第37話『その手は、誰かを救うために』
【4月27日(月)放課後/1-C教室 橘芹香】
放課後のチャイムが鳴った瞬間、
教室中の椅子が一斉に軋んだ。
ガタガタと引きずる音、カバンの金具が噛み合う乾いた音、誰かの笑い声。
いつも通りの“帰り支度”のはずなのに――
あたしだけ、机に貼りついたみたいに動けなかった。
(……帰りたくない)
理由なんて掘り返したくない。
なのに、胸の奥がざわついて、
そのざわめきがまたイラつきを呼ぶ。
指先がじわりと熱くなる。
立たなきゃ、と理解していても――
体がどこかで拒んで、椅子に縫い付けられたみたいに動かなかった。
「……芹香?」
名前を呼ばれて顔を上げると、
愛梨沙が、いつも通りの“軽い笑み”を浮かべて立っていた。
その何気ない明るさが、今日はどうしようもなく神経にさわった。
「大丈夫? ずっと、ぼーっとしてたけど……」
「……ほっといてよ」
自分でも驚くほど弱い声で返してしまい、
それがまた余計にムカついた。
「あのさ、今日一緒に帰らない? ちょっと話──」
その“帰る”って言葉が、背筋をひやりと撫でていく。
……帰る? あの家に?
そんなの無理に決まってるじゃん。
それに……あんたに何を話せばいいの?
さっきだって、余計なことまで河田に言ったくせに……。
逃げ場なんて、どこにもない。
あんな家に戻るくらいなら、死んだ方がまだマシ。
愛梨沙が何か言ってる。
周りの音も遠ざかる。
自分の鼓動だけが、やけにうるさい。
「ごめん」
喉の奥から、かすれた声がこぼれた。
その無力さに、心のどこかが静かに崩れていった。
「……あたし、展望台行くから。
……もう……全部、終わらせたい」
「え……? ちょっと、芹香──!」
呼ばれても、その声はもう届かない。
期待することにも、ただ疲れてしまって、
誰かの優しさに触れるたびに壊れそうになる——
そのことが、何より怖かった。
(……もう終わりにしたい)
遠くで、愛梨沙の声が揺れていた。
けれど、その言葉を受け止める余力なんて残っていなかった。
教室を出た瞬間、背中に視線が刺さる。
好奇心なのか、それともただの無関心なのか――
どっちでもよかった。もう、どうでもよかった。
ただ前に進む足音だけが、やけに大きく響く。
外に出た途端、夕風が胸の奥をざくりと削った。
呼吸が乱れているのかどうかすら、もう分からない。
気づけば、走っていた。
ローファーがアスファルトを叩く音だけが、耳の奥でひたすら跳ね続ける。
息が苦しい。
でも止まれない。
止まったら、“あの夜”の足音が、また背中まで迫ってくる気がした。
*
つい最近の夜――。
リビングで、母がつくった夕飯の皿を片づけていた時、玄関のドアが壁に叩きつけられるような音を立てた。
まただ。
こういう日に限って、いつもより早く帰ってくる。
「……芹香ァ! 聞こえてんだろ!
なんで無視すんだよ! 返事しろって言ってんだろがッ!」
外で飲んで機嫌を悪くして、その勢いのまま戻ってきたときの酒の匂い。
母の肩が跳ねた。皿が揺れる。
振り向いた顔は、もう青ざめていた。
「きょ、今日はもう……芹香、明日は学校が──」
「黙れっつってんだろ!!!」
ガシャンッ。
皿が砕け、母が息を呑むような悲鳴を上げた。
その声すら、父の怒鳴り声にかき消される。
(やだ……聞きたくない……)
あたしは自室へ駆け込んで襖を閉めた。
手で押さえても無駄なことくらい、もう分かってる。
なのに足音は、迷いなくこっちへ向かってくる。
ドン、ドン、ドンッ……!
