136.マイナス地点 序章
「ねぇ、ソラ!」
無邪気な声が聞こえた。ここでそんな声を聞くことは酷く珍しいことだ。だからこそ、目を開けなくてもソラは誰が自身に呼びかけているのか、すぐに分かった。
「なに、ロロ?」
「ここから逃げようよ! 俺、すごくいい場所を見つけたんだよ! 地下に続いててね、そこから風を感じたから、外につながってると思うんだ」
ソラはゆっくりと目を開けた。そこには、ここにいるべきではない子供だと、すぐに分かる表情をしているロロがいた。ロロの瞳は希望に満ちていて、こんな掃き溜めみたいな場所には似合わないのだ。
ここに来る前のロロには良き理解者がいたのではないかと、思わせる。子供の表情には今まで育ってきた環境が出るものだ。
だからこそ、ここにロロの存在があることは、とても悲しいことだと思ってしまう。
「ねぇ、ソラ? 聞いてる?」
ロロがすがりついてきた。ロロのことは、弟のようなものだと思っている。実際に年下だし、人間はソラの種族よりも若干成長が遅い。ロロの腕はとても細く、濁っただけで折れてしまいそうだ。人間だということを加味しても、この背丈も肉付きも少し平均を下回っているのではないだろうか。
まぁ、この場所で生活をしていれば、そんな容姿になるのも無理はないことだ。ここでは、まともに食べられるものが出てくることはほとんどない。ソラの身体も布で隠してはいるが、かなり痩せていて、みすぼらしい。
「聞いた。けれど、それは無理だよ」
「どうして?」
ソラの否定の言葉に、ロロは傷付いた表情をした。申し訳ないが、ロロの言葉には賛同できない。
「ここから何人も出ようとした人を見てきたよ。だけど、その一人だって外には出られなかった」
それは紛うことなき事実だった。ソラとヘリオのあとにも、ここから逃げようとした人はいたが、どうなったかは言うまでもない。
「そんなの、分からないじゃない? もしかしたら、今度は上手くいくかも」
ロロの考えは悪く言えば楽観的。良く言えば、ポジティブだった。しかし、その考えは甘いと言わざるを得ない。
「いきっこないよ」
ソラの思考はつねにマイナスの方向に傾いていた。ヘリオを失ってからというもの、そんな思考に勝手になってしまうのだ。ソラは無意識にロロの手を握っていた。ヘリオだけではなく、ロロまでも失いたくはない。人との関わりを避けているソラだったが、ロロの存在にはかなり助けられているのだ。
「実は、ここだけの話なんだけどね。俺だけじゃないんだ。ここを逃げることを考えている人は……」
ロロは鞭を持っている監視員にバレないように、目線だけを動かした。ソラとロロは奴隷場でもよく働く方なので、自身の持ち場を片付けてしまえば、こうして話していても鞭を喰らうことはない。しかし、脱走計画を話しているとバレれば話は別だ。
ソラがロロの視線を追うと、そこには屈強な男の姿があった。その人には見覚えがある。暗い表情を見せ、他人を避けるソラに優しくしてくれる人物だ。ソラの少しあとに来た人で、その頑張な体を見て、なぜここにいるのかと問いかけたくなった。
彼の性格からすれば、脱走計画を考えていることは容易に想像ができた。彼はつねに何事にも熱心で、真っすぐと取り組む。老人が荷物を持つのに苦労していれば、すかさず助けに行く男だ。
ソラたちも唯一の子供というだけあって、かなり話しかけられることが多い。ソラはうっとおしく思っていたが、それはロロも同じだったはずだ。この二人に接点があることに、ソラは少なからず驚いていた。
「あの人……えっと名前は……」
ソラは記憶を探ってみたが、彼の名前を思い出すことはできなかった。恩知らずと呼ばれるのも致し方がないが、物心がついたときからここにいたソラにとって、誰かの名前を覚えるということは、いずれ死ぬ相手の名前を覚えるということでもある。
