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第5話『心拍数の記録に、ない温度』

俺はすぐに警察へ通報し、間もなく現場に到着した警官によって、男はその場で取り押さえられた。

拝殿付近に設置された防犯カメラには、暴行の瞬間と、

それに対する俺の“最適解”がすべて記録されていた。


(証拠としては十分すぎる。……むしろ、過剰なくらいだ)  


事情聴取は現場で簡単に済まされた。

「冷静な対応だったね」と、軽く感心され、連絡先だけ控えられて解放された。


犬神は駆けつけた父親に付き添われ、救急搬送された。

検査の結果、軽い脳震盪と打撲だけで済んだ。

午後には戻ってきており、そのころには警察の事情聴取も終わっていた。


――後に知ったことだが、神社の管理人は犬神の父親で、この神社を代々守ってきた家系の人間だった。

思えば、先ほどの参拝の時の彼女の“手慣れた動き”にも、それで説明がつく。


その男性――犬神の父が、俺のほうへ歩み寄ってきた。


五十前後。役場勤めらしい落ち着いた身なりだが、その上に紺の作務衣を羽織っていた。

急いで駆けつけたのだろう。

それでも、その瞳は静かだった。

無駄のない動きで、俺を正確に見据えていた。


「君がいなかったら、千陽は――」

言葉を途中で止め、彼は小さく息を吐いた。

「……ありがとう」


その一言に、ようやく“現実”が戻ってきた気がした。


騒動のあとの境内には、少しずつ静けさが戻っていた。

犬神の父は、警察とのやり取りのために残ったため、帰り道は俺と犬神のふたりきりだった。


犬神の家は、俺の帰り道の途中にある。

普段ならただ通り過ぎるだけの道――それなのに、この日は少しだけ違って見えた。


道の端を歩く犬神は、ときどき俺を見上げてくる。

けれど何も言わない。

その沈黙がどこか不自然で――珍しく俺のほうから口を開いた。


「……体、もう大丈夫か?」


「あっ……うんっ。ちょっと、こめかみがジンジンするけど……それ以外は、平気っ!ちゃんと、ごはんも食べられそうだし!」


笑ってはいる。けれど、声のトーンも呼吸のリズムも、いつもの値よりわずかに乱れていた。

その微小な誤差が、“強がり”という名のノイズに思えた。


「気を張ってたんだと思う。今も、なんか……足、ちょっとフワフワしてて」


「……当然だ。あれは、“普通の出来事”じゃない」


「うん……あの時ね。拝殿の裏から、“助けて”って声が聞こえたの」


「声?」


「……男の人の声。苦しそうで、怪我でもしたのかと思って」


犬神の言葉を聞きながら、俺はあの男の表情を思い出していた。

あれは怯えでも、懇願でもない。

理性の回線が切れたあとの、“錯乱”に近いノイズだった。


(……金銭的な問題か、生活の破綻か。

 助けを求めていたのは、他人じゃなく“自分自身”だったのかもしれない)


犬神が拝殿の裏へ回ったのも、その“ノイズ”を拾ったせいだろう。

あの優しさが、彼女をあの場に引き寄せた。


――気づけば、歩幅が半歩だけ揃っていた。


「でもね、越智くんがいてくれたから……わたし、今こうして歩いてるんだと思う。ほんとに、ありがとう」


「……最適解だっただけだ」


そう答えながらも――あの瞬間、俺が“動いた理由”は、そんな単純なものではなかったはずだと、自分でもわかっていた。

犬神は、ほんの少し俯いて、ぽつりとこぼす。


「……ねえ、神社のあの時――なんか、意識が遠のいてたはずなのに……すごく、ふわって、あったかくて……誰かが、そばにいたような気がしたの」


俺は、小さく頷いた。


「……ああ。俺にも、感じた」


「……あれって、なに?」


(俺にも、説明できる言葉はなかった。

 でも――確かに“何か”が、あの場にいた)


「……声は聞こえなかったけど……“守られてる”って、そう思ったの。なんでだろ……怖くなかった。むしろ、安心したくらい」


犬神は、胸のあたりにそっと手を当てた。


「その瞬間、心臓がドクンって跳ねて……それから、ふわって――包まれるみたいな感じ。

……あんなの、初めてだったかも」


「……俺も似たような感覚だった。

心拍数が、まるで数字みたいに“視えた”」


「えっ、数字?」


「自分のも、相手のも。視界の先に浮かび上がってきた。まるで、そこに“表示されている”かのように」


「……なんか、ゲームみたいだねっ」


犬神は、力の抜けた笑みを浮かべた。

緊張が解ける瞬間の反応としては、極めて“彼女らしい”。


「……まったく非科学的だが、否定はできない」


「ふふっ。越智くんって、やっぱり変わってるね〜っ」


それは俺のセリフだ、と思いながら――なぜか否定する気にはならなかった。


「ねぇ……ちょっとだけ、うち寄ってかない?

