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151.遥かなる旅路

 甲板に出ると、潮の匂いを含んだ風が頬を撫でた。足元では船がゆったりと軋み、規則正しい波音が船腹を叩いている。視線の先では、さっきまで立っていた港がゆっくりと遠ざかっていた。


 桟橋の影は細く伸び、建物の輪郭も次第に滲んでいく。人の姿はもう判別できず、色の塊が並んでいるだけになっていた。それでも、あそこに自分のいた時間が確かに残っている気がして、しばらく目を離せなかった。


 海はどこまでも広く、陽の光を受けてきらきらと揺れている。振り返れば進む先には見知らぬ水平線が広がり、その境目に立っているような感覚が、不思議と胸を熱くした。


 やがて陸地は薄い線になり、空と海の境に溶け込んでいく。完全に見えなくなるその瞬間まで見届けてから、ようやく前を向いた。潮風が強く吹き抜け、これから始まる旅を急かすように帆を鳴らしていた。


「アーチェさん! ここから、凄いいい景色が見えるよ!」


 考え込むアーチェの思考を遮ったのは、アリアの嬉々とした声だった。その後、最初に目に入ったのはマストにしがみつくアリアの姿だった。強い潮風に髪を揺らしながら、落ちないよう両腕で柱を抱え込み、それでも視線だけは海へ向けている。


 そんな危なっかしい体勢なのに、本人はまるで気にしていないらしい。水平線の向こうまで見通そうとするみたいに身を乗り出し、目を輝かせていた。きっと彼女の目には、この広い海のすべてが新鮮に映っているのだろう。あの村にずっと住んでいたということは、海さえも見たことがないに違いない。


 帆が風を孕んで大きく鳴り、船がゆっくりと進む。その揺れに合わせてアリアの体も小さく揺れるたび、思わず声をかけたくなる。けれど、楽しそうに笑う横顔を見ていると、その無邪気さを邪魔するのも違う気がした。


 未知の景色に胸を躍らせる姿は、見ているこちらまで少しだけ軽くしてくれる。潮の匂いを含んだ風の中で、僕はしばらくその様子を眺めていた。


「あんなところに乗って、あの子は大丈夫ですか?」


 ロロもアリアのことが心配になったようで、アーチェの横からアリアの姿を見守っていた。


 帆が大きく鳴った次の瞬間だった。

 突風が甲板を叩き、空気が一気に引き抜かれる。視界の端で、マストにしがみついていたアリアの体がふわりと浮いた。


「アリア!」


 叫ぶより早く、彼女の指が滑るのが見えた。小さな体が支えを失い、船縁の向こうへ傾いていく。時間が引き延ばされたみたいに遅く感じた。


 間に合わない。そう思った瞬間だった。黒い影が間に割り込んだ。いつの間にそこにいたのか、フードを深く被った男がアリアの腕を掴んでいた。海へ落ちかけた体が強引に引き戻され、勢いのまま男の胸にぶつかる。


 船が大きく揺れ、帆が唸る。それでも男の足取りは微動だにしなかった。片手だけで彼女を支えたまま、まるで最初からそこに立っていたかのように静かだ。

アリアは何が起きたのか理解しきれていない顔で、瞬きを繰り返している。


「……大丈夫か」


 低く落ち着いた声だった。男はそれだけ言うと、そっと彼女を甲板に立たせた。フードの奥は影になっていて表情は見えない。ただ、その動きには無駄がなく、妙に現実味がなかった。


 駆け寄ったアーチェの胸は、まだ早鐘を打っている。


「助かった……ありがとう」


 礼を言うと、男はわずかに肩を揺らしただけだった。肯定なのか無関心なのか分からない仕草。そして何事もなかったように身を翻し、帆柱の影へ溶けるように離れていく。


 さっきまでそこにいたはずの存在感が薄れていた。そこには、潮風だけが強く吹き抜ける。アーチェはアリアの無事を確かめながら、あの男の背中が消えた場所をしばらく見つめていたが、突如として大声が耳に飛び込んできた。


「こらーー!! ガキ共!! 何をやってやがる!

危ないだろうが?!」


 それはこの船を仕切る船長の声だった。



「さっきはアリアのせいで、酷い目にあったよ」


 ロロはうんざりとした態度を見せていたが、目の前の皿が運ばれてきた瞬間、ロロの目の色が変わった。


 湯気を立てる海鮮料理を前に、ほんの一瞬だけ固まったかと思うと、次の瞬間には手が伸びている。ためらいなんて欠片もない。焼き立ての魚を豪快に頬張り、甲殻を軽快な音で割っては身を引き抜き、口へ放り込んでいく。


「熱っ……うまっ!」


 そんなことを言いながらも、箸は止まらない。噛む、飲み込む、次を取る。その動きがやけに滑らかで、まるで長年訓練された作業みたいだった。


 皿の上の料理はみるみる減っていく。さっきまで山盛りだったはずなのに、気づけば半分以下だ。ロロは夢中で食べながら、幸せそうに頬を緩めている。


 潮の香りが残る料理を口いっぱいに詰め込みながら、彼は心底満足そうに息を吐いた。


「海の飯って最高ですね……」


 その言葉の説得力は、目の前の空になりかけた皿が何より雄弁に物語っていた。きっと、アリアのことで説教されたことなどもう忘れているに違いない。


「あの、ロロ……。ごめんね」


 アリアは珍しくシュンとした様子で謝罪をしたが、ロロは不思議そうに首を傾げた。


「うん? 何のこと? それより、これっておかわりはできるのかな?」


 思った通りだった。ロロの頭の中はもう食べ物のことでいっぱいだ。アーチェはポカーンとするアリアに目配せをした。  



 長い揺れに慣れた頃には、水平線の景色もすっかり日常になっていた。だからこそ、それが見えた瞬間、胸の奥が強く跳ねた。 


 遠く、海と空の境目に異質な影が浮かんでいる。

 最初はただの霞かと思った。けれど船が進むにつれて、その輪郭ははっきりと形を持ち始める。塔、壁、そして無数の建物が重なり合う巨大な都市、ダルカナルだった。


「見えてきた……」


 思わず声が漏れる。港が近づくにつれ、空気が変わった。潮の匂いに混じって、人と街の気配が流れ込んでくる。船の行き交う音、遠くから響く金属音、かすかな喧騒。それらすべてが、この都市の大きさを物語っていた。


 帆がゆっくりと畳まれ、船足が緩む。目の前には巨大な岸壁と、見上げるほどの建造物が連なっていた。ここまで来るだけで一年近くかかった。その現実が、ようやく実感として胸に落ちる。


 甲板に立ったまま、しばらく街を見上げる。

ここには、探し人の手がかりがあるかもしれない。強くなるための手がかりも、人の記憶も、まだ知らない世界も全てがこの先にある。 


 船が岸に触れ、小さな衝撃が足元を伝った。


「……着いた」


 呟いたその言葉は、思った以上に重かった。


 長い航路の終わり。そして、新しい物語の始まりだった。


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