122.招聘と家族 前編
雨の匂いが、まだ残る朝の森の中を一人の女性が歩いていた。昨晩の嵐が嘘のように、森は静まり返っている。
小道を歩く女性の足元に、かすかな動きがあった。落ち葉の間で小さな音がする。女性は立ち止まり、視線を落とす。川の近くだ。女性は足元に気をつけながらも、土手を滑り降りた。小さい頃から森は出入りしているので、こんなことは簡単なことだった。
川の土手の近く。そこには、びしょ濡れの小さな赤子が、泣くでもなくジッと仰向けに横たわっていた。
腕にうっすらと白い羽毛のようなものが生えかけており、薄いおくるみにくるまれている。
女は息を呑んだ。自然に目の奥がじんわり温かくなる。小さな手がわずかに動く。雨粒に濡れた赤い髪が、赤子の小さな頭を覆っていた。そのおくるみには、かすれた文字で「ラーフラ」と書かれていた。
文字はかなり読み取りづらかったが、恐らくそう読むのではないかと考えられる。おくるみもかなりボロボロなのだ。文字が読みづらいのはそのせいだった。嵐の中、飛ばされてきた子のようだ。
ラーフラ。言葉の意味は分からないが、この子の親が付けたのだろう。
赤子は――ラーフラはどう見ても鳥人だ。鳥人の子供はとんでもなく軽いというが、持っていることも疑ってしまうほど、軽かった。小柄な女性の腕の中にもすっぽり収まったしまう。
しかし彼女にそんなことはどうでもよかった。ラーフラはその青い瞳でこちらをジッと覗き込んできた。その瞳は純粋で、何よりとても可愛らしかった。
「何て可愛いのかしら! うちの子にしましょう」
彼女は呟き、女はそっとしゃがみこむ。赤子を抱き上げようとすると、細くて小さな翼が腕からわずかにはみ出していた。自然に抱き上げ、胸にすっぽり収めると、ラーフラは小さく身を寄せた。その姿も愛らしい。体はかなり冷えていた。長い事、雨の中にいたのだろう。可哀想に。
「ラーフラちゃんね。もう大丈夫よ」
ラーフラ、これがこの子の名前だ。捨てたことは確かだろうが、この子の親が子供に上げた最初で最後のプレゼントなのだ。この子の名前はラーフラしか考えられない。
女は小さく笑った。昔、まだ赤子だった息子に聞かせた子守唄をラーフラにも聞かせながら、家路についた。ラーフラは泣かない大人しい子だったが、こちらの歌声を静かに聞いていた。
家に帰ると、夫が家にいた。夫は妻が腕に抱えている子供をジッと眺めたが、その可愛らしい笑顔にすぐに顔を綻ばせた。
「ああ、まあいいんじゃない?」
子供にするという話も飄々と受け入れた。普通、そんなにすぐに捨て子を自分たちの子にしたりはしない。しかし、彼等はいい意味でも悪い意味でも楽観的で能天気だった。
雨が止む頃になると、この家の長男が帰って来る。両親譲りの黒髪だ。少年は鞄をテーブルに置くと、昔自分自身が、寝かされていたであろう赤子用のベッドの存在に気が付いた。スヤスヤとベッドの上で赤子が寝かされている。
「あら、ジョーシア。帰って来てたの? 今日はお肉の煮込みものよ。奮発しちゃったの」
母親はそんな息子にいつも通り話しかける。父親は何も気にしている様子がない。
「誰、この子……」
「あぁ、その子は貴方の弟よ。ラーフラっていうの。仲良くしてあげてね」
「え、弟?! 母さん、いつ産んただの? というか、妊娠してたの?!」
ジョーシアの目が見開かれる。それが当然の反応だった。突然現れた弟の存在に戸惑う。いきなり弟だと言われてもすぐには受け入れられない。
それにこの子は見た感じ、鳥人だ。ジョーシアたちとは種族が違う。
「さっき、川の近くで拾ったのよ。ラーフラちゃん。可愛いでしょ?」
母親の顔が綻ぶ。我が家に来た赤子に心を奪われている表情だ。
「いや、何勝手に連れてきてるんだよ! 父さんもそれでいいの?!」
「ハハハ、何言ってるんだ? その子はうちの子だぞ」
「何だよ、それ。大体、ラーフラってそんなにいい名前じゃなかったような……」
兄はこの家の常識を背負っている唯一の存在だった。彼はなかなか、突然現れた弟の存在を認めることができなかったが、徐々に彼に愛着を持つようになる。
赤子ラーフラはそんな愛情の中で育った。優しいが、天然の両親と遊び相手の兄。月日が流れるにつれ、腕の翼はどんどん力強く大きくなっていった。
◆
「ほら、ラーフラ。飛んでみるんだ。大丈夫! 上手く出来なくても兄ちゃんがキャッチしてやるからな! 鳥人はこうやって飛ぶ練習をするんだと!」
兄の優しい声が下から聞こえる。ラーフラはもう五歳になっていた。
ラーフラは小さな崖の上に立っていた。彼は恐る恐る下を見た。高さは二〜三メートルほどだが、落ちれば余裕で怪我をするだろう。ラーフラは少し躊躇したが、兄の自信満々な瞳と、両親の優しい瞳を信じて飛び降りることにした。
ラーフラは地面を蹴って跳んだ。思いっ切り、翼を広げて動かす。ラーフラは地面に落ちる瞬間を待ったが、その瞬間はいつまで経っても訪れない。ラーフラは気が付いたら、空を舞っていた。
その時の快感をラーフラは死ぬ瞬間まで、忘れないだろう。ラーフラは翼を大きく奮い立たせると、どんどん上へ上へと飛んでいく。
丘の下で、兄が大きく手を振っていた。その姿がどんどん小さくなっていく。風が子どもたちの笑い声を運び、ラーフラはそれに乗って空を駆けた。
空は広い。果てが見えないからだと、気が付く。
雲の白が太陽に透けて輝き、ラーフラの白い羽を照らした。
羽ばたくたび、風の層が変わる。風は冷たいが、そんなことは気にならなかった。ラーフラはまるで空そのものの一部になったように感じた。
地上では見えなかった川の流れが、銀の糸のように光っている。村の屋根は、手のひらよりも小さくなった。
どこまでも広がる緑と金の大地。それを見下ろしながら、ラーフラは心の底から叫んだ。
「僕、空が好きだ……!」
声が風に溶けて消える。
しかしその言葉は、ラーフラの胸に深く刻まれた。
しばらくして、風が弱まりはじめる。ラーフラは翼の角度を変え、ゆるやかに降下した。丘の近くに降り立つと、兄が駆け寄ってきてラーフラの頭をクシャクシャと撫でた。
「すげぇ! 本当に飛んだ! すごいぞ、ラーフラ!」
兄の笑顔が太陽のように輝いていた。両親も満開の笑顔を浮かべていた。
ラーフラも笑った。息が弾んだ。
ラーフラはこの家族が本当の家族ではないことを知っている。彼等はそんなことは言わなかったが、自身の腕に生えた翼を見れば彼等と血が繋がっていないことは一目瞭然だった。
しかし、ラーフラにそんなことはどうでよかった。彼等は実に子のように、ラーフラを愛してくれた。それだけでラーフラは満ち足りているのだ。それだけで十分なのだ。他に何も望まない。




