第6話『観測者モード、オフ。』
【4月7日(火)夕方 帰宅途中/越智隆之】
歩くだけで、視界の奥にまだ“数値の残光”がちらつく。
あの瞬間に見た情報の層が、脳のどこかで再生を繰り返していた。
心拍、呼吸、体温。
それに、相手の動揺や逃走傾向。
さらには空間構造まで自動で解析され、“最適行動”が提示された。
あれは、ただの錯覚ではない。
目に入った瞬間、全ての構造が組み上がり、完成図として視えた。
理屈を越えた――“現実の演算”だった。
(……覚醒、という表現が、いちばんしっくり来る)
論理はまだ追いつかない。
けれど、データが現れたという事実だけは、覆せない。
俺の中で、何かが確実に“始まった”――
その確信だけが、今も静かに脈打っている。
(ただ……)
ふと、視線を落とす。
犬神が倒れた瞬間――咄嗟に“動いた”自分がいた。
あれは、データに基づく行動ではない。
計算も打算もなく、ただの直感だった。
――いや、あれは感情の衝動に近い。
自分のことのように胸が熱くなり、気づけば身体が勝手に動いていた。
まったく非合理だと、苦笑すら出そうになる。
それでも――その非合理が、今は悪くないと思えた。
足を進めながら、呼吸のリズムを数える。
いつも通り――のはずだった。
なのに、吐く息がわずかに速い。
心拍も体温も、数値は平常。
それでも胸の奥が、ふっと温かい。
ログにも記録されず、グラフにもならない。
(……心拍数の記録に、ない温度か)
思わず、口の中で呟いていた。
住宅街に入ると、ひんやりした風が頬を撫でた。
神社からそう遠くない場所に、俺の家がある。
ごく普通の二階建ての一戸建てだ。
玄関を開ければ、きっと――あいつが。
⸻
鍵を回し玄関の戸を引くと、靴の列の端に見慣れた一足が並んでいた。
(……帰ってるのか)
靴を脱ぎ、廊下を抜ける。
リビングの奥から、紙のめくれる音がした。
ソファに腰掛け、書類に目を通す制服姿の上級生。
背筋はまっすぐで、眼鏡の奥の視線には一分の曇りもない。
静けさの中に漂うのは、凛とした風格――
まさに「生徒会長」という肩書が似合う佇まいだった。
「……ただいま」
「おかえりなさい、越智くん」
完璧な敬語に、わずかに眉をひそめる。
家でそれを聞くのは、どうにも違和感がある。
少し間を置いて、口を開いた。
「神社で事件があった。暴行未遂……警察が処理済みだ」
「……犬神さんは?」
「父親に付き添われて救急搬送。軽い脳震盪と打撲だけだ」
「加害者は?」
「現行犯。俺が通報した。防犯映像も提出済み」
彼女――朝比奈こころは、短く息を吐いた。
「……対応、ありがとう。あの子が無事でよかったわ」
その目に宿るのは、報告の続きを求める冷静さと、かすかな安堵。
朝比奈こころ――もともと“血の繋がり”はない。
けれど、俺が幼い頃からこの家で共に暮らしている。
今では、籍こそ別だが――世間的には、“姉と弟”として見られている。
事情は――説明すれば長くなる。
ただ、家の中での彼女は、“生徒会長”ではなく、いつもの“姉”に戻っていた。
「ふぅ〜〜っ」
ぴたりと動きを止めたかと思うと、彼女は眼鏡を外し、制服の上着を勢いよくソファへ投げ捨てた。
「“生徒会長モード”、解除〜〜〜〜っっっ!!」
ごろごろごろ〜〜んっ……ズシャアッ!!
勢いよくリビングのカーペットを転がり、生徒会長としての理性も威厳もぜんぶ投げ捨てて、感情だけで動く
**《全感情お姉ちゃん》**が、今日も健在だった。
転がった先でクッションを抱え込み、顔を埋めたまま小刻みにプルプルと震えている。
まるで、布越しに感情を圧縮しているかのように。
「たかゆきぃ〜〜〜っっっ!! 帰ってくるの遅いぃぃぃ〜〜〜〜〜〜〜〜!!」
(……始まった)
「わたしがどんなに心配してたか……っ!
あの犬神さん? なにあれ!? あざとすぎない!?
わんこじゃん!?!? しっぽ見えてたから!!!」
「いや、見えてない」
「わたしには見えたのぉぉぉ〜〜〜〜っ!!“たかゆきぃ〜♪”って呼ばれでもしたら……うちの壁、殴ってたかもしれん!!」
ばふっ! ばふっ! ばふふっ!!
