表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

8/33

第8話『教室のすみ、屋上のそら』

【4月13日(月)正午 日向高校 1A教室/河田かわだ亜沙美あさみ


チャイムが鳴った瞬間、教室のあちこちで椅子の音が鳴りはじめた。


(さて、今日のお昼は……)


まだ、自分から「いっしょに食べよう」なんて言える勇気はない。

先週までは、教室の隅で小さくなってお弁当を開いていた。

声をかけるタイミングも、目線を合わせる勇気も――どこかに置いてきたまま。


「ひとりの方が気楽だよね」って、無理に思い込もうとしていた。

……でも本当は、ずっと、少しだけ寂しくて。


そんな思考を打ち消すように――声が響いた。


「河田さ〜んっ! 越智く〜んっ! 神田く〜んっ! 一緒にご飯食べる〜〜っ!?」


犬神さんの声が、教室の空気をぱっと明るく弾ませた。


とびっきりの笑顔と一緒に、私の名前を呼んでくれるその声が―― 胸の奥のかたく結ばれた糸を、そっとほどいていく。


「……俺は、屋上で」


越智くんが短くそう言って、席を立った。

その横から、神田くんも静かに立ち上がる。


「……オレも」


「えぇ〜っ!? 二人ともっ!?」


ぷくっと頬をふくらませながら、ちょっとだけ拗ねた声。けれど、その表情はすぐにくるりと切り替わる。


「じゃあさ――河田さんっ!」


ぱたぱたと一歩近づいて、

キラキラの瞳で、じーっと見つめてくる。


「ここで、いっしょに食べよっ? ……ダメ?」


潤んだ目が、うるうると揺れていた。

まるで、飼い主を見上げる子犬みたいに――

遠慮がちで、でも、全力で“お願いっ!”って目で訴えてる。


……そんなの、断れるわけがないよ。


「……うん。……ここで、いっしょに」


気づいたら、私は頷いていた。

胸の奥に、ふわりとあたたかいものが灯る。

そのぬくもりの余韻が、静かに胸のなかへ広がっていった。


私はお弁当を取り出し、机の上に並べはじめる。

すると犬神さんは「じゃあ、わたしも〜っ♪」と笑って、自分の机を軽々と動かし、私の隣にぴたりとくっつけた。


そのままお弁当袋をちょこんと置き、嬉しそうに蓋を開ける。

ぱかっ、と音を立てて広がった瞬間、色とりどりのおかずが顔をのぞかせた。

卵焼きとソーセージの香ばしい匂いがふわりと漂い、思わず私まで食欲をそそられる。


「じゃじゃーんっ! 今日のブロッコリーは三つも入ってるの〜っ! 見てっ見てっ!」


「……そんなに嬉しいの? ブロッコリーで?」


「ブロッコリーは緑の王様なんだよ〜っ!?

栄養たっぷり、筋肉にも最高っ! っていうか河田さんは好き嫌いある派〜〜?」


「え……と、ない……と思う、たぶん……」


「えらいっ! じゃあ今度、ブロッコリートークしながらごはん食べよ〜ねっ!」


(ブロッコリートーク……?)


わけがわからなくて、思わず吹き出しそうになって――お弁当箱でそっと口元を隠した。


(……こんなふうに笑いながら食べるの、いつ以来だろう)


昨日までだったら、誰かと並んでごはんを食べるなんて、自分には“似合わない”って思ってたのに。

今日の私は、その輪の中に、ちゃんと“いる”気がする。


まだ少しだけ不安は残るけど――胸の奥が、静かにほどけていくのを感じた。


* * *


「……俺は、屋上で」


そう告げて立ち上がると、隣からも同じように椅子が引かれる音がした。


「……オレも」


神田かんだ優希ゆうき

俺と同じく、科学部志望で数少ない“思考の波長が合う”存在。

無口。無表情。無駄な会話は一切しない。

だが――その観察眼は鋭く、時折、冗談みたいに人の核心を突いてくる。


「さっきの犬神、また教室で騒いでたな」

神田がぽつりと呟く。

俺は、肩をすくめながら返した。


「いつものことだ」


「にぎやかなのが好きなんだな。あいつは」


「……そういう分類なら、間違ってはいない」


足音を揃えながら、ふたりで階段を上がる。

誰とも話さずに、ただ屋上へ向かうだけの昼休み。

でも、それが妙に落ち着く。


(誰にも邪魔されず、静かに食べられる場所)


