第4話『これが――最適解だ』
(判断するまでもない。対象外だ)
そう結論づけた俺に、生徒会長は一度だけ視線を向けると、微かに笑って化学室を出ていった。
扉が閉まり、部屋には俺と犬神だけが残された。
一瞬だけ静寂が戻ったが――
「ふぅ〜〜〜……なんか、緊張しちゃったぁ〜」
棚の前で伸びをした犬神が、俺の方を見て笑う。
「でも、越智くんがいてくれて、なんか助かっちゃった。ありがとねっ!」
礼を言われるようなことをした覚えはなかった。
俺は「……別に」とだけ返す。
「じゃあ、帰ろっか!」
犬神がそう言って、先に出口へと歩き出した。
⸻
そのまま教室棟を出て、正門のほうへ向かう途中、犬神がぽつりとつぶやいた。
「ねえ……帰り道、ちょっと寄りたい場所あるんだけど……一緒に行ってもいい?」
「……どこだ」
「犬神神社って知ってる?
このへんにある小さな神社なんだけど――」
犬神は少し息を弾ませながら続けた。
「前にイベントでお参りしたことがあってね。
今日も、なんか行きたくなっちゃって」
「お参り?」
「うんっ! ほら、高校生活、これからうまくいきますようにって……なんか、げんかつぎ? みたいなやつ〜っ!」
そう言って笑う彼女の顔には、さっき科学部の棚を覗いていたときの無邪気さとは違う、ほんの少しの“緊張”と“期待”が混じっているように見えた。
――そういう感情の読み取りは、本来、俺の得意分野ではないはずなのに。
「……構わない。時間はある」
「ほんと!? やった〜っ!」
自分でも、なぜ即答したのか分からなかった。
そんな柔軟さは、俺のプログラムにはなかったはずだ。
隣で跳ねるように弾む声。
その足音が、いつの間にか“俺の日常”のすぐ隣まで踏み込んでいる気がした。
⸻
神社は思っていたよりも小規模だった。
けれど、境内の空気は妙に澄んでいる。
苔むした石段、風に揺れる白いのぼり。
静かで、やさしくて――どこか“守られている”ような気がした。
……俺がこんなふうに、場所の印象を言語化するなんて、珍しい。
「ここが、犬神神社っ!」
そう言って、犬神は先に鳥居をくぐっていった。
軽い足取りで、どこか懐かしそうに境内へ進んでいく。
「わたし、先に行ってくるね〜っ!」
犬神は軽い足取りで鳥居をくぐり、手水舎の方へ駆けていった。
その姿を見ながら、俺は石段の途中で立ち止まった。
(……やけに慣れてるな)
普段から通っている場所――いや、それ以上に、“心を置いている”場所のように思えた。
犬神は拝殿の前に進み、こちらを振り向く。
「越智くん、こっちこっち〜っ!」
呼びかけたその瞬間――彼女の表情がふっと変わった。
拝殿の脇に目を向け、何かを思い出したように動きを止める。
そして、犬神はそのまま建物の裏手へと回っていった。
「……裏?」
参拝の途中で方向を変えた。
裏手に誰かいるのか――あるいは、何かを取りに行ったのか。
そんな動機を考える間もなく、犬神の姿は拝殿の陰に消えた。
境内には他に誰の気配もない。だが――空気が、わずかに変化した。
(……風が、途絶えた?)
鳥の鳴き声も、葉の揺れる音も消えた。
環境音が一瞬で途切れる。
まるで、音そのものが遮断されたようだった。
そして――
「っ……な、に……?」
犬神の声。
どこか緊張した、それでいて怯えの混じったトーン。
(……嫌な予感がする)
思考より先に、身体が動いていた。
俺は石段を駆け上がる。
靴底が石を叩くたび、空気が震えた。
拝殿の裏手に回り込んだ瞬間――息が詰まる。
そこにいたのは――犬神と見知らぬ中年の男だった。
四十代後半か五十前後。痩せた体に焦点の定まらない目。
その手には鈍く光る金属――包丁が握られていた。
「誰にも言うな。誰にも……っ」
「……え、あの、違……っ」
「ッらあっ!!」
バシッ!――ッ
「きゃんっ!!」
その声と同時に、犬神の身体が崩れるように倒れた。
膝から、肩から、地面へ――そのまま、動かない。
(……まずい。倒れ方が……普通じゃない)
空気の震え。地面を打つ音。肌を刺す緊張――体が反射的に危険を察知していた。
包丁を構えた男が一歩踏み込む――
その瞬間、俺の身体は迷うことなく犬神の前に出ていた。
「やめろ……!」
喉の奥で、押しつぶされたような声が震えた。
言葉じゃない。恐怖でも、正義感でもない。
ただ、*“もう見たくない”*という、叫びに近い衝動。
……俺は、かつて“引いた”ことがある。
理由をつけて――責任からも、人との距離からも。
