第8話『教室のすみ、屋上のそら』
【4月13日(月)正午 日向高校 1A教室/河田亜沙美】
チャイムが鳴った瞬間、教室のあちこちで椅子の音が鳴りはじめた。
(さて、今日のお昼は……)
まだ、自分から「いっしょに食べよう」なんて言える勇気はない。
先週までは、教室の隅で小さくなってお弁当を開いていた。
声をかけるタイミングも、目線を合わせる勇気も――どこかに置いてきたまま。
「ひとりの方が気楽だよね」って、無理に思い込もうとしていた。
……でも本当は、ずっと、少しだけ寂しくて。
そんな思考を打ち消すように――声が響いた。
「河田さ〜んっ! 越智く〜んっ! 神田く〜んっ! 一緒にご飯食べる〜〜っ!?」
犬神さんの声が、教室の空気をぱっと明るく弾ませた。
とびっきりの笑顔と一緒に、私の名前を呼んでくれるその声が―― 胸の奥のかたく結ばれた糸を、そっとほどいていく。
「……俺は、屋上で」
越智くんが短くそう言って、席を立った。
その横から、神田くんも静かに立ち上がる。
「……オレも」
「えぇ〜っ!? 二人ともっ!?」
ぷくっと頬をふくらませながら、ちょっとだけ拗ねた声。けれど、その表情はすぐにくるりと切り替わる。
「じゃあさ――河田さんっ!」
ぱたぱたと一歩近づいて、
キラキラの瞳で、じーっと見つめてくる。
「ここで、いっしょに食べよっ? ……ダメ?」
潤んだ目が、うるうると揺れていた。
まるで、飼い主を見上げる子犬みたいに――
遠慮がちで、でも、全力で“お願いっ!”って目で訴えてる。
……そんなの、断れるわけがないよ。
「……うん。……ここで、いっしょに」
気づいたら、私は頷いていた。
胸の奥に、ふわりとあたたかいものが灯る。
そのぬくもりの余韻が、静かに胸のなかへ広がっていった。
私はお弁当を取り出し、机の上に並べはじめる。
すると犬神さんは「じゃあ、わたしも〜っ♪」と笑って、自分の机を軽々と動かし、私の隣にぴたりとくっつけた。
そのままお弁当袋をちょこんと置き、嬉しそうに蓋を開ける。
ぱかっ、と音を立てて広がった瞬間、色とりどりのおかずが顔をのぞかせた。
卵焼きとソーセージの香ばしい匂いがふわりと漂い、思わず私まで食欲をそそられる。
「じゃじゃーんっ! 今日のブロッコリーは三つも入ってるの〜っ! 見てっ見てっ!」
「……そんなに嬉しいの? ブロッコリーで?」
「ブロッコリーは緑の王様なんだよ〜っ!?
栄養たっぷり、筋肉にも最高っ! っていうか河田さんは好き嫌いある派〜〜?」
「え……と、ない……と思う、たぶん……」
「えらいっ! じゃあ今度、ブロッコリートークしながらごはん食べよ〜ねっ!」
(ブロッコリートーク……?)