お礼もしたいし……ゲンキも会いたがってると思うしっ!」


「……ゲンキ?」


「うんっ、うちのワンコ!子犬で、まだ半年くらいなんだけど、めっちゃ元気で〜〜っ!」


「名前が“ゲンキ”で、“元気”なのか……単純だな」


「えぇ〜〜っ!? ダメかな!? 可愛いでしょっ?」


「命名の合理性は……まあ、わかりやすい」


「それ、褒めてる? 褒めてない〜〜っ!?」


そんなやり取りをしながら、いつもの道を歩く。

気がつけば、もう家の前にたどり着いていた。


「ただいま〜!」


犬神が玄関を開けた瞬間、家の奥からピアノの音が流れてきた。

整った打鍵の間隔が、静かに空気を震わせる。

高音は澄んでいて、低音は穏やかに支えている。――安定したリズムだった。


「……あ、さとし、ピアノ弾いてる」

犬神が小さく笑って靴を脱ぐ。

その足元で、俺も思わず耳を傾けた。


(……これは)


幼さの残るタッチだが、芯がある。

数字では測れない均整――聴いているうちに、心拍がわずかに同期していくのを感じた。


「弟……か?」


「うんっ。小学五年生で、“さとし”っていうんだっ。夕方になると、いつもピアノ弾いてるのっ」


ほんの少し、声のトーンが柔らかくなる。


音はまだ続いていた。

澄んだ音色が廊下を伝い、空気の中をゆっくりと揺れてくる。

まるで、誰かに届けたいものがあって――それを音に変えているようだった。


犬神が先に玄関へ上がった、そのとき――

廊下の奥から、茶色い柴犬の子犬が勢いよく飛び出してきた。


「わふっ!」


ちいさな足音が廊下を駆け抜ける。

まだバランスは不安定だが、嬉しそうにしっぽを振って犬神へ一直線。


玄関で靴を揃えていた俺の足元に、ゲンキがぴたりと立ち止まった。

鼻先をすんと鳴らし、興味深そうにこちらを見上げてくる。


(……好奇心旺盛。犬らしい反応だ)

データとして記録するだけ――感情の介入は、まだ不要だ。


「わあっ、ゲンキ〜っ!」

犬神がしゃがみこみ、腕いっぱいで迎える。

子犬は嬉しそうに跳ね回り、その頬を舐め続けていた。


犬神の発言から、その名を認識する。

――対象名“ゲンキ”を確認。

想定より小型だが、反応速度と跳躍力は高め。

尻尾の振幅も顕著だ。

……犬神と対等で、制御不能なタイプらしい。


「ちょっ……こら〜っ、顔はやめてぇ〜っ!」


俺の足元に駆け寄ったゲンキは、ぴたりと止まり、鼻をすんすん鳴らして匂いを確かめた。


「……懐いてる」

犬神が笑いながら続ける。


「ゲンキ、基本“初対面には慎重派”なんだけど……越智くんは平気なんだね〜っ!」


「……動物に嫌われたことは、ない」


「えっ、それって特技!? いや、越智くん限定スキル!?」


淡々と返しながらも、足元で尻尾をぱたぱた振る子犬を見下ろす。

――データにはない反応が、自然とこぼれた。


そのやり取りの向こうで、ピアノの旋律は静かにゆるやかに鳴り続けていた。

だが次の瞬間、ふっと音が途切れる。


ゲンキが跳ね回る足音だけが残った玄関に、今度は別の気配――階段のきしむ音。

軽い足取りのリズムが一定に響き、小柄な少年が階段を降りてきた。


「……あ、やっぱ帰ってた」


白いシャツに七分丈のズボン。

片手には、折れた楽譜のページが一枚、まだ握られている。


(……なるほど、演奏者本人登場ってわけか)