木の廊下が踏みつけられるたび、低く鈍い音を立てた。
(逃げ道なんて、どこにもない――)
バンッ!!
襖が大きく揺れ、木枠がぎしりと鳴った。
次の瞬間、襖は——
怒気をはらんだ勢いのまま、乱暴に引き開けられた。
「……芹香ァ!!
逃げんじゃねぇよ……出てこいッ!!」
引き開けられる音とともに、酒臭い空気が一気に流れ込む。
「……いたじゃねぇかよ」
逃げる暇もなく腕を掴まれて――
そのまま力任せに引き寄せられた瞬間、
バシィッ!!
「っ……!」
頬が焼けるように痛い。
視界が揺れ、耳の奥で鈍い“じん”が響く。
倒れ込んだあたしへ、あいつは吐き捨てた。
「生まれてこなきゃよかったんだよ。
お前なんか……ずっと邪魔だったんだよ」
(……やめて)
母の泣き声。割れた音。酒の匂い。
あんな言葉、忘れられるわけがない。
今も頭の奥で、錆びついた釘みたいに刺さったまま抜けない。
……どうしてあたしだけ、
こんな家に生まれなきゃいけなかったんだ。
*
――あの夜が、頭に割り込んでくる。
だから走るしかなかった。
息が止まるほど怖くて、立ち止まれなかった。
坂道を登る。
あの場所へ続く階段を、一段ずつ踏みしめる。
(……あたしが、いなければよかったんだ)
最後の段を踏み出した瞬間、
視界の赤さだけがふっと広がった。
誰もいない、あたしだけの展望台。
柵の前まで歩く。
伸ばした両手に、金属の冷たさがじわっと食い込む。
あとは、この冷たさに身を預けるだけだと――
そんな考えが、ふと胸をよぎった。
呼吸が乱れ、胸が痛い。
視界の端がにじんで、何を考えているのかも分からない。
しばらく、何も感じられないまま、その場に立ち尽くしていた。
(……疲れた……もう……やだ……)
夕陽の色だけが、勝手に変わっていく。
その変化とは裏腹に、あたしの決意だけが静かに固まっていった。
「……ここで――終わらせる」
* * *
【4月27日(月)夕方/展望台 河田亜沙美】
階段を駆け上がった瞬間、
柵の外側に、ありえない場所へ立つ背中が見えた。
そこは、もう地面のない方だった。
「……橘さん!」
声が震えた。
呼びかけても、こちらの足音にも反応がない。
ただ、夕陽の向こうに身を向けたまま、立ち尽くしている。
やがて、彼女はゆっくり振り向いた。
目のふちが濡れて、夕陽の赤が淡く揺れていた。
「来たんだ、河田さん」
「……心配で、来ないわけないよ……っ!」
犬神さんが息を切らせて駆けつけ、
その後ろで村上さんが胸に手を当てていた。
だれも、言葉を継げなかった。
風に髪を揺らしながら、橘さんが言う。
「ねぇ、河田さん。
人って……どこまで我慢したら許されるんだろ」
胸が痛んだ。
「橘さん……そんなの……」
「苦しいなんて……言えなかった。
言えないまま……誰にも気づかれなかった」
その痛みに触れた瞬間、心が勝手に動いた。
助けたい――ただそれだけで、私は一歩、前へ出ていた。
「……あの頃のわたし、自分のことで精一杯で……
橘さんの痛みに向き合えなかった。……ごめん」
小さく首を振る。
「ちがうって。
見てほしいなんて……言えなかったのは、あたしだから。 誰にも言えなくて……ずっと苦しかった」
言葉の端が、かすかに震えた。
「だから……強がってばかりで。
優しくされるほど、どうしていいか分からなくて……」
視線が足元に落ちる。
夕陽の届かない崖の影が広がっていた。
「河田さん……ひとつだけ、謝らせて」
かすかに震えた声が、風に溶ける。
「中学のときだけじゃない……
今だって、河田さんにひどいことばっかしてきた。
本当はずっと……謝りたかったんだ。……ごめん」
胸が締め付けられた。
「橘さん……」
「でも、もう遅いよね」
犬神さんがかすれ声で叫ぶ。
「橘さん、お願い……戻って……っ!」
村上さんが涙で声を崩しながら続ける。
「もういいよ……ほんとに……!
