたいだ。アーチェはそんな二人の様子を見て、気が緩んでしまう。別に何も警戒することはなかったのかもしれない。そう思って岩から降りようとした時だった――。


「グゥルル」


「わーぁ!」


 唸り声が聞こえた。それからか細くて小さな子どもの声だ。音の情報からも、何か良くないことが起きているのが確認できる。


「二人ともそこで食べてて。少しだけ森の様子を見てくる」


 二人は食べるのに夢中で、その声が聞こえなかったようだ。だが、今ばかりはそれでよい。二人を危険な目に遭わせる必要はないのだ。アーチェは二人が不思議そうな顔をして頷くのを見て、森に飛び込んだ。


 そのまま声の方向に向けて、森の中を転がるように走っていく。しかし、道がかなり荒れており、思うようにスピードを出すことができなかった。道に沿う並木を見て、アーチェはそれらに飛び乗った。

 そのまま、木を蹴りながら前進していく。どんどんとスピードを上げると、まるで空を飛んでいるような気持ちになった。


「わー! こっちに来るな!」 


「グオォォ!!」


 木で何かを叩く音が聞こえた。それとほぼ同時にそれが折れる音も。唸り声はどんどんと大きくなっていく。アーチェは足に力を入れると、一気に跳躍した。こういう時ばかりは、軽い自身の体が役に立った。


 アーチェが下を見下ろすと、小さな少年が岩壁に追い込まれていた。震える手で、半分に折れてしまったであろう木の棒を握りしめている。それを眺めるのは少年を追い詰める紅色の竜だった。


「紅の……竜」


 その姿を見て、アーチェは小さな小竜を思い出した。


「ヘリオ!」


 アーチェは無駄だと思いつつ、恐らくその竜の名前であろうと叫んだ。紅竜がゆっくりとこちらを見上げた。その赤き瞳は、とても冷たかった。


「グルルル!!」


 途端、アーチェは紅竜に尾で弾き飛ばされる形となった。そのまま木に激突し、痛みに刃を食いしばった。だが幸いにも、紅竜の意識をこちらに向けることに成功したようだ。紅竜は小さな少年には見向きもせずに、こちらに足音を立てながら迫って来る。その瞳に優しさはなく、野生としての獰猛さに満ちていた。


「ヘリオ、僕だ! アーチェだ! 覚えてないか?!」

  

「グオォォ!!」  


 アーチェは繰り出される前足の攻撃を避けながら、呼びかけた。しかし、無情にも返されるのは威嚇の声だけだった。紅竜――ヘリオはアーチェを完全に敵だと認識していた。それは無理もないことだった。あれから、ずいぶんと時間が経ってしまった。アーチェを忘れて、野生に戻るぐらいには――。


『アーチェ、人は一度あったことは忘れないんだ。思い出すのに時間を要してしまうだけで』


 アーチェは亡き父の言葉を思い出した。どうしたらいいか、そう考えた時に咄嗟に手に触れるものがあった。


「これだ!!」


 アーチェは迷うことなく、それを掴んだ。

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