表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

35/41

第35話『静かな崩壊 』

展望台の景色が――いつからか、好きになっていた。


“綺麗だから”なんて理由じゃない。

ここは……余計な音が全部消える場所だった。


家に帰りたくない夜が続いた。

息がつまる空気と、耳に刺さる生活音から逃げたくて……気づけば、いつも日向公園にいた。


この時期だけ公園で咲くラベンダー。

その香りが、胸のざわつきを落としてくれる。

その匂いに誘われるように、いつもの公園の端にある細い階段を登った。


展望台に着く頃には、夕陽の名残りがかろうじて空に残っていて、夜の気配を含んだ風がすっと足もとを抜けていく。

手すり越しに見下ろすと、そこは帰り道のない高さ。

その奥で、家々の灯りだけがぼんやり浮かんでいる。


ここに立つと――

少しだけ呼吸が楽になれるような気がした。


何も考えなくていい時間が、ここにはある。

こんなふうに逃げてる自分が、一番嫌いなはずなのに。


そして、胸の奥でふっと浮かんでしまう。


……もし、この手を離したら――

何もかも終わらせられるんじゃないかって。


* * *


【4月27日(月)朝/たちばな芹香せりか


目を覚ますと、部屋の隅に差し込んだ朝の光が、散らかった教科書をぼんやり照らしていた。

カーテンの向こうでカラスが鳴く。その声に、今日がまた“始まる”ことを知らされる。


制服に袖を通し、髪をひとまとめにする。鏡は見ない。

あの日、あいつに向けて吐いた言葉が、まだ耳の奥にこびりついている。

あんな顔で、あんな声で言った自分を思い出すのは、できるだけ避けたかった。


部屋を出るとき、息をひとつだけ押し殺す。


廊下に出て、そのままリビングの引き戸へ手を伸ばした。開けた瞬間、油のはぜる音と煙草の匂いが一気に流れ込む。台所では母が卵を返し、リビングではクソ親父がテーブルに突っ伏して寝息を立てていた。


「おはよう、芹香。……ご飯、食べていかないの?」


「あたし、いらない」


母は返事の代わりに、フライパンをひと振りした。

油はねの音が、妙に冷たく響く。


「……お父さん、また遅くまで飲んでたの」


「知ってる」


それ以上、言葉は出なかった。

声にしてしまったら、何かが壊れそうで。


母は小さくため息をつき、ぽつりと呟いた。


「……もうすぐ、決めるから」


その呟きのかすれた響きが、胸にざらりと刺さる。

靴を履いて玄関の戸を開けると、冷たい朝の風が頬を撫でた。


外の空気は、家の匂いよりずっと軽かった。


* * *


朝の風は少し冷たく、昨日の雨の匂いがまだ残っている。坂を登りながら無意識に息を吐いた。


(……静かだったな、今朝は)


あいつは、まだリビングで眠っていた。だが、あの濁った寝息の奥には、いつもの暴力の予感が潜んでいる。


――1年前までは、まだ「普通の家」だった。


父はスーツを着て出勤し、母は笑っていた。

だが、会社をリストラされてから、全部がゆっくり壊れはじめた。


最初は「すぐ見つかるさ」と笑っていた。けれど、その笑顔は酒の匂いに変わった。競馬中継、空き缶、灰皿の山。家の色が少しずつ抜けていく。母は何度も怒鳴り返していたが、ある日を境に何も言わなくなった。

台所で無言で皿を洗う背中。その沈黙が、怒鳴り声よりずっと怖かった。

父が寝返るたび、酒と煙草の匂いが部屋の奥まで流れ、胸の奥が冷えていくのが分かる。


(……あの家にいたら、あたしまで壊れる)


朝の光のなかで、そんな言葉が浮かぶ。

新緑の並木道を歩きながら、ある考えが胸に忍び寄った。


(……あの写真、ほんとは晒すつもりなんてなかった)


河田の顔を見た瞬間――あの「何もかも分かってるような目」が、どうしても許せなかった。


(あたしばっかり、汚い場所に置かれて、あの子だけ光の中にいるみたいで)


頭の中が真っ白になった。怒りでも嫉妬でもない、もっと濁った何かがじわりと広がる。スマホをかざしたとき、自分の中の良心が音もなくひび割れた気がした。


(あんなの、晒せるわけないじゃん……)