クッションに全力で八つ当たりしている。
毎度のことながら、妄想だけで暴走して自爆コースまっしぐらだ。
けれど、こんなふうに全開で感情をぶつけてくる姿が、俺にとっては――やっぱり“日常”なんだよな。
……むしろ、静かな方が落ち着かないくらいに。
クッションを何度か叩いたあと、まるでひとしきり暴れ終えて気が済んだかのように、彼女の動きがぴたりと止まった。
その背中から、ふっと熱が抜けていくのがわかる。
「ふふ……やっぱり、たかちゃんと喋ってる時間がいちばん好きかも」
「……俺は、こころの精神安定剤か何かか?」
「え〜〜っ!? じゃあ副作用もあるの〜っ!? でも平気、たかちゃんのなら常用してもいいからっ!」
「……常用は非推奨。
副作用は――ログに残さないでくれ」
その一言に、こころの口元がわずかにゆるんだ。
声はないのに、表情だけが嬉しさを物語っている。
その笑みが消えないまま、こころはソファに体を預け、胸元にスマホを抱え込む。
視線は手元のディスプレイに落ちたまま。
数秒の間をおいて、静かな声が続いた。
「……昼過ぎに、職員室経由で報告が入ったの。
生徒が関わった事件、って。加害者は現行犯逮捕。
それだけで、全部察した」
スマホを握る指が、わずかに震えていた。
「たかゆきが、冷静に対処して犬神さんを守ったってことも……ちゃんと、帰ってきてくれたってことも――私、わかってたけど……ずっと、怖かったんだから」
その声は震えていた。
抑えていた感情が、言葉の隙間からにじみ出ていた。
「心拍、上がったなら――深呼吸でもしとけ」
「……それ、心配してくれてるの? それとも、“いつもの”越智たかゆき?」
「両方、だ」
静かにそう返すと、こころは目を伏せたまま、ふっと小さく笑った。
「……今日は、帰ってきてくれてありがとう。ほんとに……心配してたんだから」
その言葉には、いつもの生徒会長モードの“装飾”はなかった。
ただ、等身大の“姉”としての――素直な声だった。
⸻
こころは、ソファでスマホをいじりながら、ふと口を開いた。
「ねぇ、たかちゃん。……今夜、レイド戦あるよ?」
「“たかちゃん”は、クラン限定の呼び方だって言ったろ」
「ふふっ、ここでは“こころん”も健在だよ〜?」
こころのスマホ画面には、ファンタジー系MMORPG《CLANFIELD》のロビーが表示されている。通称“クラフィ”。
スマホとPCで遊べる人気のオンラインゲームで、4人1組の“クラン制”チームバトルが特徴だ。
PvEとPvPの両方に対応し、職業ごとの連携やスキル構成が攻略のカギとなる。
そこには、“Lunaria”“あまちゃん(退席中)”の表示が並んでいた。
「今度のレイド、4人チームで挑むやつだし……“Lunaria”ちゃんも呼んでみようかな〜♪ たかちゃんも一緒なら、どんな敵でも怖くないし……そばにいてくれるだけで、心強いから……♡」
「……勝ちたいなら、余計な感情は持ち込むな」
「もうっ、そういうとこ、冷たい〜〜〜っ」
こころは少しだけ目を伏せて、それからふっと笑った。
「……だけど、“そういうスタンス”のたかちゃんが、いちばん好き」
リビングの空気が、ようやく静かになる。
こころはソファに背中を預け、スマホを軽くタップしていた。
画面には、クランフィールドのランクマッチ戦績――トータルランクの順位が表示されている。
「ふふっ……やっぱり“たかちゃん”は強いね。
もう全国トップ二桁とか、ほんとに化け物じみてるんだから……」
画面をスクロールしながら、こころが思い出したように口を開く。
「そういえば――来月のイベント、PvPになるらしいよ」
「クラフィのイベント……今回はPvPか」
「うん。さっきクラマスからメッセ来てて、来月の個人戦、予選ブロック分けがそろそろ出るって。
たかちゃん、エントリーしてるよね?」
「……まあな。たぶん、地区決勝の枠だ」
こころのまなざしが、短く揺れた。
「えっ、それって――常盤町の大会じゃない?」
「その予定だ。前年度の優勝者枠で推薦が来てた。あとは……条件付きでチーム内からのエントリーが、数名」
「……へぇ〜……」
声のトーンが、ほんのわずかに落ちた。
けれどすぐに、こころはスマホの画面を俺に向けて笑う。
「じゃあさ。わたし、応援行ってもいい?
“越智隆之こと、たかちゃん”の雄姿……ちゃんと、この目で見届けたいから」
「勝手にしろ。ただし、身バレには気をつけろ。お前、誰かに“こころん”って呼ばれたら終わりだぞ」
「ふえっ!? そ、それは……っ!」
こころがスマホを抱きしめて、ソファに転がる。
「学校で“こころん”なんて呼ばれたら……生徒会長としての威厳が……ぐぬぬぬぬ……っ!」
「……だから言っただろ。誰にも見せるなって」
「だ、大丈夫っ! 完全変装で行くからっ! 誰にもバレない、完璧なステルスで応援するもんっ!」
声は明るいままなのに、その奥に小さな揺らぎがあった。
俺は何も言わず、スマホの画面に視線を落とす。
(地区大会の決勝戦。相手次第では――)
脳裏に浮かんだプレイヤーネームが一つ。
《Lunaria》――ルーナ
その名が、静かに記憶を揺らした。
あの戦いのことを、俺はまだ忘れていない。
* * *
部屋のドアを静かに閉めて、デスクに腰を下ろす。
モニターに明かりが灯ると、落ち着いた無機質な空間に、ようやく“俺の時間”が戻ってくる。
Excelのファイルを開く。
タイトルは、【感情ログ_202X_春学期】
カーソルが、今日の日付のセルで点滅していた。
「……4月7日、入学式当日」
何気なくキーボードに手を伸ばし、テンキーで入力を始める。
【2025年4月7日】
・平均心拍数:72
・最大心拍数:113(神社にて)
・体温:36.6℃
・呼吸数:14
・その他:新たな視覚現象。感情反応による心拍変化の顕在化。未分類。
この“記録の習慣”には、理由がある。
誰かに話すようなことじゃないが――過去に、一度だけ。“見誤った”ことがある。
それ以来、俺は“自分の状態”を、可能なかぎり数値で把握しておきたくなった。
目に見えない感情は、しばしば人を誤らせる。
だったらせめて、数値で管理できる範囲だけでも――正しく保っておきたい。
(……あの時みたいには、もうならない)
そして――今日の最後に、ひとつだけセルを埋める。
【感情ログ:あたたかかった】




