第36話『約束の展望台』
【4月27日(月)昼下がり/旧校舎裏 河田亜沙美】
風がそっと通り抜け、遠くでチャイムの予鈴が静かに響いた。
そのとき――
背後で、乾いた靴音が静かに止まった。
コツン、と。
反射的に振り向いた私の視線の先。
旧校舎の“影”の奥から、
橘芹香が――ゆっくり滲むように姿をあらわした。
表情は笑っているように見える。
でも、その笑みには温度がなく、貼りついた面のように微動だにしなかった。
「……楽しそうだったね。ふたりとも」
落ちてきた声は静かで、
その奥の気配だけがひんやりと空気を刺した。
――聞かれていた。
その事実に触れた瞬間、世界の音がすっと遠のく。
「……ふたりで、仲良くおしゃべり?」
声音は静かなのに、刺すように鋭い。
村上さんの肩が、わずかに跳ねる。
「せ、芹香……」
橘芹香が近づくたび、
砂を踏むひやりとした摩擦音が、背筋を走った。
「久しぶりね、河田さん。……ずいぶん楽しそうじゃない」
「橘さん――」
その言葉を、踏み込んだ彼女が鋭く断ち切った。
「気づいてる? あなたが今いる“場所”」
一歩。
「犬神さんに懐かれて、科学部にも居場所があって、
生徒会の先輩たちにまで名前を覚えられて」
もう一歩。
「――そんなの、あたしがどれだけ努力しても届かなかった場所なの」
その言葉をこぼした橘芹香の瞳が、一瞬だけ痛むように揺れた。
背中が震えそうになるほど苦しかった。
それでも、私は目を逸らさなかった。
「……わたしは、もう――あなたから逃げない」
胸の奥に、すっと一本の芯が通る。
言葉にした瞬間、〝心〟が、逃げずに進む方へと定まった。
「……わたしの居場所はね、
逃げなかったからこそ、辿り着けた場所なんだよ」
橘さんの口角がわずかに上がる。
けれど、その目は微動だにしなかった。
「そう。――だから余計に妬んじゃうの」
呼吸がかすかに詰まる。
「あんたが持ってるもの、全部持ってないあたしが――
あんたを嫌いになるの、当然でしょ?」
その瞬間、村上さんの胸元に添えた手が、かすかに強ばった。
「芹香……そんなの、違うよ」
震える声が空気に溶ける。
橘芹香の肩がわずかに揺れ、視線がゆっくり村上さんへ向いた。
「違わないよ。
だって、あんたまで河田の味方なんでしょ?」
「えっ……」
「今日もふたりで笑ってたじゃん。
あたしがどんな気持ちで家に帰れなかったか……知ってるくせに」
怒りに震える声は、かすかに涙の気配を含んでいた。
次の瞬間、視線が村上さんから私へ鋭く跳ねる。
「――あの写真、晒すよ」
肌をかすめたその鋭さに、喉がふるりと震えた。
でも、その恐怖はもう以前みたいに私を押しつぶさなかった。
震えの奥で、静かにひとつ“芯”が立つ。
逃げてばかりの自分を――ここで終わらせる。
「……つらいなら、晒していいよ。
あなたが少しでも楽になるなら」
これが――今の私の答えだった。
その瞬間、橘芹香の瞳の奥がわずかに揺れる。
「……は? なんで? 怖くないの?」
「怖いよ。……でも逃げない。
もう、あの頃のわたしには戻らない」
後ろは振り返らない。
喉の震えも、足元の弱さも――
今はただ、静かに受け止められた。
その静けさの中で、
彼女の表情にわずかな歪みが走り、かすかな笑いが――ひび割れたようにこぼれた。
「……ははっ。
ほんと、どうかしてるよね。あたし……」
直後――
視線がふいに宙をさまよった。
足もとから支えがそっと抜け落ちたみたいに。
「……はぁ。もういい。
ちょっと……試しただけよ。
晒すって言ったのなんて、最初から“嘘”だから……」
ふっと揺れた前髪の影に、
諦めと安堵が同じ色で滲んで見えた。
その弱さが――胸の奥へそっと沈んでいく。
「芹香……いったん離れよ? 一緒に行こ?」
村上さんが手を伸ばす。
橘芹香は、その手を見ようともしなかった。
「やだ。行かない。
……疲れたの。あんたたちのこと考えるのも」
そっと背を向け、影の落ちた廊下へ歩き出した。
教室へ戻っていく後ろ姿は、どこか心細く映った。
「芹香……待ってよ……」
私はただ見送るしかない。
胸の奥に残った小さなざわめきだけが――
風に触れても、消えずにいた。
* * *
放課後の教室――。
橘さんと向き合ったあの瞬間から、
胸の奥の“あのざわめき”が、まだ静かに残っている。
全てが解決したわけじゃない。ただ、何か大事なものを置き去りにしたまま、時間だけが流れていくような感覚。
ふと、机の上のノートに目を落とす。
外から吹き込んだ風が、その端をふわりとめくった。
思わず視線を風の抜けた窓のほうへ向ける。
その視界の端で、校庭を横切る小さな人影が揺れた。
(……橘さん?)
