第7話『春、時々【エラー】』
【4月12日(日) 午後7時 河田亜沙美 自宅】
カーテンの隙間から差し込む夕暮れの余韻が、部屋の空気をほんのり染めていた。
勉強道具を広げたままの机。通知の鳴らないスマホ。
気づけば、何も手につかずに、ぼんやりと天井を見上げていた。
(……また、明日が来る)
日曜の夜が、いちばん嫌いだった。
時間が進むほど、胸の奥がそわそわして、落ち着かなくなっていく。
まるで、何かを忘れてきたような――
あるいは、何かが終わってしまうような、不安。
そんなとき、ふと心の底に沈んでいた記憶が、ゆっくりと浮かび上がってきた。
(そうだ……いつからだったっけ。こんなふうに感じるようになったのって)
どうして、自分が「浮いてる」って気づいたんだろう。
最初は、小さな違和感だった――
挨拶を返してもらえない日が増えたとか、自分の話だけ、笑われなかったとか。
でもある日、はっきりと「線」が引かれた。
「ねえ、あの子ってさ……」
「うわ、今日もアイツ、来てるし……」
聞こえるように言われるのも、聞こえないふりをするのも……もう、疲れちゃって。
中学の頃は――たしかに、仲良かった子たちだったのに。笑っただけで何か言われて、沈黙しても気まずいって言われて。
もう、何をしても正解じゃないみたいで。高校では、きっと変われるって思った。過去なんて忘れて、新しい自分になれるって。
……なのに――入学式が終わったその日の放課後、呼び出された。あの子たちに。中学の頃、わたしを“空気”みたいに扱ってたグループの子たち。
(……わかってるよ。変われるほど、強くないってことくらい)
私には、そんな“強さ”、なかった。そう思って、下を向いて歩いていたら――あの日の“声”が、私を引き止めたんだ。
「ねえっ! 大丈夫っ!? ……顔、赤くなってるけど……っ!」
眩しすぎて、まっすぐ見られない声だった。
(……名前、なんだっけ。この子……)
そのときは、まだ覚えてなかった。でも今は、ちゃんと知ってる。
――犬神 千陽
クラスでいちばん元気で、ちょっと変わってて。でも、なんか……すごく“あったかい”子。あの子の手に、私は一度、救われたことがある。
あの日の放課後。誰もいない教室の隅で、私は自分の席にぽつんと座り、静かに俯いていた。
カーテン越しに射しこむ柔らかな陽射しが、机と床に淡い影を落として――その光のぬくもりさえ、どこか遠く感じられた。
……そんなとき。
教室のドアが、**カララン……**って、やわらかく開く音がした。
「……あ、いたいたっ!」
明るい声と一緒に、彼女が入ってきた。
犬神千陽。まるで太陽みたいな笑顔で、わたしに駆け寄ってくる。
「なんかさ〜、あんまり姿見えなかったから、ちょっと心配しちゃったっ!」
戸惑う私に構うことなく、犬神さんは机のそばにしゃがみこんで、真正面から、まっすぐな目で見つめてくる。
「……無理してない? ちょっと、話そ?」
その声は不思議なくらい、やさしくて。
私の中に、ぎゅっと張りつめていた何かが……ふと、揺れた。
(なんで、助けてくれるの……)
私なんか、気にしないでくれた方が、きっと楽だったのに。
(……優しくなんて、しないでよ)
だって、優しさをもらったら…また、それを失うのが、怖くなるから。
中学のとき、似たようなことがあった。“友達”って呼べた子がいた。でも、気づいたら――その子は、私を笑う側に回ってた。
裏切られるくらいなら、最初から期待なんてしなければいい。だから私は、誰にも近づかないようにしてきたのに…。
「河田さんっ!」
廊下でかけられた、あの元気すぎる声。
私の名前を呼んでくれた、その声が……
「っ……ずるいよ」
……涙なんか、出るわけないのに。頬の奥がじんわりと、あったかくて。
(……わたし、まだ……)
誰かに、助けられたかったのかな。
――
翌朝、登校時間。
春の風は少しだけ冷たいけれど、それを吹き飛ばすように、あの子の声が響いていた。
「おはよ〜〜〜〜〜〜っ!! 河田さ〜〜〜んっ!!」
(……っ!?)