ここではいつ誰が死ぬか分からないのだ。だからこそ、彼の名前を聞いたことはあったが、記憶に留めておくということをしていなかった。
「ダスティンさんだよ」
ロロもそんな事情を察したのか、彼の名前を口にした。ダスティン、聞き覚えはある。ロロの名前は自身がつけたため、忘れようとしても忘れられないのだが、ダスティンの名前はまた忘れてしまうかもしれない。
「おう! ガキ共!」
「わ!」
ロロの名前を呼ぶ声に反応したのか、ダスティンがこちらに駆けて来た。その大柄な体に、ロロが驚いたようにソラの後ろに隠れた。ソラはロロの前に進み出ると、ダスティンを睨みつけた。まだ彼を信用しているわけではない。
「そんなに怖い顔をするなって。親睦を深めようと思ってな。おぉ、その反応だともしかして俺の名前を忘れてるな? 俺の名前はダスティン! かの有名なダスティン・オリバーから取られた名前だ!」
「知ってる?」
「有名な小説家だったと思うけど、詳しくは知らないや」
ロロは頭を振ったが、その情報だけでソラにとっては十分だった。外に出たことがないソラと違って、ロロは多くのことを知っている。王子だったということからも、多くの博学を身につけているのだろう。
ソラは目の前の人物をもう一度眺めた。やはり、この屈強な男に小説家の名前など似合わなかった。
「なんだ? ダスティン・オリバーを知らないのか?」
ソラが曖昧な表情を見せるのを見て、ダスティンが首を傾げた。ソラはそれには答えずに、うつむいた。
「……」
沈黙が流れると、ダスティンは羽織っている上着の中から何かを取り出した。それがロロから聞いた本と呼ばれるものだということに、あとから気が付いた。
その本はかなり真新しく、恐らく誰もまともに読んでもいないことが察せられた。
「ほれ」
「?」
ダスティンはそれを無理矢理、ソラの手に握らせた。初めて紙の束というものを触ったが、不思議な感触だった。こんな触り心地では、少しでも荒い触り方をしたらすぐに破れてしまいそうだ。
「よかったら読んでみるといい。俺の祖父がくれたもんなんだが、見てくれ通り俺はそんなのを読む人柄じゃねえからな。ここの奴等に取られないようにしろよ」
「わぁ、凄い。見せて、見せて!」
ロロが本に興味を惹かれたのか、手を振り上げた。ソラが持っていた本を渡すと、ロロはパラパラとそれをめくり始めた。少し文字が見えたが、ソラにはその文字が何を意味するのかは分からなかった。文字の読み書きなどはやったことがない。
しかし、ロロにはその文字が読めるのだろう。ソラは文字を知りたいとは思わなかった。
触れたことがないのだから、どれほど便利なのかよく分からないし、ここにいれば文字が読めなくても苦労することはない。
「見せ場は一番最後。なにこれ?」
「彼の有名な一節さ。じゃあ、俺はもう行くぜ。これ以上サボってると、どやされそうだ。計画の話はまた今度話すぜ」
ダスティンは後ろ向きに手を振ると、ソラたちの元から離れていった。彼は足を怪我した若者の荷物を横を通り過ぎるついでに傍らに担いだ。
「かっこいいよね、ダスティンさん。大人の男って感じ!」
ロロが憧れの視線を送った。大人になったロロがあんな屈強な見た目になる姿は想像がつかない。しかし、憧れる気持ちもなんとなく分かる。
「人望はありそうだね」
ただ、そう答えるしかなかった。
「この本、俺が読んであげる。きっと、面白いよ」
ロロのワクワクとしている気持ちが伝わってくる。その様子を見て、ソラも少し嬉しくなる。
「どういう話なの?」
「あらすじしか読んでないけど、ひ弱な漁師が天空の国を見つける話だよ」
ソラはロロから伝えられたあらすじを元に話を想像しようとしたが、漁師と天空の国という存在はいまいち結びつかなかった。
「面白いの? それ」
「多分……」
ロロは自信なさげに本を握りしめた。