わけがわからなくて、思わず吹き出しそうになって――お弁当箱でそっと口元を隠した。
(……こんなふうに笑いながら食べるの、いつ以来だろう)
昨日までだったら、誰かと並んでごはんを食べるなんて、自分には“似合わない”って思ってたのに。
今日の私は、その輪の中に、ちゃんと“いる”気がする。
まだ少しだけ不安は残るけど――胸の奥が、静かにほどけていくのを感じた。
* * *
「……俺は、屋上で」
そう告げて立ち上がると、隣からも同じように椅子が引かれる音がした。
「……オレも」
神田優希。
俺と同じく、科学部志望で数少ない“思考の波長が合う”存在。
無口。無表情。無駄な会話は一切しない。
だが――その観察眼は鋭く、時折、冗談みたいに人の核心を突いてくる。
「さっきの犬神、また教室で騒いでたな」
神田がぽつりと呟く。
俺は、肩をすくめながら返した。
「いつものことだ」
「にぎやかなのが好きなんだな。あいつは」
「……そういう分類なら、間違ってはいない」
足音を揃えながら、ふたりで階段を上がる。
誰とも話さずに、ただ屋上へ向かうだけの昼休み。
でも、それが妙に落ち着く。
(誰にも邪魔されず、静かに食べられる場所)
そんなものを、他人と共有できること自体が珍しい。
扉を開けた瞬間、春の風が一度だけ頬をかすめた。
高台にあるこの屋上からは、町が一望できる。
遠くに並ぶ屋根の輪郭が、午後の光に淡くにじんでいた。足元には穏やかな陽だまり。
俺たちは無言のまま、給水ポンプの小屋の脇――屋上の隅に腰を下ろす。
下の校庭のざわめきは、ここまでは届かない。
弁当の入ったバッグを膝に置いたまま、手がふと止まった。
(……保冷バッグか。ここまで完璧に温度管理する意味は……?)
チャックを開けると、中には保冷剤が二枚。
“この季節にしては、過剰すぎる冷却環境”に、少しばかり警戒しながら弁当箱のふたを開けた。
――次の瞬間、動きが止まった。
……なんだ、これ。
ごはんで成形された、リアルな柴犬の顔が、そこにいた。
ふわっとかかったかつお粉が、毛並みのように見える。
両目には黒く艶のあるブラックオリーブ。
鼻は甘栗に海苔を巻きつけ、穴まできっちりくり抜かれている。
そのまわりには黒ゴマがぱらぱらと散りばめられ、細かな毛色のニュアンスまで再現されていた。
ぺろりと伸びた舌には、つややかなピンク色のたらこ。
口元には、ブロッコリースプラウトの“ヒゲ”まで添えられていた。
(……なるほど。保冷剤の正体は、こいつの“舌”のためか)
ここまでくると、もはや執念すら感じる。
……再現度が高すぎて、食欲よりも、軽く恐怖の方が勝った。
(こころ、やりやがったな…)
「……お前、それ……なんだ?」
横から神田の声。視線は弁当に釘付けだ。
「柴犬のキャラ弁、らしい」
「それ、キャラ弁って言っていいのか……?もう“芸術”の域に達してるだろ、これ……。しかも、こっち見てるし」
神田が引きつった声で言う。
「……食べるの、ためらわないか?」
俺は返事をせず、箸を取り上げ、静かに“耳”の部分から食べ始めた。ひじきとチーズの下に、ちゃんと卵焼きが入っている。
「……そこから食うのかよ……」
「バランスが崩れる」
「はあ?」
「顔の中心から崩すと、崩壊が早い。まず端から落としていくのが効率的だ」
神田は、理解不能という顔で俺を一瞥し、深くため息をついた。
反論ではなく、もはや処理不能という判定らしい。
そして、箸を置いたままぼそりと口を開く。
「……まるで、犬神に対して想いを込めて作ったかのような弁当だな」
たらこの舌に箸を伸ばしながら、俺は呆れ半分で言う。
「……犬神が見たら、たぶん小躍りしてたな」
神田は少しだけ眉を上げ、苦笑いする。
「想像つくな……あいつ、弁当抱えて走り回ってそうだ」
風が吹いた。キャラ弁の中の柴犬の顔が、ほんの少し傾いて、笑ったように見えた気がした。
思わず俺も、ほんの一瞬、口元が緩みかけたのを自分で抑えた。その時――
「……で、それ、誰が作ったんだよ」
しばらく沈黙したのち、俺は淡々と返す。
「姉だ」
「……お前の姉……とんでもないやつだな……」
