第6話『観測者モード、オフ。』
【4月7日(火)夕方 帰宅途中/越智隆之】
……歩いているだけだというのに、視界の端に、いまだ数字の“余韻”が残っている気がする。
【自身の心拍数:72】
【呼吸数:14】
【体温:36.6℃】
さっき、神社で“視えた”あの数値。あれは……夢じゃない。錯覚でもない。
(あれは――現実に起こった現象だ)
俺の脳は、まだそれを“解析中”だ。
突如として現れた「視界への数値表示」に加えて、相手の心拍や感情状態まで“読めた”こと。それはもはや、偶然の域を超えていた。
(……覚醒、という表現が、いちばんしっくり来る)
理論も説明も、まだ追いつかない。
でも、データが出てしまった以上――俺の中に“何か”が生まれたことは、確定している。
(ただ……)
ふと、視線を落とす。
犬神が倒れた瞬間――咄嗟に“動いた”自分がいた。
あれは、データに基づく行動ではなかった。
計算も、打算もない、“直感”だった。
(あれは、感情だった)
自分のことのように胸が熱くなって、気づいたら身体が勝手に動いていた。
(……まったく非合理だな)
苦笑すら出そうな自覚。だけど。
(その非合理が、今は……悪くない)
足を進めながら、ポケットの中で指先が落ち着かない。
数値としては――心拍も体温も平常範囲内。でも、心の奥が――なぜか、ふわりと温かい。ログにも記録されていない。グラフにも、ならない。
(……心拍数の記録に、ない温度か)
思わず、口の中で呟いていた。その言葉には、自分でも知らない感情が滲んでいた気がした。
住宅街に入ると、少し涼しい風が吹いてきた。
俺の家は、神社から少し歩いたところにある。一戸建て。よくある2階建ての家だ。玄関を開けると、きっとあいつが――
⸻
鍵を回し玄関の戸を引くと、靴の並びが一足ぶん増えていた。
(……帰ってるのか)
リビングのドアをそっと開けた瞬間――
そこにいたのは、制服姿の上級生だった。
深く腰掛けたソファに背筋を伸ばし、タブレット端末と数枚の書類に、無駄のない動きで目を通している。
肩まで滑らかに整えられた髪は、光を帯びて端正に揺れ、眼鏡越しの視線は一分の曇りもなく、研ぎ澄まされた意志を宿していた。
静けさの中に漂うのは、凛とした風格――
まさに、「生徒会長」としての責任と威厳をその身に宿した佇まいだった。
「……ただいま」
「おかえりなさい、越智くん」
その返答には、よそ行きの声と、完璧すぎる敬語が添えられていた。俺にとっては、やや気持ち悪い。
「神社で、事件があった。暴行未遂。警察が処理済み」
俺のこのひと言に――“あの出来事”のすべてが詰まっていることを、生徒会長は理解しているはずだった。
現場の空気、タイミング、関係者の名前……すべてを省略しても、彼女には通じる。
だからこそ、必要最低限の情報だけを返した。それが、俺なりの“報告”だった。
「……っ! 犬神さんは?」
「打撲程度。念のため、検査に行くよう伝えた」
「加害者は?」
「現行犯。神社の父親が通報。映像もある。提出済み」
こころ――いや、“生徒会長”は、視線を落としながら頷いた。
その目は、書類ではなく、どこか別の“感情”を読み取ろうとしているようにも見えた。
「……対応、ありがとう。あの子が無事でよかったわ」
朝比奈こころ――もともと“血の繋がり”はない。
けれど、俺が幼い頃からこの家で共に暮らしている。
今では、籍こそ別だが――世間的には、“姉と弟”として見られている。
事情は――説明すれば長くなる。
ただ、家の中での彼女は、“生徒会長”ではなく、あくまで一人の“姉”だった。
「ふぅ〜〜っ」
ぴたりと動きを止めたかと思うと、彼女は眼鏡を外し、制服の上着を勢いよくソファへ投げ捨てた。
「“生徒会長モード”、解除〜〜〜〜っっっ!!」
ごろごろごろ〜〜んっ……ズシャアッ!!
勢いよくリビングのカーペットを転がり、生徒会長としての理性も威厳もぜんぶ投げ捨てて、感情だけで動く
**《全感情お姉ちゃん》**が、今日も健在だった。
転がった先にあったクッションをそのまま抱え込み、顔にぎゅうっと押し当てて、ぷるぷると小刻みに震えている。
「たかゆきぃ〜〜〜っっっ!! 帰ってくるの遅いぃぃぃ〜〜〜〜〜〜〜〜!!」
(……始まった)
「わたしがどんなに心配してたか……っ!あの犬神さん? なにあれ!? あざとすぎない!?わんこじゃん!?!? しっぽ見えてたから!!!」
「いや、見えてない」
「わたしには見えたのぉぉぉ〜〜〜〜っ!!“たかゆきぃ〜♪”って呼ばれでもしたら……うちの壁、殴ってたかもしれん!!」
ばふっ! ばふっ! ばふふっ!!
