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第38話 『ラベンダーの彼方へ――』

落ちてる。

それしか、思えなかった。


冷たい風が横から叩きつけてくる。

橘さんの手だけが、私をこの世界につなぎ留めていた。


「……っ、河田……!」


「離さない……!」


ほんとうに、それだけだった。

それ以上の言葉は、風にさらわれた。


景色が赤く流れる。

夕陽が、一本の線みたいに遠ざかっていく。

反射的に、目を閉じる。



頭が真っ白になりかけた、そのとき――


“バシュッ!!”


下から空気が爆ぜる音がした。


次の瞬間、

背中が柔らかい何かに受け止められて、沈んだ。


――ぼふっ。


痛みは、ほとんどない。

ただ、空気が逃げていく音と、身体が大きく揺れた感覚だけが残った。


(……助かった……?)


肺の奥まで空気が入り、

ようやく“落下”が終わったと知る。

視界を覆っていた暗さが、ゆっくりほどけていく。


――風の音。


周囲で、紫が揺れる。ラベンダーだ。

風が通り抜けて、甘い香りが世界に戻ってくる。


そのすぐそばで、


「……計算通り。ギリギリだったな」


落ち着いた声がした。


顔を向けると、

越智くんが膨らんだ何かの端に片膝をつき、

体を預けながらこちらを見ていた。


眉は、ほとんど動いていない。

なのに、その目だけが少し揺れている。


隣で神田くんが腕を組む。


「にしても……お前、珍しく焦ってたぞ」


越智くんは短く息をひとつ吐く。


「……落下対象が二人になるとは思わなかった」


あまりに“らしい”言い方で、

一瞬、返す言葉を失う。


「……ごめ……っ、越智くん……」


呼んだだけなのに、声が勝手に震れてしまう。


越智くんは私と橘さんを順に見て、

ゆっくりと立ち上がった。


「立てるか。……無理しなくていい」


その言葉に、私は小さく頷く。


「……ありがとう」


まだ、橘さんと手は繋いだまま。

その温度だけは――

落ちていた間も、ずっと変わらなかった。


その向こうで、ラベンダー畑が静かに揺れている。

風が、ふたりの間をすり抜ける。


――まだ、生きてる。

二人とも、助けられたんだ。


身体の奥に溜まっていた力が、ゆっくりほどけていく。


「……ほんとに……よかった……」



ラベンダーの香りの中、

私たちは、息を整えていた。


そのとき――


階段を駆け降りる足音が、上から響いた。


「河田さんっ!!」


一番に飛び込んできたのは、犬神さんだった。

足をもつれさせながらも、まっすぐ私たちへ。


「よかった……よかったよぉ……っ!」


涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、抱きしめそうとして――

でも途中で慌てて止まって、両手をぱたぱたさせた。


「ご、ごめんっ、どこか痛いとこある……?!」


「だいじょうぶ……生きてるから……」


私が答えると、犬神さんは胸に手を当てて、へなへな座り込んだ。


少し遅れて村上さんも駆け下りてくる。


「二人とも……ほんとに……生きてて……!」


涙の粒が落ちた。

村上さんは、私たちの様子を見て肩を震わせる。


「なんで……そんな無茶なこと……!」


橘さんは――隣で、まだ座り込んでいた。

膝の上に落とした視線だけが、現実に追いつけないみたいに揺れている。


「…………なんで」


声は小さい。

でも、はっきり聞こえた。


「なんで……助けたの……?」


私は答えようと口を開きかけて、

言葉を探して――喉の奥で、一度息が詰まる。


「……気づいたら……体が動いてた」


それだけ言って、思わず目を伏せた。


夕陽が橘さんの横顔を照らす。

ラベンダーの影が長く伸びて、あたり一面が夕暮れの光に沈んでいく。


呼吸が、ようやく落ち着いてきた頃。

犬神さんが私の肩を抱きしめ、

村上さんも何度も涙をこらえながら頷いていた。


そんな中で――


私たちを受け止めていた、大きく膨らんだ装置のようなものに、ようやく目を留めた。


一度、息を整える。


「……越智くん、神田くん。

 これ……どうやって準備したの……?」


沈黙のあと、空気がふっと変わる。


逆光の中で、

越智くんの横顔には、いつもより濃い影が落ちていた。


「……説明する」


その言葉を聞いた瞬間、

“あのとき何があったのか”を受け止める準備だけが、

そっと整っていく。


――そして、越智くんは静かに語り始めた。


* * *


教室を出た瞬間、神田が俺の横に並んだ。

歩幅がいつもより少しだけ速い。


「……越智。

 で、どうするんだ」


焦りを抑えた声だった。


「科学部だ」


即答に、神田は間髪入れず返す。


