第9話『青春ログ、混線中』
──2階、特別教室フロア。
放課後の時間。教室棟の奥の廊下は人通りもまばらで、どこか静謐な空気に包まれていた。
きっちり閉じられたカーテンの隙間から、傾いた陽がこぼれる。
第1理科室、第2理科室――
「化学実験準備中」「火気厳禁」などの貼り紙が、どの扉にも無造作に貼られ、かすかに薬品の残り香が漂う廊下。
薬品棚のガラスに反射した光が、白い壁を淡く照らす。
わずかな揺らぎが、空気の温度を変えていた。
その突き当たり、理科準備室の奥に、古びた木の扉が静かに“待っていた”。
──科学部の部室。
この学校で、いちばん地味で“隠れ家”めいた空間。
入るのは二度目。だが、今回は神田も一緒だ。
(……妙だな)
ノックする前から、空気の密度が違う。
微弱な刺激が鼻腔をかすめ、脳のどこかが“異常値”を検知する。
理屈じゃなく、条件反射的に警戒シグナルが立ち上がっていた。
「行くぞ」
「……どうぞ」
俺がノブに手をかけた、その瞬間――
ボンッ!!
破裂音と同時に、白い煙が扉の隙間から“ぶわっ”と噴き出した。
「ぎゃあああああああっ!?!?!?!?
ボクの湯けむりラボ香~~~~っ!!!
逃げないでぇぇぇ~~~~っ!!」
パシュッ! ボフッ! バシュゥゥッ!
爆発音なのか、発泡音なのか――やたらと軽快な音が飛び交う。そして鼻を刺すような……でもどこか懐かしい、ラベンダーとミントと、なぜか“焦げ”の匂い。
「やっぱりミントとの相性がっ……っ!でもっ、まだ負けないっ!! 科学の力で、最高の“癒し風呂”を完成させるって――ボク、決めてるんだからねっ!!」
ぶわんっ!
白衣の袖を振るたび、煙と香りが混じって視界がもやっていく。
「……帰るか」
隣にいた神田が何も言わず、静かに扉を閉めた。
――バタン。
さっきまでの喧騒が嘘みたいに、世界が無音になる。
一瞬の静寂。俺は、息を細く吐いた。
(未処理イベント、スキップ不可だ)
だったら――この現実ごと、ログに刻むまで。
ギィ……
再びドアノブをゆっくりと回す。
そして開けた先に広がっていたのは、煙、香水、紙片の舞う混沌。
そして――
「ようこそっ!!科学部へ〜〜っ!!」
**バァン!!**と白衣を翻しながら、
元気MAXの女子が、真正面から突っ込んできた。
金色のポニーテール、斜めにかけたゴーグル。
その手に握られていたのは――見慣れない、小さなスプレー容器。
「今朝の“湯けむりラボ香 ver.3.7”っ!!
シュッとひと吹きで、脳がととのう温泉仕様〜っ!!」
プシュッ!!
間髪入れずに霧が舞い、ラベンダーとミント、ほんのりゆずの香り……そして、湯気をまとった檜と岩風呂の匂いが鼻をかすめた。
(整うどころか、脳が混線してる……)
「ボク、笹倉 梓っ!!
香りと化学の融合で世界を制覇する系〜〜っ!!
てことでっ!新入生くんたちもよろしくね〜〜っ!!」
テンションだけで煙を吹き飛ばすような勢い。
感覚器がまとめて“オーバーフロー”しそうだった。
【ログ記録:科学部部員その①】
名前:笹倉 梓(2年)
特性:香りフェチ/天然ボクっ娘/事故率高
危険度:★★★☆☆
備考:香水の調合を“感覚”で行う科学的無法者。笑顔と煙の比率が逆転している。
「そこのクール顔くん、名前なんだっけ〜? 神田くん? ……当たったら拍手〜!」
「……無言を貫くしか、選択肢が見つからない」
「うん、いいねぇ〜!その反応、ボクけっこう好きかも〜!」
(……たぶん、犬神が理系目指したら、こうなるんだろうな)
――その瞬間、ふっと空気が変わった。
「梓、少し静かにしてくれるかしら」
柔らかな声が割り込んできた。声の主は、部室の奥。
白衣を纏い、湯気の立つカップをそっと口元へ運ぶ――
長い黒髪を一つに束ねた女性が、静かな声でこちらを見た。
「ようこそ、科学部へ。私は九条詩織。二年生よ」
淡く微笑むその目は、まるで心の奥を覗き込むような静けさを帯びていた。
「驚いた? でも、これが“ここの日常”なの。
あなたたち、まだ逃げないなんて……肝が据わってるのね」