(……もう、クッションに全力で八つ当たりしてるだけだ。……毎度のことながら、妄想だけで暴走して、自爆コースまっしぐらだな)
けれど――こんなふうに、全開で感情をぶつけてくる姿が、俺にとっては――やっぱり、“日常”なんだよな。……むしろ、静かな方が、落ち着かないくらいに。
クッションを何度か叩いたあと、まるでひとしきり暴れ終えて気が済んだかのように、彼女の動きがぴたりと止まった。
その背中から、ふっと熱が抜けていくのがわかる。
「ふふ……やっぱり、たかちゃんと喋ってる時間がいちばん好きかも」
「……俺は、こころの精神安定剤か何かか?」
「え〜〜っ!? じゃあ副作用もあるの〜っ!? でも平気、たかちゃんのなら常用してもいいからっ!」
「……常用は非推奨。副作用は、ログに残さないでくれ」
その一言に、こころがふにゃっと笑った。
言葉では何も返さないのに――まるで、嬉しさがそのまま仕草に滲み出たみたいだった。
こころは、ソファに体を預けながら、胸元にスマホを抱えていた。
視線は手元のディスプレイに落ちているけれど、意識は明らかにこちらに向いていた。
「……さっき、学校から連絡あったの。神社で暴行事件、って。加害者は現行犯逮捕。それだけで、全部察した」
スマホを握る指が、わずかに震えていた。
「たかゆきが、冷静に対処して犬神さんを守ったってことも……ちゃんと、帰ってきてくれたってことも――私、わかってたけど……ずっと、怖かったんだから」
「心拍、上がったなら――深呼吸でもしとけ」
「……それ、心配してくれてるの?それとも、“いつもの”越智たかゆき?」
「両方、だ」
静かにそう返すと、こころは目を伏せたまま、ふっと小さく笑った。
「……今日は、帰ってきてくれてありがとう。ほんとに……心配してたんだから」
その言葉には、いつもの生徒会長モードの“装飾”はなかった。
ただ、等身大の“姉”としての――素直な声だった。
⸻
こころは、ソファでスマホをいじりながら、ふと口を開いた。
「ねぇ、たかちゃん。……今夜、レイド戦あるよ?」
「“たかちゃん”は、クラン限定の呼び方だって言ったろ」
「ふふっ、ここでは“こころん”も健在だよ〜?」
こころのスマホ画面には、ファンタジー系MMORPG《CLANFIELD》のロビーが表示されている。通称“クラフィ”。
スマホとPCで遊べる人気のオンラインゲームで、4人1組の“クラン制”チームバトルが特徴だ。
PvEとPvPの両方に対応し、職業ごとの連携やスキル構成が攻略のカギとなる。
そこには、“Lunaria”“あまちゃん(退席中)”の表示が並んでいた。
「今度のレイド、4人チームで挑むやつだし……“Lunaria”ちゃんも呼んでみようかな〜♪ たかちゃんも一緒なら、どんな敵でも怖くないし……そばにいてくれるだけで、心強いから……♡」
「……勝ちたいなら、余計な感情は持ち込むな」
「もうっ、そういうとこ、冷たい〜〜〜っ」
こころは少しだけ目を伏せて、でも――ふっと笑った。
「……だけど、“そういうスタンス”のたかちゃんが、いちばん好き」
リビングの空気が、ようやく静かになる。
こころはソファに背中を預けて、スマホを軽くタップしていた。
「ふふっ……やっぱり“たかちゃん”は強いね。あの配置、まさかあの時間で仕上げてくるなんて……」
ひとりごとのような声だったが、俺の耳に届く距離だった。
「クラフィのイベント……今回はPvPか」
「うん。さっきクラマスからメッセ来てて、来月の個人戦、予選ブロック分けがそろそろ出るって。
たかちゃん、エントリーしてるよね?」
「……まあな。たぶん、地区決勝の枠だ」
こころがぱちりと目を瞬かせる。
「えっ、それって――常盤町の大会じゃない?」
「その予定だ。前年度の優勝者枠で推薦が来てた。あとは……条件付きでチーム内からのエントリーが、数名」
「……へぇ〜……」
声のトーンが少し落ちた気がした。
けれどすぐに、こころはスマホの画面を俺に向けて笑う。
「じゃあさ。わたし、応援行ってもいい?
“越智隆之こと、たかちゃん”の雄姿……ちゃんと、この目で見届けたいから」
「勝手にしろ。ただし、身バレには気をつけろ。お前、誰かに“こころん”って呼ばれたら終わりだぞ」
「ふえっ!? そ、それは……っ!」
こころがスマホを抱きしめて、ソファに転がる。
「学校で“こころん”なんて呼ばれたら……生徒会長としての威厳が……ぐぬぬぬぬ……っ!」
「……だから言っただろ。誰にも見せるなって」
「だ、大丈夫っ! 完全変装で行くからっ! 誰にもバレない、完璧なステルスで応援するもんっ!」
声は明るいが、どこかほんの少しだけ――複雑そうに揺れていた。
俺は何も言わず、スマホの画面に視線を落とす。
(地区大会の決勝戦。相手次第では――)
脳裏に浮かんだプレイヤーネームが一つ。
《Lunaria》――ルーナ
あの戦いのことを、俺はまだ忘れていない。
――
部屋のドアを静かに閉めて、デスクに腰を下ろす。
モニターに明かりが灯ると、落ち着いた無機質な空間に、ようやく“俺の時間”が戻ってくる。
Excelのファイルを開く。
タイトルは、【感情ログ_202X_春学期】
カーソルが、今日の日付のセルで点滅していた。
「……4月7日、入学式当日」
何気なくキーボードに手を伸ばし、テンキーで入力を始める。
【2025年4月7日】
・平均心拍数:72
・最大心拍数:113(神社にて)
・体温:36.6℃
・呼吸数:14
・その他:新たな視覚現象。感情反応による心拍変化の顕在化。未分類。
この“記録の習慣”には、理由がある。
誰かに話すようなことじゃないが――過去に、一度だけ。“見誤った”ことがある。
それ以来、俺は“自分の状態”を、可能なかぎり数値で把握しておきたくなった。
目に見えない感情は、しばしば人を誤らせる。
だったらせめて、数値で管理できる範囲だけでも――正しく保っておきたい。
(……あの時みたいには、もうならない)
そして――今日の最後に、ひとつだけセルを埋める。
【感情ログ:あたたかかった】