「……だろうな」


階段を降りながら、神田が低くつぶやく。


「まさか“アレ”を使う気か?」


「橘が落ちる可能性がある。

 対応できるのは、あれだけだ」


神田の喉がわずかに鳴る。


「……一人くらいなら、受け止められるんだよな」


「設計上は余裕がある」


放課後直後の部室は、まだ誰の姿もなかった。

俺たちはその静かな空気を切り裂くように中へ踏み込む。


部室に入り、奥のロッカーから金属ケースを引きずり出すと、神田が思わず目を見開いた。


「……これ、“神堂先輩の遺産”だよな。

 本当に残ってたのかよ」


「落下衝撃緩和ユニット――SAU(Shock Absorption Unit)の試作品。

 去年、神堂沙月が一人で組み上げたモデルだ」


神田はケースに視線を落とし、短く息を吐く。


「……マジかよ。

 あの先輩、一人でここまで作り上げたのか……。

 ……何者なんだよ」


「話せば長くなる。

 少なくとも、“趣味”で作るものじゃない」


俺はそれだけ言って、ケースの留め具に指をかけた。


「折りたたみ式。展開五秒。

 小型ポンプは定格以内。

 耐荷重は――理論上、八十キロまで対応可能だ」


言い終えるのと同時にロッカーを開け、緊急用の収納バッグを引き出し、ケースのロックを外して手早く畳み、バッグに固定する。

金具が、かちりと噛み合った。


神田が端を支えながら、小さく笑う。


「お前さ……こういう時だけ、妙に頼もしいよな」


「計算できることは、全部やる。

 それだけだ」


部室を飛び出す。

校舎を抜け、風がぶつかった瞬間――

神田の足が、判断に引っかかるように鈍った。


「……正面からじゃ、間に合わねぇぞ」


「裏から行く。

 前に姉と展望台へ行った時、近道を見つけた」


神田の足音が、わずかに遅れて響く。


「……柴犬弁当の姉ちゃんか」


「細かい話は後だ」


「……ああ、行くぞ。もう迷ってる時間ないしな」


そのまま、下り坂へ駆け出す。


橘が落ちる前に――受け止める。

ただ、それだけだった。



日向公園に入った瞬間、神田がわずかに首を傾けた。


「……越智。まずいぞ。声が引っかかる」


「距離は?」


「百六十前後。……展望台の方だ」


風のざわめきを裂くように、神田の耳が拾う。


「何が聞こえる」


「……女の声が、四つある。

 ひとつは泣き声が強くて判別しにくい。

 言葉として拾えるのは、三人分だな」


(橘、河田、村上、犬神か……)


「内容は?」


神田は眉を寄せ、風の音に意識を集中させた。


「“ごめん”……“もう遅いよね”……

 “戻って”……そんなのが聞こえる。

 泣いてるのは村上。

 犬神は……叫んでるだけだ。

 河田の声も混じってるが……かなり震えてる」


(状況、最悪だ)


肩の緊張をほどくように、緊急収納バッグを背中から下ろす。地面に触れる前に、指先はもうジッパーを走らせていた。金属ケースの縁を掴み、そのまま引き抜く。


ケースのロックを親指で弾き、折りたたまれたフレームを一瞬で確認。

そのまま、展開位置を視覚演算に投げ込む。


【環境分析ログ:SAU_0043】

─ 対象:橘芹香

─ 身長:157cm

─ 体重推定:39kg

─ BMI:15.8(Underweight /低体重)

─ 落下角度:86.5°(ほぼ垂直)

─ 落下速度:9.1m/s

─ 衝突地点予測:南東斜面・ラベンダー群生

─ 展開推奨:中央から北側12cm

─ 加重計算:許容範囲内(安全率+1.7)


(……間に合う。

 ただ、この数値……)


胸の奥で、わずかに痛みが走った。

だが時間はもう残っていない。


俺はケースを地面に倒し込み、展開レバーに手をかけた。


「神田、展開したら――外周フレームのふち を押さえろ」


「了解っ……!」


神田が横を支えるのを確認し、俺は展開スイッチを押し込む。


――バシュッ!!


圧縮空気が走り、折りたたまれていた分割フレームが四方へ跳ねるように展開。続いて緩衝エアバッグが一気に膨らむ。


展開音が静まるのとほぼ同時に、神田が眉を寄せた。


「今……聞こえた。河田の声だ!」


息が止まりかける。

神田の声が震えた。


「……河田も──落ちたぞっ……!!」


(河田、お前まで……!?)


【落下ログ:SAU_0044】

─ 落下体:二名

─ 合計重量推定:85kg(規格値+5kg)

─ 衝突予測:0.8秒

─ 耐荷重判定:許容範囲外

─ 推奨:衝撃分散操作


(……オーバーだ。

 だが――やるしかない)


「神田、左フレームを押さえて衝撃分散!」


「わかってる……っ!」


神田が左縁のフレームに体重を乗せ、

俺は中央フレームの固定点を押さえて重心を安定させる。


(誤差0.3……許容内)


