幕間『新章を告げる風』
選び取った答えは、
まだ小さく、けれど確かな光を宿したまま。
同じ時間の中で、別々の場所へと歩き出していた。
――ここから、それぞれの物語の“扉”が、
静かに開きはじめる。
* * *
夕方のリビング。
ソファには、こころが座ってタブレットを操作している。
俺はダイニングテーブルの端で、
スマホを伏せたまま、コーヒーを飲んでいた。
そのとき、
テーブルのスマホが一度だけ震えた。
(……DMか)
画面にはクランフィールドの通知。
送り主の名前を見て、指が止まる。
「Lunaria」
《クランフィールドのオフ会バトル──
来月の大会。
決勝まで行けば、あなたと対峙できるらしいわね。
……ずっと、その瞬間を待っていたの。
ロジカルリンク。
“本当の意味で”会える日を、楽しみにしているわ。》
その言葉を見た瞬間、
胸の奥がわずかに跳ねた。
――“ロジカルリンク”。
そう言われて、意味が分からないほど俺は鈍くない。
来月の大会。
決勝。
そこまで行けば――。
(……あいつ、最初から俺と当たるつもりでいる)
それを怖いとも、嬉しいとも、
まだ判断できない。
(……余計なログが、増えそうだな)
そう思っても、
俺はまだ画面を閉じられずにいた。
ちょうどそのタイミングで、
こころがタブレットから顔を上げる。
「たかゆき、メッセージ?」
「……ああ。来月の大会の件で、ルーナからだ」
「ルナちゃんかぁ……」
こころの声が、どこか嬉しそうに揺れる。
タブレットを抱えたまま、
わずかにこちらへ身を傾けた。
「来月の大会、手強い相手になりそうだね。
……あの子、めっちゃ強いよ?」
「まあ……警戒しておく」
必要なのは、ただひとつ。
感情を切り離して、勝つための準備を積むことだ。
* * *
鏡張りのダンス教室。
スピーカーから軽いビートが流れ、
リズムに合わせてステップが床を跳ねた。
「……5、6、7、8っ!」
つま先を返すと、鏡の中の自分がくるっと回る。
髪がふわっと揺れて、少しだけ形になっている気がした。
(あ、今の……悪くなかったかも)
先生が笑顔で手を叩く。
「梓ちゃん、その調子!
6月のオーディション、受けるんでしょ?」
「もちろん受けます!
本気で挑みたいんです――自分の力でっ!」
(誰かが笑ってくれたら、それだけで……うれしくなるんだ)
踊るのも、歌うのも。
誰かの心に――ふわりと届くものを作るのも。
バッグの中には、昨日作った新しいブレンドの香り。
そのほのかな残り香を思い出すだけで、
「大丈夫だ」って、静かに思えた。
音楽がもう一度流れ出す。
深く息を吸って、ステップへ踏み込んだ。
6月。逃げないで向き合ってみよう——
どっちのステージも、ボクの目指すべき道なんだから。
* * *
放課後。
科学部部室のドアを軽く叩く音がした。
……控えめなノック。
この音だけで誰かは分かる。
「失礼するわね、神田くん」
九条詩織先輩。
落ち着いた声。
無駄のない抑揚。
耳に入った瞬間、余計な雑音がすっと消える。
(……耳が勝手に覚えてる。)
それを否定したところで無駄なのは、もう知っている。
「明日の実験だけれど、比率を少し調整したいの。
あなたの“感覚”、一度通したくて」
その声の端が、ほんのわずか揺れた。
九条先輩が“隙”を見せるのは珍しい。
ほんの小さな落差。
でも、耳だけは正確に拾ってしまう。
「……何か、気になることでもありましたか」
自然と問いが出た。
気づけば、声の調子を追っている。
先輩は一拍おいて、
落ち着いた呼吸で整える。
「ふふ、大したことではないの。
少し考え事をしていただけ」
