第35話『静かな崩壊 』
展望台の景色が――いつからか、好きになっていた。
“綺麗だから”なんて理由じゃない。
ここは……余計な音が全部消える場所だった。
家に帰りたくない夜が続いた。
息がつまる空気と、耳に刺さる生活音から逃げたくて……気づけば、いつも日向公園にいた。
この時期だけ公園で咲くラベンダー。
その香りが、胸のざわつきを落としてくれる。
その匂いに誘われるように、いつもの公園の端にある細い階段を登った。
展望台に着く頃には、夕陽の名残りがかろうじて空に残っていて、夜の気配を含んだ風がすっと足もとを抜けていく。
手すり越しに見下ろすと、そこは帰り道のない高さ。
その奥で、家々の灯りだけがぼんやり浮かんでいる。
ここに立つと――
少しだけ呼吸が楽になれるような気がした。
何も考えなくていい時間が、ここにはある。
こんなふうに逃げてる自分が、一番嫌いなはずなのに。
そして、胸の奥でふっと浮かんでしまう。
……もし、この手を離したら――
何もかも終わらせられるんじゃないかって。
* * *
【4月27日(月)朝/橘芹香】
目を覚ますと、部屋の隅に差し込んだ朝の光が、散らかった教科書をぼんやり照らしていた。
カーテンの向こうでカラスが鳴く。その声に、今日がまた“始まる”ことを知らされる。
制服に袖を通し、髪をひとまとめにする。鏡は見ない。
あの日、あいつに向けて吐いた言葉が、まだ耳の奥にこびりついている。
あんな顔で、あんな声で言った自分を思い出すのは、できるだけ避けたかった。
部屋を出るとき、息をひとつだけ押し殺す。
廊下に出て、そのままリビングの引き戸へ手を伸ばした。開けた瞬間、油のはぜる音と煙草の匂いが一気に流れ込む。台所では母が卵を返し、リビングではクソ親父がテーブルに突っ伏して寝息を立てていた。
「おはよう、芹香。……ご飯、食べていかないの?」
「あたし、いらない」
母は返事の代わりに、フライパンをひと振りした。
油はねの音が、妙に冷たく響く。
「……お父さん、また遅くまで飲んでたの」
「知ってる」
それ以上、言葉は出なかった。
声にしてしまったら、何かが壊れそうで。
母は小さくため息をつき、ぽつりと呟いた。
「……もうすぐ、決めるから」
その呟きのかすれた響きが、胸にざらりと刺さる。
靴を履いて玄関の戸を開けると、冷たい朝の風が頬を撫でた。
外の空気は、家の匂いよりずっと軽かった。
* * *
朝の風は少し冷たく、昨日の雨の匂いがまだ残っている。坂を登りながら無意識に息を吐いた。
(……静かだったな、今朝は)
あいつは、まだリビングで眠っていた。だが、あの濁った寝息の奥には、いつもの暴力の予感が潜んでいる。
――1年前までは、まだ「普通の家」だった。
父はスーツを着て出勤し、母は笑っていた。
だが、会社をリストラされてから、全部がゆっくり壊れはじめた。
最初は「すぐ見つかるさ」と笑っていた。けれど、その笑顔は酒の匂いに変わった。競馬中継、空き缶、灰皿の山。家の色が少しずつ抜けていく。母は何度も怒鳴り返していたが、ある日を境に何も言わなくなった。
台所で無言で皿を洗う背中。その沈黙が、怒鳴り声よりずっと怖かった。
父が寝返るたび、酒と煙草の匂いが部屋の奥まで流れ、胸の奥が冷えていくのが分かる。
(……あの家にいたら、あたしまで壊れる)
朝の光のなかで、そんな言葉が浮かぶ。
新緑の並木道を歩きながら、ある考えが胸に忍び寄った。
(……あの写真、ほんとは晒すつもりなんてなかった)
河田の顔を見た瞬間――あの「何もかも分かってるような目」が、どうしても許せなかった。
(あたしばっかり、汚い場所に置かれて、あの子だけ光の中にいるみたいで)
頭の中が真っ白になった。怒りでも嫉妬でもない、もっと濁った何かがじわりと広がる。スマホをかざしたとき、自分の中の良心が音もなくひび割れた気がした。
(あんなの、晒せるわけないじゃん……)
それでも――脅したのは事実。
あの瞬間の指先の冷たさが、今も心の奥に残っている。
自分でも吐き気がするほど醜い感情が胸を貫き、
だからこそ行動には移せなかった。
立ち止まっていても、考えは何ひとつ軽くならない。
……それでも、前へ歩くしかなかったんだ。
靴の音がアスファルトを打つ。
風がひとすじ揺らす髪の先に、何かの“始まり”の気配があった。
* * *
校門へ向かう坂で、後ろから声がした。
振り返ると、村上愛梨沙が手を振りながら追いついてくる。
「昨日も、すぐ家に帰らなかったんだ?」