「ただいま、さとし〜っ!ピアノ、今日も素敵だったよ〜っ!」


「ん。ありがとう……って、えっ?」


玄関先にいた俺を見て、さとしは目を瞬かせた。

驚きというより、処理が一拍遅れたような反応。


「だ、誰っ!? ……お姉ちゃん、男の人連れてきてるの!?!?」


ゲンキが「ワンッ」と跳ねながら、まるでその主張を裏づけるように吠えた。

(……無駄に連帯感がある)


「ち、ちがっ、違うの〜〜っ!!」

犬神が顔を真っ赤にして、両手で全力の否定を示す。


「これはその……っ、たまたま一緒に帰ってきただけでっ!」


――論理的説明を求める場面ではないのに、語彙選択が焦りすぎている。

(どう見ても“たまたま”の説得力は皆無だ)


「ふぅん……“たまたま”ねぇ……」


さとしは犬神を一瞥し、一拍置くようにしてから俺へ視線を移した。


「あっ、こんにちは。お姉ちゃんと一緒に帰ってきた人だよね? クラスメイトの人?」


「う、うんっ!クラスメイト!隣の席の越智くん!」

犬神が慌てて補足する。


「へぇ……」

さとしは俺の顔をしげしげと見て、小さく言った。


「……なんか、静かそうだけど……優しそうな感じ、する」


「……そう見えるか?」


「見える。“姉に苦労させられてそうな人”って意味で」


「さとし〜〜〜〜〜〜〜っ!!」


犬神が真っ赤になって頭を抱える横で、俺は静かに言葉を継いだ。


「……犬神の同級生。科学部だ」


その一言で、さとしの目の動きが止まる。

興味対象を特定したときの反応――わかりやすい。


「科学部なんだ。……なんか、わかる気がする」

その一言に反応して、足元で遊んでいたゲンキの耳がわずかに動いた。


(……“わかる気がする”? 俺は特に“それっぽさ”を出した覚えはない。理屈を越えた感覚ってやつか)


ゲンキがこちらを見上げ、小さく鼻を鳴らす。

……どうやら、犬にも理解されたらしい。


「でも、けっこうイケメンじゃん。……クール系だよね」

さとしがそう言って、口の端を少し上げる。


「……さっきまでピアノ弾いてたとは思えない口の回りようだな」


「そりゃピアノは“手”で弾くからね?」


「……返しも早いな」

言葉のやり取りが妙に噛み合う。

その様子を見ていた犬神が、目を丸くして声を上げた。


「ちょ、ちょっと〜〜っ! なんか、ふたりとも……今日が初対面とは思えないんだけど〜っ!?」


犬神が顔を真っ赤にし、視線の落ち着き先を見失っている。

状況を制御しきれないその反応は、ゲンキと似た傾向を示していた。


足元でゲンキが動き、いつの間にか俺の方へ擦り寄ってくる。


「も〜〜っ、ゲンキまで〜っ!」

犬神は小さく抗議しながらも、わずかに笑みを漏らした。


(……やれやれ。忠誠対象の判断が早すぎる)


その様子を見ながら俺は静かに立ち上がる。

ゲンキが動きを止め、名残惜しげにこちらを見上げる。

その仕草にほんの一瞬だけ、口元が緩んだ。


「……いい子にしてろよ」

声をかけると、ゲンキが小さく尻尾を振った。


その視線の先で、さとしが顔を上げる。

「えっ、もう帰っちゃうの?」


「……長居は無用だ。ひとまず、様子も確認できたしな」


「え、あ……そう、だよね……」

犬神の声には、かすかな名残が混じっていたが、無理に引き止めようとはしなかった。


「外まで送っていこうか?」


「いや、構わない。すぐそこだ」


「……そっか。じゃあ――今日は、ありがとねっ!」


玄関の扉に手をかけたそのとき、上がり框の縁に座っていたゲンキが静止した。

姿勢を正し、じっとこちらを見つめる。


そして――小さく一声、鳴いた。


「……またな」


その声に応えるように、ゲンキのしっぽがひと振りだけふるりと揺れた。

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― 新着の感想 ―
大きな出来事のあと、犬神さんとの帰り道が、静かであたたかな時間に変わっていく様子がとても印象的でした。越智くんの「最適解」では測れない、やさしい気持ちや人のぬくもりに少しずつ触れていく描写が、胸にじん…
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