そんなものを、他人と共有できること自体が珍しい。


扉を開けた瞬間、春の風が一度だけ頬をかすめた。

高台にあるこの屋上からは、町が一望できる。

遠くに並ぶ屋根の輪郭が、午後の光に淡くにじんでいた。足元には穏やかな陽だまり。


俺たちは無言のまま、給水ポンプの小屋の脇――屋上の隅に腰を下ろす。

下の校庭のざわめきは、ここまでは届かない。

弁当の入ったバッグを膝に置いたまま、手がふと止まった。


(……保冷バッグか。ここまで完璧に温度管理する意味は……?)


チャックを開けると、中には保冷剤が二枚。

“この季節にしては、過剰すぎる冷却環境”に、少しばかり警戒しながら弁当箱のふたを開けた。


――次の瞬間、動きが止まった。


……なんだ、これ。


ごはんで成形された、リアルな柴犬の顔が、そこにいた。

ふわっとかかったかつお粉が、毛並みのように見える。

両目には黒く艶のあるブラックオリーブ。

鼻は甘栗に海苔を巻きつけ、穴まできっちりくり抜かれている。

そのまわりには黒ゴマがぱらぱらと散りばめられ、細かな毛色のニュアンスまで再現されていた。

ぺろりと伸びた舌には、つややかなピンク色のたらこ。

口元には、ブロッコリースプラウトの“ヒゲ”まで添えられていた。


(……なるほど。保冷剤の正体は、こいつの“舌”のためか)


ここまでくると、もはや執念すら感じる。

……再現度が高すぎて、食欲よりも、軽く恐怖の方が勝った。


(こころ、やりやがったな…)