「あー……うん。ちょっと、展望台まで行ってた」
「また? あそこ、最近寒くない?」
「寒いけど、景色いいし。風が当たると、落ち着くんだ」
愛梨沙は首を傾げてふっと笑う。
「……芹香らしいね」
「なにそれ」
ふたりでこくりと笑ったあと、少し沈黙が落ちる。
「ねぇ、今日の帰り、アイスでも食べよ」
「いいよ」
いつものようにほんの一瞬笑えた。それだけで、朝の風がやわらかく感じられた。
校門前に着いたことに気づくと、
登校していく生徒たちの声が、ざわざわと耳を撫でていった。
その向こうから、軽い笑い声が風に運ばれてくる。
犬神、越智、神田――その真ん中に河田がいた。
(……あいつ、戻ってきたんだ)
朝の光のなかで、四人の空気がわずかに揺れた。
その輪の中心に、河田がいる。
犬神も、越智も、神田も……生徒会長まで、当然みたいに隣に立って。
(……なにそれ。どれだけ守られてんの)
胸の奥が、ひやりと掻きむしられるように痛んだ。
触れられたくないところを、急に握られたみたいに。
たった一週間休んだだけなのに――
戻ってきた途端、みんなが当然のように受け入れて、庇って、寄り添って。
(……ずるい)
あたしがどれだけ誤魔化して笑っても、
誰一人、本気で気づいてくれたことなんてなかったのに。
あたしには一生、届かない場所――
河田は、そこに立つだけで手に入れる。
その笑顔が、胸の内側をじわりと削っていく。
あの輪の近くまで行くのが怖くて、歩く速度を少しだけ落とした。
「ねぇ、どうしたの?」
背後から愛梨沙の遠慮がちな声。
振り返ったあたしを、彼女が心配そうに見ていた。
「……別に。なんでもないよ」
「顔、ちょっと暗かったから」
「……寝不足なだけだって」
そう言って小さく笑ってみせ、二人で校門をくぐる。
しばらく無言で歩いたあと、愛梨沙がぽつりと口を開く。
「……ねぇ、河田、戻ってきたんだね」
「……うん。さっき見た」
愛梨沙の声には、どこかほっとした響きがあった。
でも――あたしの胸の奥には、まだ冷たい影が残っている。
少し間を置いて、愛梨沙が小さく息を吸う。
「……あの画像、ほんとに晒しちゃうの?」
足が、一瞬だけ止まった。
風が頬を撫でる。
その冷たさに紛れるように、あたしはかすかに笑った。
「……さぁ、どうかな」
軽く言ったつもりだった。
なのに、思ったより低い声が出て、喉の奥がちくりと痛む。
* * *
昼休み、愛梨沙がそっと席を離れた。
小さくため息をついて、そのまま教室を出ていく。
(……どこ行くんだろ)
声をかけようとして、やめた。
そのまま机に突っ伏していたけれど、胸のざわつきがどうしても消えない。
しばらくして、胸のつかえを払い落とすように息を吐き、あたしも席を離れた。
廊下に出たときには、愛梨沙の姿はもうなかった。
昇降口に向かったわけでも、トイレの方でもない。
(……じゃあ、旧校舎か)
あそこは、あたしとあいつがよくたむろしていた場所。
外向きの笑顔を張らなくても息ができた、数少ない“居場所”。
その記憶だけを手がかりに、
あたしは教室と反対側の廊下へ足を向ける。
旧校舎へ続く渡り廊下に差し掛かると、
窓からの光が、薄い埃を静かに浮かせていた。
――その先に、見慣れた後ろ姿。
愛梨沙。そして、その向かいに、河田がいる。
思わず足が止まった。
旧校舎の影に身を寄せると、ふたりの声が風に混じって届く。
『……止めたかったのに。
分かってたのに……何もできなかった』
『……ううん、いいの。
でも――もう大丈夫。……わたしも、あのときは逃げてたから』
(……は?)
胸の奥がひりつく。
“止めたかった”? 誰を?
“逃げてた”? どこから?
(……あたしたち、同じ“場所”にいるはずだったのに)
呟いた心の声は、影の中で冷たく沈んだ。
『芹香さ……家のことで、いろいろあるんだよ』
『夜、家に帰りたくなくて……
公園とか、ゲーセンで時間つぶしてたんだって』
その瞬間、体の血の温度がすっと落ちた。
(……愛梨沙。あんたまで、そっち側なの?)
胸の奥がきしむ。
裏切られた、というより――置いていかれた。
(なんで……あたしだけ、ずっと“汚い場所”にいるみたいじゃん)
河田の、あのやわらかい笑い声が遠くで揺れる。
やけに静かで、耳障りで、怖いほど綺麗で。
気づけば、スマホを握り潰すように掴んでいた。
――壊してやる。
その繋がりも、信頼も、全部。壊してやる。
あたしの胸の奥で、黒い衝動だけが静かに膨らんでいった。