帰ろ……? いまから……アイス買いに行こ……?」
その言葉に、橘さんの肩がほんの少し震えた気がした。
夕風に髪が揺れて、村上さんのほうへゆっくり視線を向ける。
かすかに笑った。
泣き出しそうなくらい弱くて、優しい笑みだった。
「……愛梨沙。
ありがと。
でも……もう終わりにしたいの」
その一言が、胸の奥でひどく冷たく沈んだ。
ほんのわずかな揺れが――
境界を越える“その瞬間”を予感させた。
崖下の暗闇が息を吸い込むように口を開け、
そのすぐ外に立つ橘さんの影が、かすかに揺れる。
「……橘さん、もう……戻ろ?」
声が震えて、自分の声じゃないみたいだった。
橘さんは、ふっと悲しそうに笑った。
その笑みに、期待も、希望も、未来も、どこにもなかった。
「……ねぇ、どうして止めるの?
あたしなんか……いないほうがいいんだよ……」
夕陽の赤が、その横顔をやわらかく染めるのに――
その目だけが…… 世界から切り落とされたみたいに、ひどく静かだった。
そして、ひと呼吸ぶんの静けさのあと、
橘さんは私たちを見渡すようにして、
小さく、小さく笑った。
「……さよなら、みんな」
その言葉が、最後の糸みたいに切れた瞬間――
手すりの金属が、低く軋む。
彼女の体が、後ろへ大きく傾いた。
「だめ――ッ!!」
叫んだ瞬間、世界がふっと音を失った。
風も、夕陽も、崩れかけた足場も――
すべてが薄い膜の向こう側へ押しやられたみたいに、遠ざかっていく。
静まり返ったその中心で、何かが微かに明滅した。
――光。
幼い日の声が、水面を破るように届く。
『あなたの名前、何て言うの?
わたしはねっ――犬神チハルっ!』
その名前が、はっきりと音を持って響く。
忘れていた輪郭が、やさしい光となって立ち上がった。
続くように、あの日の響きが、記憶の奥底で結び直されていく。
『あさみね。いつか……大きくなったら、
だれかを助けられる人になりたいのっ』
ラベンダーと砂場の匂い。夕焼けの公園。
笑いながら手を伸ばしてくれた、あの温かい指先。
あの日、胸に灯った“願い”が、
長く眠っていた光が――
フラッシュバックのように、鮮烈に息を吹き返した。
その瞬間、迷いはすべて霧のように消えていた。
迷うという選択肢すら、もう存在しなかった。
「お願い……死なないで!! 橘さんッ――!!」
反射で体が動く。
考えるより先に、足が勝手に前へ飛び出していた。
そして――跳ぶように柵へ飛び込む。
腕を思いきり伸ばした瞬間、
手すりに肩が強くぶつかり、勢いで体が半分外へ弾き出される。
視界が跳ねても、金属が肌を掠めても――
それでも、手を伸ばす。伸ばす。伸ばす……!!
――指先が、触れた。
「……っ、届いて――!!」
――届いたっ!
橘さんの手を、ぎゅっと掴む。
掴んだ瞬間、彼女の重みが全身へのしかかる。
その重さに引かれるように、足元の地面が――
音もなく、抜け落ちた。
犬神さんの叫びが裂けるように響き、
村上さんの叫びも、涙まじりに重なった。
世界の重心がひっくり返る。
夕陽も、風も、声も、すべてが一度に遠ざかっていく。
わたしたちは――
ラベンダーの待つ崖の下へと、落ちていった。




