第5話『心拍数の記録に、ない温度』
神社の管理人――犬神の父がすぐに警察へ通報し、間もなく現場に到着した警官によって、男はその場で取り押さえられた。
拝殿付近に設置された防犯カメラには、暴行の瞬間と、それに対する俺の“最適解”がすべて記録されていた。
(判断材料としては、過剰なくらいだ)
事情聴取は現場で簡単に済まされた。
「冷静な対応だったね」と、むしろ軽く感心され、連絡先だけ控えられて解放された。
騒動のあとの境内には、少しずつ静けさが戻っていた。
神社の神主である犬神の父は、警察とのやり取りのために残ったため――帰り道は、俺と犬神のふたりきりだった。犬神の自宅は、俺の家までの途中にある。普段どおりなら、何気ない帰り道。
でもその日は――どこか、少しだけ特別に感じていた。
道の端を歩く犬神は、ときどき俺を見上げてくるけれど、何も言わない。その沈黙が、どこか不自然で――珍しく、俺のほうから口を開いた。
「……体、もう大丈夫か?」
「あっ……うんっ。ちょっと、こめかみがジンジンするけど……それ以外は、平気っ!ちゃんとごはんも食べられそうだし!」
笑ってる。だけど、いつもの明るさとは少し違う“静けさ”をまとっている。
「気を張ってたんだと思う。今も、なんか……足、ちょっとフワフワしてて」
「……当然だ。あれは、“普通の出来事”じゃない」
「うん……」
歩幅が、半歩だけ揃ってきた。
「でもね、越智くんがいてくれたから……
わたし、今こうして歩いてるんだと思う。ほんとに、ありがとう」
「……最適解だっただけだ」
そう答えながらも――あの瞬間、俺が“動いた理由”は、そんな単純なものではなかったはずだと、自分でもわかっていた。
犬神は、ほんの少し俯いて、ぽつりとこぼす。
「……ねえ、神社のあの時――なんか、意識が遠のいてたはずなのに……すごく、ふわって、あったかくて……誰かが、そばにいたような気がしたの」
俺は、小さく頷いた。
「……ああ。俺にも、感じた」
「……あれって、なに?」
(俺にも、説明できる言葉はなかった。
でも――確かに“何か”が、あの場にいた)
「……声は聞こえなかったけど……“守られてる”って、そう思ったの。なんでだろ……怖くなかった。むしろ、安心したくらい」
犬神は、胸のあたりをぎゅっと押さえた。
「その瞬間、心臓がドクンって跳ねて……
それから、ふわって――包まれるみたいな感じ。
……あんなの、初めてだったかも」
「……俺も似たような感覚だった。
心拍数が、まるで数字みたいに“視えた”」
「えっ、数字?」
「自分のも、相手のも。視界の奥に浮かび上がってきた。まるで、そこに“表示されている”かのように」
犬神は、きょとんと目を丸くしたあと、ふにゃっと笑った。
「……なんか、ゲームみたいだねっ」
「……まったく非科学的だが、否定はできない」
「ふふっ。越智くんって、やっぱり変わってるね〜っ」
それは俺のセリフだ、と思いながら――なぜか否定する気にはならなかった。
「ねぇ……ちょっとだけ、うち寄ってかない?
お礼もしたいし……ゲンキも会いたがってると思うしっ!」
「……ゲンキ?」
「うんっ、うちのワンコ!子犬で、まだ半年くらいなんだけど、めっちゃ元気で〜〜っ!」
「名前が“ゲンキ”で、“元気”なのか……単純だな」
「えぇ〜〜っ!? ダメかな!? 可愛いでしょっ?」
「命名の合理性は……まあ、わかりやすい」
「それ、褒めてる? 褒めてない〜〜っ!?」
そんなやり取りをしながら、いつもの道を歩く。
気がつけば、もう家の前にたどり着いていた。
⸻
「ただいま〜!」
犬神が玄関を開けると、家の奥から――静かなピアノの音が、ふわりと流れてきた。
高くてやさしい音。どこか祈るような、揺らがない旋律。
「……あ、さとし、ピアノ弾いてる」
犬神が小さく笑って靴を脱ぐ。その足元で、俺も思わず耳を傾けた。
(……これは)
幼さの残るタッチだが、芯がある。ゆっくりと紡がれるその旋律に、自然と心が引き寄せられていく。
「弟……か?」
「うんっ。小学五年生。名前は“諭”っていうの」
「ピアノ、大好きで。よくこうやって……急に弾きはじめるのっ」
音は、まだ続いている。澄んだ音色が、廊下を伝ってこちらまで届いてくる。
まるで、誰かに届けたいものがあって――それを、音に変えているようだった。
犬神がそう話しながら靴を脱いだその瞬間、まるでその声に気づいたように――廊下の奥から、茶色い柴犬の子犬が勢いよく飛び出してきた。
「わふっ!!」
ふわふわの毛並みに、くるくるしたしっぽ。
まだ足取りがおぼつかない、小さな柴犬――ゲンキだった。
「わあっ、ゲンキ〜っ!」
チハルがしゃがみこみ、腕いっぱいで迎える。
ゲンキはぴょんぴょん跳ねながら、その頬をペロペロと舐めはじめた。