夕陽の中、二つの影が交差して落ちてくる。


「神田、踏ん張れ!」


「任せろ……っ!!」


風圧を正面で受け止めながら叫んだ。


「これが――最適解だ!」


――ぼふっ。


二人の身体が空気の膜に沈み込み、

ラベンダーが揺れ、風だけが上へ吹き抜ける。


神田が膝に手をつき、荒く息を吐いた。


「……よく持ったな、越智。

 あれ、普通なら潰れてたぞ」


「……条件が崩れても、最適解は一つだ」


声は平静でも、呼吸だけが僅かに乱れていた。


やがて視界の端で、

緩衝エアバッグの上に微かな人影が動く。


――二人とも、生きている。

計算外の誤差だったが……結果は悪くない。


* * *


そこで越智くんの“説明”は終わった。


私は、ゆっくりと現在に引き戻される。

胸の奥がまだざわざわして、呼吸の仕方を忘れそうだった。


目の前には、膨らんだエアバッグ。


その形を視界に捉えたとき、

ひとつの記憶が、ふっとよみがえった。


――《開扉注意:SAU(要整備)保管中》


科学部のロッカーの奥で見た、

小さな注意ラベル。


(……あれが……)


越智くんの話を聞いて、

ようやく、ひとつの線がつながった気がした。


神堂先輩が作って、

越智くんたちが使って、

それで――私たちは、ここにいる。


その思いが、静かに胸に沈んでいく。


顔を上げると、

すぐ隣には越智くんと神田くん。

少し離れたところでは――

犬神さんと村上さんが、私たちの無事を確かめるように立ち尽くしている。


橘さんは、

まだ現実を確かめるみたいに、視線を落としたまま。


そんな中で、越智くんがぽつりとつぶやく。


「……正直、河田まで落ちてくるとは思わなかったな」


呼吸が、一瞬だけ止まる。


「ご、ごめん……なさい……

 でも、橘さんが……」


震える声で言うと、

越智くんは深く息をひとつ吐き、まっすぐ私を見る。


そして――


「……無茶するなよ」


その声は冷静なのに、夕陽よりずっとあたたかかった。


横から神田くんが、ぼそっと言う。


「無茶っていうか……普通、飛ばねぇだろ。

 心臓止まるかと思ったぞ」


そのツッコミに、犬神さんは涙を拭いながら、


「ほんとだよぉ……河田さんまで……

 こっちは心配で足も震えてるんだから……!」


村上さんも真っ赤な目で、


「河田……マジで……無茶苦茶だよ……っ」


風が吹いて、ラベンダーが揺れる。

その拍子に、いつの間にか――指先の力が、少しだけ緩んでいた。


ここには全員がいて、

私も、橘さんも――生きていた。


その事実だけで、張りつめていたものが、

ゆっくりとほどけていく。


……その静けさの中で、

橘さんが震える声で、言った。


「……家に帰りたくない」


その言葉が落ちた瞬間、

ほどけかけていた気持ちが、また引き戻された。


(……帰りたくない、か)


それは、私が“学校に行けなかった頃”の感覚に、

少しだけ似ていた。


理由は違う。

状況も、痛みの形も全然違う。


私の“不登校の理由”は――

目の前にいる橘さん自身だった。


追い詰められた、あの言葉。

学校のことを考えるだけで、胸がつぶれるような恐怖が、何度もよみがえった。


でも。


(“その場所が怖くて戻れない”って気持ちだけは……

 分かる。痛いほど)


橘さんは家に帰れなくて、私は学校へ行けなかった。


形は違っても、

“逃げたい場所がある苦しさ”だけは、

確かに同じだった。


だから――私は、

橘さんの手をそっと握り返した。


「橘さん……

 その気持ちだけは……分かるよ」


一瞬、橘さんの手が強張った。


「わたしね、

 “居場所がない”って思ってた時期があったの」


「でも……

 今は、ここにいる」


少しだけ視線を合わせて、私は続ける。


「橘さんも……

 きっと、そうなれるよ」


橘さんが、ゆっくりと顔を上げた。

夕陽の色が、揺れる瞳に差し込んで――

混乱と戸惑いの奥で、

ほんのわずかに、何かがほどけたように見えた。


そのとき、後ろから足音がそっと近づいてくる。


「芹香、あのさ……」


村上さんだった。


いつもより、ずっと静かな声。

橘さんの横にしゃがみこみ、そっと肩に手を置く。


「帰りたくないなら……

 今日はウチんとこ来ればいいじゃん。

 ね? ひとりでいなくていいよ」


橘さんの目が、もう一度揺れた。

夕陽がその横顔できらりと光る。


「……愛梨沙……」


掠れた声。


村上さんは泣きそうな笑顔で言った。


「当然でしょ。

 友達じゃん、あたしたち」


風が吹き、ラベンダーの香りが広がる。


橘さんは、私の手をぎゅっと一度握りしめてから――

静かに、村上さんのほうへ身体を預けた。


「……ありがとう……みんな、ごめん」


夕陽が沈む直前の光の中で、

その言葉だけが、そっと落ちた。


問題が全て解決したわけじゃない。

橘さんの家庭のことも――まだ、何も終わっていない。


それでも。

今、この場所では。

彼女は、ひとりじゃなかった。


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