第33話 初めての死闘
夕闇に染まる森の中、ファリンの前に立ちはだかる一体のグレイウルフ。
その赤い双眸は、飢えた獣特有の凶暴な光を宿し、確実にファリンを獲物として捉えていた。
狼はゆっくりと、しかし威圧するように一歩、また一歩とファリンとの距離を詰めてくる。
「だ、大丈夫……! 私は、村じゃ一番強いんだから……! きっと、きっと大丈夫だよね……!」
ファリンは、震える自分自身を励ますように、か細い声でそう呟いた。
だが、その声は明らかに上ずり、強がりであることが見て取れる。
無理もない。彼女にとって、これは初めて体験する命を懸けた本物の戦いなのだから。
グルルルルゥ……。
グレイウルフが、低く唸りながら地面を蹴った。
そして、矢のような速さでファリンとの距離を一気に詰めてくる!
「うわぁぁぁっ!」
ファリンは、反射的に叫び声を上げ、腰に差していたショートソードを振り上げる。
だが、歴戦の獣であるグレイウルフの動きは、彼女の想像を遥かに超えていた。
剣を振り下ろすよりも早く、狼はファリンの懐へと潜り込み鋭い前足の爪を薙ぎ払うように振るった!
ザシュッ!
「いっ……痛ぁっ!」
ファリンの悲鳴が、森の中に響き渡る。
咄嗟に身を捻ったことで致命傷は避けたものの、狼の爪は彼女の肩を浅く切り裂き、身に着けていた革鎧に生々しい裂け目を作った。
裂けた鎧の下からは、赤い血が滲み出し熱い痛みがファリンの肩を刺す。
バランスを崩したファリンは、そのまま後ろへと尻餅をつき地面に転がってしまった。
グレイウルフは、そんな彼女に一切の油断を見せることなくさらなる追撃を加えるため、素早く体勢を立て直し再び唸り声を上げる。
「やだ……! 来ないで……っ!」
ファリンは、恐怖に顔を引きつらせながら後ずさる。
その瞳には、絶望の色が浮かんでいた。
コメント欄はこの緊迫した状況に、固唾を飲んで見守っているようだ。
『うわあああ! ファリンちゃん、やばいって!』
『キリスたん! 早く助けてあげて! このままじゃ死んじゃうよ!』
『いや、これは試練だ……! ファリンちゃんが自分で乗り越えないと!』
『でも、見てるこっちがハラハラするわ……!』
「……大丈夫ですわ。この戦いは、きっと彼女が勝利を掴み取ります」
俺は視聴者の不安を宥めるように、静かにそう答えた。
今はまだ、俺が出る幕ではない。
この試練は、ファリンが自らの力で乗り越えなければならない、最初の壁なのだから。
グレイウルフが再び地面を蹴り、二度目の突進を繰り出してきた。
鋭い爪を振り上げ、今度こそファリンの喉笛を狙っている。
「痛いの、嫌だぁぁぁっ!」
ファリンは半ばパニックになりながらも、ショートソードを盾のように構え狼の攻撃を防ごうとする。
だが、非力な少女の腕力では、猛獣の突進を受け止めきれるはずもなかった。
ガキンッ!という甲高い音と共に爪が剣を弾き飛ばし、その衝撃でファリンの手が痺れる。
「うっ……!」
呻き声を上げ、ファリンは後ろへと大きく吹き飛ばされ地面に叩きつけられた。
膝がぬかるんだ泥に埋まり、冷たい土の感触が破れた服越しに肌を刺す。
もはや、抵抗する力も残っていないように見えた。
狼は確実に獲物を仕留めるため、ゆっくりとファリンとの距離を詰め、そして、大きく口を開いて彼女の華奢な首筋へと飛びかかった!