確かめる間もなく、彼女は校舎の影を抜け、
まるで何かから逃げるように走り出した。
迷っているようでもなく、誰かを追っているわけでもない。
ただ“ここから離れたい”という衝動だけが、
ひたすら前へ押し出しているようで――。
夕陽に照らされた背が、坂の向こうへ消えていく。
胸の奥がぎゅっと縮まる。
(……なに、あれ……? 様子がおかしい……)
理由もなく、手のひらに汗が滲んだ。
ただの帰り道じゃない。
そんな直感だけが、息苦しいほど鮮明だった。
――そのとき。
「河田さんっ……! 大変、芹香が――!」
勢いよく開いたドアの向こうで、村上さんが息を切らしていた。
クラスのざわめきが一瞬で止まる。
「――芹香、あの子……“展望台で全部終わらせる”って……言ってたの!」
その言葉が胸に落ちた瞬間、心臓が跳ねた。
空気が、一瞬だけ凍りつく。
越智くんが立ち上がり、低い声で問う。
「時間は?」
「たった今、校門を出たところ!」
犬神さんがラケットを机に置き、私の方を見る。
「……行こっ!」
「うん!」
その横で、神田くんがぼそりと呟く。
「部活どころじゃないな」
越智くんと神田くんが、ほんの一瞬だけ視線を交わす。
次いで、越智くんが短く告げた。
「……俺たちは後で向かう。すぐ追いつく」
その声を背に、私たちは机の間を抜けて廊下へ飛び出した。
窓の外で夕方の光が揺れる。
靴音が響く。昇降口へ向かって一気に駆ける。
校門を抜けた風が、頬を鋭く撫でていく。
走るたび、胸の奥で鼓動が強くなる。
(……お願い、橘さん。早まらないで)
* * *
坂を駆け上がるほどに、呼吸が荒くなる。
夕方の冷えた空気が、胸の中に冷たく刺さった。
日向公園の入口が見えてきた。
勢いのまま駆け込み、園内の小道を踏みしめる。
背後から、犬神さんと村上さんの足音が必死に続いてくる。
唐突に、脇のラベンダーが風に揺れ、
淡い香りが一瞬だけ頬をかすめた。
その匂いに触れた瞬間、ふっと思い出がよみがえる。
――犬神さんが言っていた。「ラベンダーの花言葉は、『あなたを待っています』だよっ」
わずかに胸のざわつきが和らぎ、張りつめた呼吸が少し整う。
(……待ってて。すぐ行くから)
公園の奥――
展望台へと続く“細い階段”が視界に入り、
息がひときわ強く詰まった。
手すりをつかみ、一段ずつ一気に駆け上がる。
靴裏が木の段を叩くたび、焦りだけが前へ前へと押し出す。
階段を抜けた先――
茜色の夕陽が、展望台の縁を静かに染めていた。
その手すりのそばに、ひとり――
彼女が、立っていた。