「たまに、弁当を作ってくれる」
「ていうか、その“姉”のセンス、異常じゃね?」
「……否定はしない」
柴犬の“鼻”――甘栗に海苔を巻いたそれを避けながら、俺は静かに弁当をつついた。
神田は、やれやれと言わんばかりに頭を掻く。
その目はしばらく柴犬弁当に釘付けのまま動かない。
気づけば、俺もその“犬”と目が合っていた。
なぜか――あいつの顔が頭をよぎる。
「……神田」
「……急にどうした」
「――犬神のこと、どう思う?」
問いかけたつもりじゃなかった。ただ、ふと浮かんだだけの言葉だったのに――神田は、静かに弁当を開きながら答えた。
「……思ったより、根がまっすぐな子だな。
お前、意外と巻き込まれやすいんじゃないか?」
「……それはどういう意味だ」
「そのうち、犬神のテンションに飲まれて『ブロッコリー最高!』とか言い出すかもな」
「……言わない」
「……ほんとに?」
からかうようでも笑わない。いつもの神田らしい毒舌だ。
ひと口ごはんを頬張る。少し間をおいて、ふと俺の方から尋ねた。
「……なあ。科学部、なんで入ろうと思ったんだ?」
神田は箸を止めた。視線がゆっくりと空へ向かう。
反応速度は、いつもより一拍遅い。
その静寂が、むしろ答えそのもののように思えた。
体内時計が五秒を刻んだころ――言葉が落ちてきた。
「……“正解がある”からだ」
「正解?」
「人間関係は変数が多すぎる。どれだけ考えても、答えが揺らぐ。 でも、実験なら――制御できる範囲で条件をそろえれば、結果が返ってくる。……それだけで、十分だった」
言い切るまで、迷いがなかった。
あらかじめ頭の中で完成していた一文を、そのまま出力したような話し方だ。
俺は少しだけ視線を落とす。
曖昧なものに振り回されるより、正しい式をひとつ導けるほうが楽だ――そんな感覚は、たしかに俺にもあった。
黙ってもうひと口、弁当を口に運んだ。
食べ終えてから、ぽつりと呟く。
「……結局、俺たちも似たようなもんだ。
余計な言葉がなくても、成り立つ関係。
――そういう場所、ひとつくらい……あってもいいかもな」
神田が、視線をこちらに流した。
「……いや、喋らないと逆に誤解されるだろ」
「……」
「特に、お前みたいな顔のやつは」
「……どういう意味だ」
「睨んでないのに“睨まれてる”って言われるタイプだろ」
「……それは、否定できない」
数秒の沈黙。
神田はまるで独り言みたいに、ぽつりと話題を変えた。
「……河田も、たぶん、そうだったんじゃないか」
「……いじめ、か?」
「同じ中学で、同じクラスだった」
俺の箸が止まる。神田は空を見たまま、淡々と続けた。
「最初は普通に友達と話してたのに……ある日を境に、急に距離を取られていた」
「……」
「理由はよく分からない。でも、目立った行動も問題があったわけでもなかった。――ただ、“浮かされた”だけだった」
言葉は乾いていたが、その一言には妙な重みがあった。
「……今は?」
「今も、まだ怖がっている。でも、犬神がいるなら――たぶん、少しは変われる」
静かに弁当をつつきながら、神田はそれきり何も言わなかった。
しばらくの沈黙。箸をそっと置いて俺は言った。
「……表情は明るいが、どこかで周囲の反応を探っているように見える時がある」
一拍置いて、視線を落としたまま低く付け加える。
「……あれは、自分を守るための“演技”かもしれない」
最近、教室での河田を見ていて――ふと、そう思っただけだった。
「……そうかもな」
神田が、短く相づちを打つ。
それきり、ふたりのあいだに言葉は落ちなかった。
ただ、春風だけが頬をかすめ、静かに通り過ぎていく。
――
柵の向こうに落ちた影が、少しずつ角度を変えていく。
ゆっくりと、午後の時間が傾きはじめていた。
弁当を食べ終えた俺たちは、箸を収めフタを重ねるように静かに閉じる。
俺は、ふと神田に視線を向けて言った。
「……放課後、行くか」
「……部室だろ」
短い会話。それだけで意図が共有される。
雲の流れが、ゆるやかに変わりはじめていた。
――その変化が、静かに次の展開を予感させた。