万事休すか――。
だが、その瞬間。
ファリンの脳裏に、亡き父親の言葉が蘇った。
(『いいか、ファリン。本当に強い戦士ってのはな、どんな絶体絶命のピンチでも、決して諦めねえ奴のことだ。そしてな……』)
「父ちゃんが……教えてくれた……! 落ち着いて……!」
ファリンは、泥まみれになりながらも、必死に父親の教えを思い出そうとしていた。
そして、ハッとしたように目を見開く。
(『――攻撃っていうのはな、最大の隙でもあるんだ。敵が、お前にトドメを刺そうと飛びかかってきた瞬間こそが、お前にとって最大のチャンスになる。冷静に、その一瞬を見極め、敵の急所を的確に狙え!』)
「……そうか……!」
ファリンは涙をぐいと拭い、震える手でショートソードを握り直した。
その瞳には、先ほどまでの恐怖の色はなく、代わりに覚悟を決めた者の強い光が宿っていた。
グルルルルル……!
グレイウルフが、最後のトドメを刺さんと、三度目の突進を仕掛けてくる。
その動きは、もはやファリンの目にはっきりと捉えられていた。
「――今だっ!!!!」
ファリンは獣の咆哮にも似た叫び声を上げ、狼が空中に跳躍したまさにその瞬間。
渾身の力を込めて、ショートソードを真っ直ぐに突き出した!
その刃は、狙い違わず、狼のがら空きになった脇腹へと深く突き刺さる!
「グゥゥゥンッ!!!!」
狼が、苦痛に満ちた甲高い遠吠えを上げた。
傷口からは、夥しい量の血が噴き出し、ファリンの顔や服を真っ赤に染め上げる。
「うわっ……! あ、熱い……っ!」
ファリンは、思わず目を閉じてしまうが、それでも剣を握る手は離さない。
むしろ、さらに奥へと突き進むように、剣に体重を乗せていく。
狼の重みが、ずしりと剣先に伝わってくる。
そしてファリンはバランスを崩し、断末魔の叫びを上げる狼と共に泥濘へと倒れ込んだ。
地面に強く叩きつけられ、全身が泥と血にまみれる。
ファリンの上でグレイウルフはしばらくの間、苦しそうに痙攣していたが、やがてその動きを完全に止めた。
「ハァ……ハァ……ハァ……。し、死んだ……の……?」
ファリンは肩で大きく息をしながら、狼の体を押しのけてゆっくりと泥の中から這い出す。
周囲には、生々しい血だまりが広がっていた。
肩と腕の傷がズキズキと痛むが、それ以上に生きているという実感が、彼女の胸を熱く満たしていく。
ファリンは震える足でゆっくりと立ち上がり、血まみれになったショートソードを再び強く握りしめた。
そして、天を仰ぎ、勝利の雄叫びを上げた。
「やった……! やったよ……! あたし、勝ったんだ! 初めて、モンスターを倒したんだよ!」
その顔は、涙と血と泥でぐしゃぐしゃだったが、そこには紛れもない達成感と喜びに満ちた笑顔が輝いていた。
村で狩っていた猪よりも遥かに強く、そして恐ろしい相手だった。
それでも、自分は勝ったのだ。
この勝利は彼女に大きな自信を与え、自分が確かに成長しているのだという確信を抱かせた。
「こ、これ……証拠だよ! 村のみんなに、見せてあげなきゃ!」
ファリンは勝利の証として、倒したグレイウルフの鋭い牙を一本折り取り、それを大切そうに革鞄の中へとしまい込んだ。
全身を襲う疲労感と傷の痛み。
だが、初めての勝利がもたらした喜びと興奮がそれらを全て上回っていた。
ふと、ファリンが遠くの森の切れ間に目をやると、そこにかすかに街の明かりが見えた。
夕焼けの空の下、家々の屋根がシルエットとなって浮かび上がっている。
「あれは……! きっと、シルバーホールドの街だ!」
目的地が、ついに目前に迫っている。
その事実に気づいたファリンは、先ほどまでの疲れも忘れたかのように、再び元気を取り戻し街へと向かって走り出した。
その足取りは、以前よりも力強く、そして確かなものに感じられた。
「はぁ~……正直、見てるこっちがドキドキしたなぁ……」
ギリギリのところで勝利を掴んだファリンの姿に、俺は心から安堵し、そして少しだけ感動していた。
彼女は、確かに成長している。
俺は、そんなファリンの後を追いかけるように、再び駆け出すのだった。




