第34話『光と影のあわいで』
【4月27日 (月) ・正午/河田亜沙美】
――昼休み。
チャイムが鳴った瞬間、教室の空気がゆるやかにほどけた。
お弁当の包みが開く音、弾む笑い声。
昼休みの温度がふっと緩む。
越智くんと神田くんは席を立ち、静かにいつもの屋上へ向かっていった。
「ねっ、今日も一緒に食べよ〜っ!」
犬神さんの声が弾んで、ふたりで机をくっつける。
それだけの動作なのに――
“戻ってきたんだ”って実感が胸の奥にじんわり広がった。
「……なんか、こうして並ぶの、ちょっと久しぶりだねっ」
と、犬神さんがうれしそうに目を細めた。
その何気ない一言に、呼吸がふっと楽になる。
久しぶりに並ぶお弁当。
それだけで、今日のお昼が少し特別に思えてくる。
ふと、犬神さんが微笑む。
その仕草が――あのとき見た“夢の記憶”と重なって見える。
(あの夢の声――日向公園の砂場で呼び合っていた“あさみちゃん”“チハルちゃん”)
思い浮かべただけで、喉の奥がそっとつまる。
もう、ほとんど確信してる。
犬神さんは――あの子だ。
でも、今ここで言葉にしてしまったら、
せっかく戻ってきた“今日”が揺らぎそうで。
「うん。なんか……こういうの、やっぱり落ち着くね」
小さく笑って、続きはそっと飲み込んだ。
犬神さんのランチは、今日もブロッコリー祭り。
けれど、いつもより香りがやわらかい。
ふわりと鰹節の香ばしさと、梅のすっきりした酸味が混ざっている。
「今日ね、高橋先輩に教えてもらった“ブロッコリーの梅かつおあえ”なんだっ!」
「えっ、梅とかつお……?」
「うんっ! ゆでたブロッコリーに、叩いた梅干しと鰹節を混ぜるの。
最後にちょっとだけお醤油を垂らすんだよ〜!
“春の酸味は心を整えますのよ”って、先輩が言ってたっ」
ひと口食べた犬神さんが嬉しそうに目を細める。
「……なんか、いいねっ。犬神さんらしいなぁ」
「えへへっ、そうかな〜?
ブロッコリーって、ちょっと酸っぱいのも意外と合うんだよ♪」
窓からさし込む春の風が、カーテンをそっと揺らしていた。
「……でも、無理しないでね」
箸を置いた犬神さんが、ふっと声の調子をやわらげる。
「屋上のこと、この前言ってたけど……
今はここでゆっくり食べよっか。
気持ちが落ち着いたら――今度、みんなで行こうねっ」
「うん……ありがとう」
犬神さんの言葉が胸にやわらかく落ちてくる。
(……大丈夫。
あの場所は、もう“怖い”とは思わない)
前にあった出来事の影より、
いまは“これから”のほうがずっと大きい。
犬神さんと、みんなと――
あの屋上に立つ自分の姿が、自然と浮かんでくる。
(……行ってみたいな。
みんなで見る屋上の景色って、どんな感じなんだろ)
いちど立った場所なのに、気持ちはゆっくりと“楽しみ”のほうへ傾いていく。
自分でも驚くくらい、前を向けていた。
* * *
昼休みの途中。
お弁当を片づけて、犬神さんと並んで廊下へ出た。
春の光がガラスに跳ねて、足元にやわらかな明るさが落ちてくる。
その光の中を、ふたりで並んで歩いた。
そのとき――
「……河田さん」
背中に落ちてきた声に振り向くと――
窓際に立ち止まった村上愛梨沙が、ためらうように視線を寄せてきた。
「……っ!」
その気配を感じ取ったように、
隣を歩いていた犬神さんが、ふいに足を止める。
眉がきゅっと上がり、目が細くなる。
見えないはずのしっぽが、バサッと逆立つ気配。
(……あ、これ、ワンコ警報だ)
「……む、村上さんって、橘さんのお友だちだよね……? えっと、その……なんかあったら、わたし……」
きゅぅ、と喉の奥で低い音。
「……っがるるるる〜〜……っ」
完全に“守る番犬”モードだ。
思わず、クスッと笑ってしまう。
村上さんは肩をびくっと揺らしながら、必死でバタバタと手を振った。
「ちょ、ちょっと……!
取って食べたりしないってば……!
今日は“普通に話しに来ただけ”だから……!」
犬神さんが、じと〜〜……っとした目で村上さんを睨み、ほっぺをぷくーっとふくらませる。
「……ほんと?」
「ほんと! 噛まないし、叩かないし、屋上にも誘わないから……!」
その瞬間、逆立っていたしっぽがすん……とおさまった。
「……なら、いいけどっ」
まだ半分だけ疑っている様子で、犬神さんが私の腕にそっと寄ってきた。
その気配に、村上さんが小さく息をついて――苦笑する。
「……ほんっと、犬神さんって変わってるよね。
河田さんのことになると、わかりやすいっていうか……」
犬神さんがぴくん、と耳が立つみたいに反応して、
「か、変わってないもんっ!