自転車を止めて振り返ると、校門の前で、元気に手を振る“犬神千陽”がいた。
満面の笑顔。目尻がくしゃってなるくらい、嬉しそうに。その笑顔に――思わず、足が止まる。
「おはよう、犬神さん……」
そう返した声は、自分でも驚くほど小さくて。
だけど――彼女には、ちゃんと届いていたみたいで。
「今日もいっしょに行こっ♪ わたし、河田さんと
朝しゃべるの、すっごく楽しみなんだ〜っ!」
「……ありがと、犬神さん」
「えへへ〜っ、どういたしまして〜っ!」
私が少しだけ微笑んだ、そのときだった。
犬神さんは、わたしの隣にぴたりと並んで、にこにこしながら腕を振って歩き出す。
その歩幅に自然と寄り添うように、私もそっと一歩を踏み出した。
制服のカバンのファスナーには、小さな白い犬のキーホルダーが揺れていて、
それが陽の光にきらっと反射して、ささやかに存在を主張していた。
(……あ。かわいい)
思わずそう思ったけど、声には出さなかった。
でも――その白い犬が、隣を歩く犬神さんと、どこか重なって見えた。
おだやかな足取り、肩越しにちらちらと見える横顔。
私たちは今、ちゃんと“並んで”歩いている。
たったそれだけのことなのに、胸の奥にじんわりと、あったかいものが広がっていった。
(……こんなふうに隣で歩ける日が、また来るなんて)
それだけで、胸の奥がじんわりとあたたかくなって――たまらなく、嬉しかった。
その余韻を揺らすように、突然、背後からぼそっと低い声が落ちてきた。
「……今日も変わらずだな」
「朝っぱらから全開。ある意味、才能」
思わず振り返ると、そこには、ぶっきらぼうな口調の“越智隆之”と、その隣を歩く、無表情で少し背の高い“神田優希”の姿。
二人がポツリとつぶやいたその一言は、もはや日常の“定例報告”――朝の恒例行事みたいなものだった。
「越智く〜んっ! 歩く姿が“理系スタイルの教科書”って感じ〜〜っ!」
「例えが意味不明なんだが」
「そんなこと言わずに〜〜っ! ねっ、河田さんもそう思わない〜〜っ!?」
「え、えっ……わ、わたし……?」
戸惑ってる暇もなく犬神さんのテンションは、もう次へと向かっていた。
「だよね〜〜っ!?ねっ、神田くんはどう思う〜っ?」
(え、今のって……“同意したこと”になっちゃったの!?)
ほんのちょっとだけ置いてけぼり。でも――嫌じゃなかった。
「……俺は、弁当の具が気になる」
「そこ〜〜〜〜っ!?!?」
そんな朝のテンポに紛れて、昨日の心の痛みが少しだけ、やわらいでいく気がした。
(……ちょっとだけ、前に進めたのかな)
笑い声が耳に残ってる。春の風も、さっきよりやわらかく感じた。
犬神さんの“とびっきりスマイル”が、また今日も――私の心を救ってくれてた。
(……やっぱり、わたし、この人のそばにいたい)
それは、口にするにはまだ少しだけ早い“気持ち”。
けれど確かに――今、胸の奥で静かに芽を出した。
***
──2時間目、社会。
教壇に立つ白石教師の声が、教室内に淡々と響いていた。
(……声量、安定。読み上げ速度、毎分平均237字)
無意識に記録しているあたり、俺のこの“性分”も変わらないらしい。
それをただ、頭の片隅でぼんやり確認していた
――そのとき。
ふと、右耳に――**「すぅ……すぅ……」**と、
微妙にリズムのずれた“呼吸音”が入り込んできた。
隣をちらりと見やる。
犬神千陽――完全に寝ている。
……いや、堂々と寝すぎだろ。
プリントに頬を押しつけて、口をふにゃっと緩ませた寝顔は……なぜか、こちらに顔を向けて寝ていた。
(……なんでこっち向いて……にしても、幸せそうな寝顔してやがる)
まるで、お昼寝中のワンコ。
油断しきったその顔に、つい見入ってしまいそうになる。そんな自分に気づいた瞬間、即座に観測モードが起動した。
【生体モニター:越智 隆之】
▶ 脈拍:62 bpm → 78 bpm(+16)
▶ 呼吸数:13回/分 → 17回/分(+4)
▶ 表情筋:わずかに口元が緩むも、即時修正
▶ 額部温度:微上昇(平常比+0.4℃)
[反応解析:無防備な視覚刺激による感情変動/本人自覚:ナシ(むしろ否定中)]
……落ち着け、俺。これはただの寝顔だ。たまたまこっちを向いてるだけだし……
そもそも、なんで心拍まで反応してる?