【ログ記録:科学部部員その②】
名前:九条 詩織(2年)
特性:観察者/微笑毒お姉さん/部内紅茶係
危険度:★★★★☆
備考:穏やかな声に毒をひそませる分析者。
視線の静けさが、逆にプレッシャーを増幅させる。
「……帰るって選択肢は、まだ有効だぞ」
神田が小声で呟く。
「もう遅い」
(データ収集中だ。ここで止まる理由は、ない)
「静かに」
最後に、ぴたりと声が止んだ。
部室の隅――静かに立ち上がったのは、一人の女性。
白衣の裾をぴしりと揃え、片手に書類を持ったまま、冷えた空気をまとってこちらを見ていた。
セミロングの銀髪は簡素に束ねられ、瞳は曇り空のように冷えた灰色。
「神堂 沙月。科学部の部長よ」
【ログ記録:科学部部員その③】
名前:神堂沙月(3年・部長)
特性:冷徹ロジック女王/感情否定主義/毒舌分析型
危険度:★★★★★
備考:ログを“感情”で汚す者に最も厳しいタイプ。
書類はきっちり両面印刷。無駄を嫌う主義。
白衣の胸ポケットには、定規、ボールペン、USBメモリ。どれも角度まで揃っていて、一片の“無駄”も存在しない。彼女の所作は、まるでプログラムで制御された機械のように正確だった。
その灰色の瞳が、わずかにこちらを捉える。
「あなたとは、非公式の場で何度か接点があるけれど――部としては“初対面”扱いよ。必要な形式は守ってもらう。……新入部員候補、ということでいいのかしら。越智くん、神田くん」
冷たい声に、わずかな抑揚もない。
けれど、それが彼女にとっての“礼儀”なのだと、俺は知っている。
「別に、構わないさ。……神堂先輩」
事実、それで問題ない。彼女はそういう人間だった。
その隣で、神田が淡々と答える。
「……そういうことになります」
神田が端的に答えると、そのやり取りに反応した梓が、目を瞬かせてこちらを見た。
「へぇ〜っ、越智くんと神堂先輩が知り合いだったなんて、ちょっと意外かもっ! だって、先輩ってすっごく優秀で、ちょっぴり近寄りがたいくらいオーラあるんだもん〜っ」
笹倉の言葉には素直な感嘆と、どこか憧れが混じっていた。
「……ふふ、それが“威圧感”じゃなくて“オーラ”って言えるところが、梓ちゃんのいいところよ」
九条はそう言って、横目で神堂を見やった。
そしてほんの少しだけ、口元を緩める。
神堂はそのやり取りに、何の反応も示さなかった。
ただ視線を戻し、無機質な声で続ける。
「履歴書と誓約書は、机の上に置いてあるわ。感情で判断せずに――内容を、手順通りに処理して」
机の上には、すでに三枚の書類が整然と並べられていた。上から順に、履歴書・誓約書・入部届。
どれもフォーマットは独自のもののようで、まるで入社面接でも始まりそうな気配だ。
神堂は視線を動かさず、淡々と説明を添える。
「――入部希望者には、この三点の提出を求めているわ。履歴書はデータ保管用、誓約書は活動責任の明文化、入部届は顧問提出用。……合理的でしょう?」
白衣の袖がふわりと揺れる。
指先でトントンと書類の角を揃えるその所作に、一片の無駄もなかった。
「すべては“定められた工程”。恣意は不要よ」
それは、感情を挟む余地のない――冷ややかな“宣言”だった。
「……科学部って、そういうとこなんだな」
理屈で理解できるなら、それで十分だった。
「“青春”とは、違うジャンルだと思ってくれていいわ」
――そのはずなのに。
// 【ログ更新:科学部・初訪問時/感情データ記録】
// 心拍数:通常値+12 bpm
// 呼吸数:平常(やや浅め)
// 上昇原因候補①:梓のテンションによる接近ストレス
// 上昇原因候補②:詩織の目線(内面の動揺)
// 上昇原因候補③:沙月の発言(過去の“教え”が脳裏をよぎる)
// 上昇原因:未確定(複数要因が交差/観測継続中)
// コメント:「これを“青春じゃない”と切り捨てられるだけの根拠は、今の俺には出せない」
(じゃあ、何故“青春とは違う”と言われた場所で、俺は、こんなにも生きている実感を覚えてるんだ……?)