河田さんのこと心配してるだけだよっ!」
と、ぷくっと膨れながら小声で抗議した。
その温度差に、空気がふっとやわらぐ。
村上さんはそこでようやく息を整えるように、
一度深く吸い込み――小さく頷いて、本題を切り出した。
「……河田さん。
話したいことがあるんだ。……少しだけ、いい?」
胸の奥で、細い緊張が張りつめる。
避けてきた話題に触れられそうな予感がして――
でも、逃げたくはなかった。
「……うん。いいよ」
その言葉を口にした瞬間、
小さな決意が、静かに自分の中で形を成していく。
村上さんは小さく頷き、廊下の奥――旧校舎側へそっと歩みを向けた。
気持ちをひとつ整えて、犬神さんへ向き直る。
「犬神さん、ありがとう。ここで待ってて……」
「……うんっ。ここにいるね。
もし何かあったら、すぐ呼んでっ」
その言葉が背中をそっと押してくれるようで――
私は小さく息を整え、村上さんの後へ歩き出した。
* * *
旧校舎の裏は、お昼の賑やかさが遠くに霞んで、ここだけ別世界みたいに静かだった。
風に揺れる葉の音と、遠くの鳥の声だけが、そっとその場を満たしている。
村上さんは少し俯いたまま、足元の土を靴先でやわらかくなぞっていた。
旧校舎の影が肩にそっと落ちて、その横顔も淡い陰に溶けていく。
迷いと不安が、光と影のあわいに静かに息を潜めている――そんな空気が流れていた。
彼女は、言葉を探すようにスカートの端をそっと指先でつまんだ。
「……あのさ」
ふいに落ちた声は思っていたよりずっと小さくて、胸の奥でかすかに震えていた。
「この前……その、ごめん」
「え?」
村上さんは、旧校舎の影の中で小さく息を吐いた。
その横顔には、どこか言いづらそうな迷いがにじんでいる。
「……あのときさ。河田がひとりで屋上のほうへ歩いていくの、見えたの」
静かな声に、少しだけ揺れが混じる。
「そのすぐあとで、芹香が“屋上行こうよ”って言ってきたんだけど……その顔が……怖くて。
何か“良くないこと”考えてる時の目って、あんな感じなんだなって……」
──沈黙が落ちた。
その言葉に触れた瞬間、心がそっと掴まれた気がした。
(……分かる。あの“目”だ。屋上で向けられた、あの冷たさ。)
思い出したくもない感触が、一瞬だけ背中をぞわっと撫でていく。
「だから、“やめとく”って言ったんだ。
そしたら芹香、こっちを見もしないで行っちゃって」
風が、二人のあいだをそっと抜けていく。
「……止めたかったのに。
分かってたのに……何もできなかった」
その言葉は、影の中でかすかに震えていた。
滲む弱さに触れた瞬間、私は――そっと息を整えた。
(……そうだよね。あの状況で、怖くないわけがない)
「……ううん、いいの。
でも――もう大丈夫。……わたしも、あのときは逃げてたから」
言葉にした瞬間、胸のあたりがふっと軽くなる。
それは、村上さんに向けたものでもあったし――
私自身に向けた言葉でもあった。
村上さんは、一度視線を落としてから、
ためらうようにそっと目を上げた。
「……芹香さ、たぶん家のことで、いろいろあるんだよ」
「家のこと……?」
「詳しくは言えないけど、前に聞いたの。
夜、家に帰りたくなくて……
公園とか、ゲーセンでずっと時間つぶしてたんだって」
その言葉が、影の中で静かに響いていく。
彼女の抱えてきた痛みが、やっと輪郭を持ちはじめた気がした。
(……わたしも、同じだった。
学校が怖くて、部屋の中に閉じこもったり、
公園で時間つぶしたり……)
思い返した瞬間、心のどこかが小さく軋んだ気がした。
村上さんがかすかに肩をすくめて、つぶやく。
「……だからって、あんなことしていい理由にはならないけどね」
「ううん。ありがとう。話してくれて、うれしい」
その言葉に、彼女はふっと目線を上げた。
影の向こうから差した春の光が、その瞳に淡く宿った。
「……なんかさ、河田さん。前より……変わったよね」
「えっ……そう、かな? でも……みんながそばにいてくれたから、かな」
村上さんは、一瞬だけ照れたように口元をゆるめて、
「……ふふっ。そっか。――でもさ」
ふっと息を軽く吐きながら、私を見る。
「今の河田さん、めっちゃいい顔してるじゃん」
そのまっすぐな言葉が、胸の奥にじんと落ちていく。
旧校舎裏の風がそっと通り抜け、
遠くでチャイムの予鈴が、昼休みの終わりを告げるように静かに響いた。
そのとき――
背後の影で、乾いた靴音が静かに止まる。
コツン、と。
反射的に振り向いた私の視線の先。
旧校舎の“影”の奥から、
橘芹香が――ゆっくり滲むように姿をあらわした。
表情は笑っているように見える。
でも、その笑みには温度がなく、貼りついた面みたいに微動だにしない。
「……楽しそうだったね。ふたりとも」
落ちてきた声は静かなのに、その奥に潜む気配だけが、ひんやりと空気を刺した。
――聞かれていた。
その事実に触れた途端、
時間の流れが、ほんの少し軋んだ気がした。