いつもより柔らかい響き。
(……揺れてる。)
理由は言わない。
なら、それ以上踏み込むのは違う。
ただ――
今の声を嫌だと思ったことは、一度もない。
扉に手を添え、閉める直前。
先輩はわずかに振り返った。
「明日は来てね。
あなたの判断が必要なの」
確信のある言い方。
揺れと芯の両方が同時に響く。
その横顔が、一瞬だけ残る。
(……やっぱり、忘れられない声だ。)
その声の余韻が、耳の奥に静かに沈んでいく。
それだけで、十分だった。
* * *
【4月30日(木)夜/自室 犬神千陽】
布団にもぐった瞬間、
ひんやりした夜の空気と、お日さまの匂いがふわっと混ざった。
(……高校生になって、もう一か月かぁ……
ほんっと、いろんなことがあったなぁ)
犬神神社の事件。
展望台のこと。
屋上でみんなと食べたお昼――
「部活、決めたよっ」って言った時の、あのまっすぐな河田さんの目。
(……生徒会、行くんだよね)
思い返すだけで気持ちが、じんわりあたたかくなる。
(きっと似合うよ。ああいう、誰かをちゃんと見てあげられるところ……
わたし、すっごくいいと思うっ)
迷いのないあの横顔。
新しい場所へ向かう光みたいだった。
(……わたしも、がんばらなきゃっ)
思わず布団の中でゴロゴロ転がっちゃう。
(玲奈先輩みたいに強くなりたいし……
テニス部でもっと上手になりたいし……
科学部のみんなとも、もっともっと仲良くなりたい)
胸の前でぎゅっと両手を握る。
(今日……ほんと、いい一日だったなぁ)
まぶたがとろんと重たくなってくる。
(いい夢が見れますようにっ……)
ふわりと意識が沈んでいき――
夢の中へ、静かに落ちていく。
………。
……。
…。
「あさみ、いつかね。大きくなったら、だれかを助けられる人になりたいのっ!」
「そっか……えへへっ、じゃあ、わたしもっ!
あさみが大きくなって困ってたら、ぜったい助けに行くからっ!」
「じゃあさっ、大きくなっても、ずーっと仲良しでいようねっ♪」
「うんっ、約束だよっ!」
小さな指同士が、ちょこんと絡み合う。
ひとつの誓いみたいに、あたたかくて、まっすぐで。
その直後――
「あっ、あたし、そろそろ帰らなきゃっ!」
茶色い髪を揺らして、“あさみ”は軽やかに立ち上がる。
「え……もう、帰っちゃうの……?」
「だいじょーぶだって☆ また来るからっ! バイバーイっ♪」
パッと笑って駆けていく“あさみ”の背中。
ひとり取り残されたチハルのまわりで、
落ち葉がカラカラと舞い上がる。
(……あれ……? どっちから来たんだっけ……?)
ぽっかり空いたような寂しさが、胸の奥にじわっと広がる。
足が動かなくなって、瞳がうるんで――
「……ママ……」
小さな嗚咽がこぼれた、そのとき。
「……あらあら、迷子になっちゃったのね」
振り返ると、
淡い光をまとった女性が、やさしく微笑んでいた。
手のひらにのせた黄色いテニスボールだけが、
夕陽を受けて小さく光る。
「ふふっ、大丈夫よ。もう、ひとりじゃないわ。
これ、あなたにあげるわね。……これを持ってたら、大丈夫だから」
差し出された手を、チハルはきゅっと握る。
あたたかい指先の温度が、彼女の胸に残っていた寂しさを、そっと溶かしていく。
そして、泣き止むことも忘れて一緒に歩き出した。
――向かった先は、家族の待つ天照寺。
それは、すべての“はじまり”へ続く、静かな道だった。
まだ記憶にも残っていない頃の、小さな奇跡。
ひとつのボールと、ふたつの約束。
やがて少女は、その記憶のかけらを胸に抱き、
“犬神物語”という名の運命へと歩き出していく――。