「ちょっ……こら〜っ、顔はやめてぇ〜っ!」
俺の足元に駆け寄ったゲンキは、ぴたっと立ち止まり、鼻をすんすん鳴らして匂いを確かめた。
「……懐いてる」
犬神が笑いながら言った。
「ゲンキ、基本“初対面には慎重派”なんだけど……越智くんは平気なんだね〜っ!」
「……動物に嫌われたことは、ない」
「えっ、それって特技!? いや、ステータス!?」
俺は淡々と答えたが――その足元で尻尾をぱたぱた振る子犬を見下ろしながら、内心、少しだけ頬が緩むのを止められなかった。
そのやり取りの向こうで、ピアノの旋律は、まだ静かにゆるやかに鳴り続けていた。けれど次の瞬間、ふっと音が途切れる。
ゲンキが跳ね回る足音だけが残った玄関に、今度は別の気配が――階段のきしむ音。軽い足取りのステップ。タタタッと響く音とともに、ひとりの男の子が、階段を降りてきた。
「……あ、やっぱ帰ってた」
白いシャツに七分丈のズボン。手にはまだ楽譜のページが一枚、握られていた。
「ただいま、さとし〜っ!ピアノ、今日も素敵だったよ〜っ!」
「ん。ありがとう……って、えっ?」
玄関先にいた俺を見て、諭の目がぱちぱちと大きく開く。
「だ、誰っ!? ……お姉ちゃん、男の人連れてきてるの!?!?」
ゲンキが「わんっ!」と跳ねながら、まるで同意するかのように吠えた。
「ち、ちがっ、違うの〜〜っ!!」
犬神が両手をぶんぶん振りながら、真っ赤な顔で否定する。
「これはその……っ、たまたま一緒に帰ってきただけでっ!」
「ふぅん……“たまたま”ねぇ……」
諭は、じとっとした目で犬神を見つめると、その視線を俺に移した。諭は少し首を傾げながら、まっすぐ俺を見て言った。
「こんにちは……お姉ちゃんと、一緒に帰ってきた人……ですよね?えっと……もしかして、クラスメイトの方……ですか?」
「う、うんっ!クラスメイト!隣の席の越智くん!」
犬神が慌てて補足する。
「へぇ……」
諭は俺の顔をしげしげと見て、小さく言った。
「……なんか、静かそうだけど……優しそうな感じ、する」
「……そう見えるか?」
「見える。“姉に苦労させられてそうな人”って意味で」
「さとし〜〜〜〜〜〜〜っ!!」
犬神が真っ赤になって頭を抱える横で、俺は静かに言葉を継いだ。
「……犬神の同級生。科学部だ」
その一言に、諭のまなざしが少し変わる。
まっすぐに、興味を持ったような目で俺を見つめてきた。
「科学部なんだ。……なんか、わかる気がする」
そう言った瞬間、足元で遊んでいたゲンキの耳がぴくんと動いた。
(……俺は、“それっぽさ”を出していたつもりはない。
にも関わらず、“わかる気がする”とは――なぜだ)
ゲンキが、ふとこちらを見上げてくる。小さく鼻を鳴らしながら、何かを感じ取ったように。
「でも、けっこうイケメンじゃん。……クール系だよね」
そう言いながら、諭は小さくニヤッと笑った。
「……さっきまでピアノ弾いてたとは思えない口の回りようだな」
「そりゃピアノは“手”で弾くからね?」
「……返しも早いな」
言葉の噛み合いが、妙にしっくりきた。
その様子を見ていた犬神が、ふっと目を丸くする。
「ちょ、ちょっと〜〜っ! なんか、ふたりとも……今日が初対面とは思えないんだけど〜っ!?」
ぷくっと頬をふくらませながら、くるくると視線を交互に向けてくる。まるでじゃれ合ってる子犬に挟まれたような、そんな落ち着きのなさがにじんでいた。
足元ではゲンキがちょこまかと動き回りながら、いつの間にか俺の足元にぴたっと寄り添っていた。
それに気づいた犬神は、「も〜〜っ、ゲンキまで〜っ!」と小さく抗議しながらも、どこか嬉しそうに笑っていた。
その様子を目で追いながら、俺は静かに立ち上がる。
ゲンキがぴたりと動きを止め、名残惜しそうにこちらを見つめる。その仕草に、ほんの少しだけ心が緩んだ。
――やっぱり、犬っていいな。
「……いい子にしてろよ」
そうつぶやいた俺の声に反応するように、ゲンキが小さく尻尾を振った。
その視線の先、諭が顔を上げて「えっ、もう帰っちゃうの?」と声をかける。
「……長居は無用だ。ひとまず、様子も確認できたしな」
「え、あ……そう、だよね……」
犬神の声が、ほんの少しだけ名残惜しげだった。
けれど、無理に引き止めるようなことはしなかった。
「外まで送っていこうか?」
「いや、構わない。すぐそこだ」
「……そっか。じゃあ――今日は、ありがとねっ!」
玄関に向かって扉に手をかけようとした、そのときだった。
上がり框の縁、段差のすぐ上でゲンキがぴたりと動きを止めていた。ちょこんと座り込み、じっとこちらを見つめる。そして、小さく「わん」とひと鳴きした。
「……またな」
その声に反応するように、ゲンキのしっぽが、ひと振り、ふるりと揺れた。