それでも――脅したのは事実。

あの瞬間の指先の冷たさが、今も心の奥に残っている。

自分でも吐き気がするほど醜い感情が胸を貫き、

だからこそ行動には移せなかった。


立ち止まっていても、考えは何ひとつ軽くならない。

……それでも、前へ歩くしかなかったんだ。


靴の音がアスファルトを打つ。

風がひとすじ揺らす髪の先に、何かの“始まり”の気配があった。


* * *


校門へ向かう坂で、後ろから声がした。

振り返ると、村上愛梨沙が手を振りながら追いついてくる。


「昨日も、すぐ家に帰らなかったんだ?」


「あー……うん。ちょっと、展望台まで行ってた」


「また? あそこ、最近寒くない?」


「寒いけど、景色いいし。風が当たると、落ち着くんだ」


愛梨沙は首を傾げてふっと笑う。


「……芹香らしいね」


「なにそれ」


ふたりでこくりと笑ったあと、少し沈黙が落ちる。


「ねぇ、今日の帰り、アイスでも食べよ」


「いいよ」


いつものようにほんの一瞬笑えた。それだけで、朝の風がやわらかく感じられた。


校門前に着いたことに気づくと、

登校していく生徒たちの声が、ざわざわと耳を撫でていった。


その向こうから、軽い笑い声が風に運ばれてくる。

犬神、越智、神田――その真ん中に河田がいた。


(……あいつ、戻ってきたんだ)


朝の光のなかで、四人の空気がわずかに揺れた。

その輪の中心に、河田がいる。

犬神も、越智も、神田も……生徒会長まで、当然みたいに隣に立って。


(……なにそれ。どれだけ守られてんの)


胸の奥が、ひやりと掻きむしられるように痛んだ。

触れられたくないところを、急に握られたみたいに。


たった一週間休んだだけなのに――

戻ってきた途端、みんなが当然のように受け入れて、庇って、寄り添って。


(……ずるい)


あたしがどれだけ誤魔化して笑っても、

誰一人、本気で気づいてくれたことなんてなかったのに。


あたしには一生、届かない場所――

河田は、そこに立つだけで手に入れる。


その笑顔が、胸の内側をじわりと削っていく。


あの輪の近くまで行くのが怖くて、歩く速度を少しだけ落とした。


「ねぇ、どうしたの?」


背後から愛梨沙の遠慮がちな声。

振り返ったあたしを、彼女が心配そうに見ていた。


「……別に。なんでもないよ」


「顔、ちょっと暗かったから」


「……寝不足なだけだって」


そう言って小さく笑ってみせ、二人で校門をくぐる。

しばらく無言で歩いたあと、愛梨沙がぽつりと口を開く。


「……ねぇ、河田、戻ってきたんだね」


「……うん。さっき見た」


愛梨沙の声には、どこかほっとした響きがあった。

でも――あたしの胸の奥には、まだ冷たい影が残っている。


少し間を置いて、愛梨沙が小さく息を吸う。


「……あの画像、ほんとに晒しちゃうの?」


足が、一瞬だけ止まった。

風が頬を撫でる。

その冷たさに紛れるように、あたしはかすかに笑った。


「……さぁ、どうかな」


軽く言ったつもりだった。

なのに、思ったより低い声が出て、喉の奥がちくりと痛む。


* * *


昼休み、愛梨沙がそっと席を離れた。

小さくため息をついて、そのまま教室を出ていく。


(……どこ行くんだろ)


声をかけようとして、やめた。

そのまま机に突っ伏していたけれど、胸のざわつきがどうしても消えない。


しばらくして、胸のつかえを払い落とすように息を吐き、あたしも席を離れた。


廊下に出たときには、愛梨沙の姿はもうなかった。

昇降口に向かったわけでも、トイレの方でもない。


(……じゃあ、旧校舎か)


あそこは、あたしとあいつがよくたむろしていた場所。

外向きの笑顔を張らなくても息ができた、数少ない“居場所”。


その記憶だけを手がかりに、

あたしは教室と反対側の廊下へ足を向ける。


旧校舎へ続く渡り廊下に差し掛かると、

窓からの光が、薄い埃を静かに浮かせていた。


――その先に、見慣れた後ろ姿。

愛梨沙。そして、その向かいに、河田がいる。


思わず足が止まった。

旧校舎の影に身を寄せると、ふたりの声が風に混じって届く。


『……止めたかったのに。

 分かってたのに……何もできなかった』


『……ううん、いいの。

でも――もう大丈夫。……わたしも、あのときは逃げてたから』


(……は?)


胸の奥がひりつく。

“止めたかった”? 誰を?

“逃げてた”? どこから?


(……あたしたち、同じ“場所”にいるはずだったのに)


呟いた心の声は、影の中で冷たく沈んだ。


『芹香さ……家のことで、いろいろあるんだよ』


『夜、家に帰りたくなくて……

 公園とか、ゲーセンで時間つぶしてたんだって』


その瞬間、体の血の温度がすっと落ちた。


(……愛梨沙。あんたまで、そっち側なの?)


胸の奥がきしむ。

裏切られた、というより――置いていかれた。


(なんで……あたしだけ、ずっと“汚い場所”にいるみたいじゃん)


河田の、あのやわらかい笑い声が遠くで揺れる。

やけに静かで、耳障りで、怖いほど綺麗で。


気づけば、スマホを握り潰すように掴んでいた。


――壊してやる。

 その繋がりも、信頼も、全部。壊してやる。


あたしの胸の奥で、黒い衝動だけが静かに膨らんでいった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