「……お前、それ……なんだ?」

横から神田の声。視線は弁当に釘付けだ。


「柴犬のキャラ弁、らしい」


「それ、キャラ弁って言っていいのか……?もう“芸術”の域に達してるだろ、これ……。しかも、こっち見てるし」

神田が引きつった声で言う。


「……食べるの、ためらわないか?」


俺は返事をせず、箸を取り上げ、静かに“耳”の部分から食べ始めた。ひじきとチーズの下に、ちゃんと卵焼きが入っている。


「……そこから食うのかよ……」


「バランスが崩れる」


「はあ?」


「顔の中心から崩すと、崩壊が早い。まず端から落としていくのが効率的だ」


神田は、理解不能という顔で俺を一瞥し、深くため息をついた。

反論ではなく、もはや処理不能という判定らしい。

そして、箸を置いたままぼそりと口を開く。


「……まるで、犬神に対して想いを込めて作ったかのような弁当だな」


たらこの舌に箸を伸ばしながら、俺は呆れ半分で言う。


「……犬神が見たら、たぶん小躍りしてたな」


神田は少しだけ眉を上げ、苦笑いする。


「想像つくな……あいつ、弁当抱えて走り回ってそうだ」


風が吹いた。キャラ弁の中の柴犬の顔が、ほんの少し傾いて、笑ったように見えた気がした。

思わず俺も、ほんの一瞬、口元が緩みかけたのを自分で抑えた。その時――


「……で、それ、誰が作ったんだよ」


しばらく沈黙したのち、俺は淡々と返す。


「姉だ」


「……お前の姉……とんでもないやつだな……」


「たまに、弁当を作ってくれる」


「ていうか、その“姉”のセンス、異常じゃね?」


「……否定はしない」


柴犬の“鼻”――甘栗に海苔を巻いたそれを避けながら、俺は静かに弁当をつついた。

神田は、やれやれと言わんばかりに頭を掻く。

その目はしばらく柴犬弁当に釘付けのまま動かない。

気づけば、俺もその“犬”と目が合っていた。

なぜか――あいつの顔が頭をよぎる。


「……神田」


「……急にどうした」


「――犬神のこと、どう思う?」


問いかけたつもりじゃなかった。ただ、ふと浮かんだだけの言葉だったのに――神田は、静かに弁当を開きながら答えた。


「……思ったより、根がまっすぐな子だな。

 お前、意外と巻き込まれやすいんじゃないか?」


「……それはどういう意味だ」


「そのうち、犬神のテンションに飲まれて『ブロッコリー最高!』とか言い出すかもな」


「……言わない」


「……ほんとに?」


からかうようでも笑わない。いつもの神田らしい毒舌だ。

ひと口ごはんを頬張る。少し間をおいて、ふと俺の方から尋ねた。


「……なあ。科学部、なんで入ろうと思ったんだ?」


神田は箸を止めた。視線がゆっくりと空へ向かう。

反応速度は、いつもより一拍遅い。

その静寂が、むしろ答えそのもののように思えた。


体内時計が五秒を刻んだころ――言葉が落ちてきた。


「……“正解がある”からだ」


「正解?」


「人間関係は変数が多すぎる。どれだけ考えても、答えが揺らぐ。 でも、実験なら――制御できる範囲で条件をそろえれば、結果が返ってくる。……それだけで、十分だった」


言い切るまで、迷いがなかった。

あらかじめ頭の中で完成していた一文を、そのまま出力したような話し方だ。


俺は少しだけ視線を落とす。

曖昧なものに振り回されるより、正しい式をひとつ導けるほうが楽だ――そんな感覚は、たしかに俺にもあった。


黙ってもうひと口、弁当を口に運んだ。

食べ終えてから、ぽつりと呟く。


「……結局、俺たちも似たようなもんだ。

余計な言葉がなくても、成り立つ関係。

――そういう場所、ひとつくらい……あってもいいかもな」


神田が、視線をこちらに流した。


「……いや、喋らないと逆に誤解されるだろ」


「……」


「特に、お前みたいな顔のやつは」


「……どういう意味だ」


「睨んでないのに“睨まれてる”って言われるタイプだろ」


「……それは、否定できない」


数秒の沈黙。

神田はまるで独り言みたいに、ぽつりと話題を変えた。


「……河田も、たぶん、そうだったんじゃないか」


「……いじめ、か?」


「同じ中学で、同じクラスだった」


俺の箸が止まる。神田は空を見たまま、淡々と続けた。


「最初は普通に友達と話してたのに……ある日を境に、急に距離を取られていた」


「……」


「理由はよく分からない。でも、目立った行動も問題があったわけでもなかった。――ただ、“浮かされた”だけだった」


言葉は乾いていたが、その一言には妙な重みがあった。


「……今は?」


「今も、まだ怖がっている。でも、犬神がいるなら――たぶん、少しは変われる」


静かに弁当をつつきながら、神田はそれきり何も言わなかった。

しばらくの沈黙。箸をそっと置いて俺は言った。


「……表情は明るいが、どこかで周囲の反応を探っているように見える時がある」


一拍置いて、視線を落としたまま低く付け加える。


「……あれは、自分を守るための“演技”かもしれない」


最近、教室での河田を見ていて――ふと、そう思っただけだった。


「……そうかもな」


神田が、短く相づちを打つ。

それきり、ふたりのあいだに言葉は落ちなかった。

ただ、春風だけが頬をかすめ、静かに通り過ぎていく。


――


柵の向こうに落ちた影が、少しずつ角度を変えていく。

ゆっくりと、午後の時間が傾きはじめていた。


弁当を食べ終えた俺たちは、箸を収めフタを重ねるように静かに閉じる。


俺は、ふと神田に視線を向けて言った。

「……放課後、行くか」


「……部室だろ」


短い会話。それだけで意図が共有される。


雲の流れが、ゆるやかに変わりはじめていた。

――その変化が、静かに次の展開を予感させた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