笹倉の笑い声。
九条の静かな視線。
神堂のロジック。
そして、隣にいる神田の沈黙。
――全部、バラバラのようで。けれど、どこか“噛み合って”いるように感じた。
まるで、異なる成分が予期せぬ反応を起こしているような、静かなケミストリー。
(……答えは、まだ出せない)
なぜか、「ここにいてもいい」と、そう思ってしまった――自分でも、理由はわからないまま。
静かに呼吸を整えて、俺は机の上の入部届に視線を落とす。
(……この違和感も、観測しておく)
整然としたはずの空間に、説明のつかない“混沌”が息づいている。
神堂はその中で、変わらず静かにファイルを閉じた。
「……さて、ここからが本題よ」
笹倉がゴクリと喉を鳴らし、九条は紅茶を口に運ぶ。
神田は、窓の外に視線を置いたまま微動だにしなかった。
「……あなたたちが、ここに“相応しい”かどうか。それを確かめさせてもらうわ」
神堂の言葉に、空気がわずかに張りつめた。
俺は真正面からその視線を受け止め、静かに返す。
「……その基準を満たすかどうか。見極めてみればいい」
神田も軽くうなずいた。
「……暇つぶしにはなる」
「ふぅん。入部理由なんて、所詮“本人がそう言ってる”というだけの不確定要素よ。重要なのは“ここで何を成すか”だけ」
九条が腕を組んで、真っ直ぐこちらを見た。
ひと呼吸だけ置いて、言葉を続ける。
「この科学部は、“テーマ自由”を建前にしてるけれど、
実際は――それぞれが“観測したいもの”を持ち寄っている集まりよ」
「たとえば?」
神田が問い返すと、挙手する間もなく笹倉が勢いよく手を挙げた。
「はいは〜い!ボクはね〜、“香りで恋は始まるのか?”っていう、科学的・超・真剣テーマで研究してるのっ!」
「……香水を混ぜて爆発させた上に、焦げ臭くしてるように見えるが」
神田の冷静なツッコミに、笹倉がふてくされたように頬を膨らませる。
「そ、それは……ちょっとだけ、火力が強かっただけで〜っ!」
「香りどころか、火災報知器が反応しかけてたぞ」
「だ、だからそれは――っ! 情熱の暴走ってことで許してっ!」
笹倉の声が跳ねるように響いたあと、部室にふっと静けさが満ちていく。
まるで、香りの余韻だけがそこに漂っているかのように感じた。そして――沈黙。
それを破ったのは、隣にいた九条詩織の声だった。
「ふふ、私は“感情が動く瞬間”を可視化できないかってところかしら」
そう言って、九条が穏やかに笑う。
「たとえば、笑った時の脈拍。涙が出る直前の筋肉の動き。――そういうのって、見えない数値でも、“人”の証なのよ」
「……なるほど」
神田がぽつりと呟いた。
神堂はそれを聞きながら、ボールペンでトントンと机を叩く。
「私は、“感情の発生メカニズム”を扱ってる。
刺激と反応、動機と行動を数式化して、再現性あるアルゴリズムに落とし込むの。それは、生体心理学でもあり――情報防御の分野にも通じる。
感情をハックすることは、社会の脆弱性を“設計図として可視化する”ということよ。」
神堂の言葉が、冷たい正論として空気に染み渡る。
誰もすぐには口を開かなかった。
(……俺が科学部を選んだ理由は、好奇心や居場所探しも要素としてはある。
けれど――本当のところは、神堂の“理論”が正しいのかどうか、それを確かめたかっただけだ)
そんな中、神田がふと視線を上げた。
その目は鋭さを失わないまま、どこか遠くを見ている。
そして、淡々と口を開く。
「……音は、嘘をつけない。
声の高さ、間、響き――“声質”の揺れには、感情が出る前の“兆し”がある。だからオレは、それを観てる」
みんな、方向性は違っても“観測対象”は同じだ。
結局のところ、誰もが“人の感情”という未知を解析しようとしている。
「お前は?」
神田が小さくこちらを見る。
俺は一瞬だけ、考えた。言うべきか、言わないべきか。
けど、出した答えは――
「……俺は、“感情を記録する”だけだ。
ログを残して、変化を見てる。
それ以上の意味は、まだ……決めてない」
「ねぇねぇ、どんなログ取ってるの〜〜? “ドキドキレベル”とか、“脈拍で恋心測定”とかっ?」
笹倉が興味津々に顔を寄せてきた。
「……違う。あくまで、数値として見てるだけだ」
「ふぅん。でもそれ、すっごく面白そう〜〜っ!」
「……ログは見せない」
(それを出したら、俺の中の“何か”が壊れる気がした)
その空気を察してか、九条がふっと笑った。
「それぞれの“やり方”があっていいのよ。
ここは、そんな部活だから」
そう微笑んだそのあと、部室にほんの少し静けさが落ちた。
神堂はその空気を見計らったように、整然と並んだ書類の端を指先でそろえる。
「これが正式な手続き。履歴書、誓約書、入部届。出すかどうかは自由。だけど――提出された瞬間から、“観測者”としての責任は生まれるわ」
俺は、その紙を無言で受け取り、椅子に腰を下ろした。
何も言わずにペンを取る。時間をかける理由も迷う理由も、どこにもなかった。
(ログは見せない。けれど――この空間に残す価値は、ある)
隣では、神田も記入を終えていた。
神堂は目だけでそれを確認し、小さく頷いた。
「これで、あなたたちも科学部の一員。
……ようこそ、“不確かなもの”を追いかける者たちへ」
「ふふっ、風に乗ってやってきた新しい香りっ♪
やった〜っ! ようこそ、科学部へ〜っ!!」
笹倉が手を大きく振る。目が合うたび、さらに勢いが増していく。
……テンション高いな。
神田が小さくそらした視線の先で、九条が静かに紅茶を置く。
「これで、記録すべき“反応”がまた二名。……ふふ、忙しくなるわね」
俺は、その言葉にぽつりと応じた。
「……あくまで、“記録”だ」
控えを受け取った神堂の白衣の袖が、わずかに揺れる。
窓の外では、西日に染まった光がゆるやかに差し込み、今日からの“記録”を静かに照らした。
それが、どんな軌跡になるのかは――まだ誰にも、わからない。