自分を守ることで、誰かを守れなかった過去がある。
でも、今は違う。
俺がここにいる理由を、この手で証明する。
もう、“守れなかった”なんて――言わせない。
胸の奥で、何かが音を立てて弾けた、その瞬間。
――境内を裂くように、まばゆい閃光が降り注いだ。
「っ――!」
俺は咄嗟に、崩れ落ちた犬神の前へ身を投げ出す。
理由を探す余裕なんてない。思考より先に体が動いていた。
光は祝福のようにあたたかく、守護のように凛としていた。けれど同時に、何かを削り取っていく気配がある。
視界を覆う閃光。
網膜を焼くような白が、一瞬で世界を奪った。
情報処理が追いつかない。
視界の端に、ノイズのような黒が走る。
胸の奥をひとすじの風が抜けた――いや、“風のような何か”が背後を通り抜けた。
鳥居の方へ向かうその気配に、世界が一瞬凍りつく。
静寂が満ち、“その声”を待った。
――『我が加護のもとにある』
声が響いた。耳じゃない。
胸の奥、心の中心に直接届いた。
低く、静かで凛としていて――けれどその奥に、どこか切なさを秘めたような深い響き。
(……誰だ)
見回しても誰もいない。だが、“存在”だけが、確かにそこにあった。
次の瞬間――視界に、数値が浮かぶ。
【自身の心拍数:97】
【呼吸数:15】
【体温:36.6℃】
【対象:男性/心拍数:143/動揺強/逃走傾向:高】
(……なんだ、これは? 俺のデータ? 違う――俺と相手の情報が同時に出ている……)
脳内に直接“表示”されているかのような鮮明さで、自分と他人の“状態”が瞬時に流れ込んできた。
「ぐっ……目が……!」
包丁を握った男が、光に目をやられたように顔をしかめ、よろめく。
震える足でなんとか立ち上がり、後ずさるように退路を探している。
(……逃げる気だ)
この場から。すべてから。そして――犬神を傷つけたことからも。
俺の手が、無意識に動いた。
落ちていたロープ。境内の地面に散らばった木の枝と破れた垂れ幕の支柱。
まるで誰かが、「これを使え」と言わんばかりに散らばせていたかのようだった。
(……これは偶然じゃない。まさか……)
全ての“構造”が、目に入った瞬間に組み立て順として“完成図”になる。
[環境構築ログ:#0025_地形利用_封鎖ルート]
─ 対象位置:北寄り/退路=鳥居方向
─ 可動オブジェクト:枝(細2)・支柱(折損)・ロープ(長さ:約2.4m)
─ 空間干渉率:73.8%/回避動作予測精度:92.1%
─ 最適反応パターン:【干渉→転倒→静止】
足場の位置、動線、腕の軌道、重心の崩し方――全情報がリアルタイムで演算され、“視界の中で”解として自動描画される。
(……この処理速度、俺の範疇を超えてる――だが、利用しない手はない)
男が動いた――その瞬間。
俺は正面から一歩踏み出し、男の視線を捉えたまま、足元の枝を“蹴ってずらす”。
枝が転がり、支柱が倒れる。狙いどおり、男の進行方向を塞ぐように。
ロープを握ったまま構えた俺を見て、男が一瞬、視線を切る。
次の瞬間、踏み込んだ足が支柱に絡まり、重心が崩れた。
(――決まった)
[転倒トリガー反応確認:成功]
男は、無様に地面に崩れ落ちた。
カラン――転げた包丁が、男の手元に止まった。
俺はすぐに蹴り飛ばした。
カシャン――刃は玉砂利を滑り、境内の外側へと転がっていった。
「……お前を、逃がすつもりはない」
ロープで手足を固定。動かないことを視認し、[状態ログ:被転倒→無力化]の生体ログを確認。
【最適解、確定】
もう、ここに留まる理由はない。
俺は、犬神のもとへと向かった。
⸻
静寂。
風が止まり、時間までも凍りついたようだった。
俺は静かに犬神のもとへ歩み寄り、その身体をそっと抱き起こす。
その瞬間――止まっていた風が戻る。
枝葉が揺れ、遅れて、カラン……と鈴の音が響いた。
世界が、呼吸を取り戻したようだった。
「犬神……大丈夫か」
その問いに、返事はない。けれど、瞼がふるりと震えた。
「……ん……うぅ……」
わずかに開いた瞳が、ぼんやりと俺を映す。
「……越智……くん……?」
「ああ。ここにいる」
少し掠れた声で、だけど確かに届くように。
彼女が無事であること――それを確認した瞬間、乱れていた心拍リズムがゆっくりと安定値へと収束していった。
(……これが、“守る”ってことか)
数値じゃない。グラフでもない。
この感覚だけは、Excelには残せない。
――俺だけの、“答え”だ。