いや、単なる生理的変化だ。たぶん。……たぶん
……ああ、ダメだ。ちゃんと起こして、呼ばれるの防がないと。
「くぅ〜……すぴぃ〜……」
ワンコみたいな寝息が、くるくる耳にまとわりつく。
しかもその口元には、じわりと光る一筋のヨダレ――。
……おい、プリント、びしょびしょだぞ。
(…こんな授業中に堂々と寝ているやつがいるか?
1番後ろの席で助かったな。先生の視界からはギリ死角だ)
(いや、それより……)
この段落の順番と座席配置を踏まえれば――前の列の二人はすでに読んだ。
俺の列が対象になった時点で、読み当て対象は3人。
そのうち起きてるのは、俺と神田だけ。
つまり、犬神が指名される確率は3分の1。が、“睡眠中”というハンデを考慮すれば、教師としての配慮から犬神が最初に呼ばれる確率は圧倒的に高い。
(97%以上と見ていい。)
──その前に起こす。それが、“最適解”。
まずは、机の端を“トントン”。……反応なし。
むしろ寝息が、ちょっとだけ深くなった気がする。
(ダメか……)
俺は小さくため息をついて、
隣の犬神の肩を――“トン、トン”と、静かに叩いた。
……その瞬間。ごくわずかに、脈拍が跳ねた。
【生体モニター:越智 隆之】
▶ 脈拍:62 bpm → 68 bpm(+6)
▶ 呼吸数:12回/分 → 14回/分(+2)
▶ 皮膚温:36.3℃ → 36.5℃(+0.2)
▶ 血圧:117/74 → 122/78
[反応解析:軽度の緊張/接触による刺激反応]
※直前の“寝顔反応”時よりも上昇幅 小
(……落ち着け。これは、単なる物理的手段だ)
ただの起床支援。緊急回避行動。
決してやましい意図など――ない。断じて、ない。
「んにゃ……? ふにゃ……?」
犬神が、ふにゃっとした顔で目を開ける。
口元には、ヨダレの証拠がキラリと光っていた。
「……では、犬神。次の段落を読んでくれ」
白石先生の声が落ち着いて響く。
ギリギリで起きた犬神は、寝ぼけた声で教科書を手に取った。
(……肩トントン、有効。ただし、生体リスク:小)
その瞬間、犬神のまぶたがふわっと持ち上がり、きょとんとした目が俺を見つめた。
「わふっ……?」
「犬神。次、読め」
「え、えええええっ!? 今どこっ!?!?」
慌ててプリントを持ち上げる彼女の姿に、周囲からくすくすと笑いが漏れる。
「三段落目だ、落ち着け」
「さ、三段落……了解っ!!」
無理に落ち着こうとする、咳払い。鼻声混じりの読み上げが、教室に響いた。
(……なんとか間に合ったな)
机にひじをついたまま、小さく息を吐く。今日の授業も、ひとまず“平常通り”だ。
……いや、少しだけ違うかもしれない。
けれど、それに気づくのは――もう少し先の話だ。