第33話『はじまりの再起動』
【4月27日 (月) 早朝 /河田亜沙美】
布団から起き上がり、鏡の前に立つ。
三つ編みをほどいて寝たせいか、髪がゆるく波打っていて――思わず小さく苦笑しながら前髪を整えた。
「……あは、やっぱボサボサ。――よし、編み直そ」
机の上のメガネをそっとかける。
澄んだ視界のまま髪をとかし、丁寧に編み直した。
その指先の動きに合わせるように、
ゴムを結ぶ小さな音が朝の静けさにそっと混ざって――
気づけば、気持ちも軽くなっていた。
机の上には、あの日の気持ちをそっと抱きとめるように、小瓶の香水と折りたたまれた手紙が並んでいる。
ふわりとラベンダーの香り。
笹倉先輩が、私のために作ってくれた香水。
指先で小瓶のふたを開け、手首にひと吹きする。
すぐに、やわらかな風のような香りが広がった。
その香りに包まれた瞬間――
高橋先輩からの手紙の言葉が、静かに気持ちへ沁みこんでいく。
(……信じてくれた人たちに、ちゃんと応えたい)
笹倉先輩の香水、高橋先輩の手紙、そして――
背中を押してくれる人たちの顔を思い浮かべる。
「わたし、頑張れるよ」
その声に重なるように、窓をそっと開けた。
春の風がカーテンを揺らし、光が部屋の隅まで広がっていく。
その温かさの中で、今日という一日がそっと息をはじめた。
* * *
そのまま身支度をひと通り終え、階下へ降りると――
台所から味噌汁の匂いがふわりと流れてきた。
母がエプロン姿で振り返る。
「お弁当、いるの?」
「うん。今日はちゃんと行くから」
「そっか。じゃあ、卵焼き作っておこうか?」
「ううん、自分でやるよ」
そう言って、シンク横のフックに掛けていたお気に入りのエプロンを手に取る。
紐を結んで身につけると、そのままコンロの前へ向かった。
フライパンに油をひき、卵を流し込むと、
じゅっと広がる香りが台所の空気にふわりと立ちのぼった。
「なんか、久しぶりね。亜沙美の卵焼き」
「うん、昨日の練習の成果。今日は本番だからね」
母が小さくうなずき、やわらかく笑う。
その表情につられて、私の口元もふっとゆるんだ。
――そんな、ささやかな朝が少しだけうれしかった。
* * *
通学路を歩く。
日向高校へ続く坂道は、昨夜の雨をわずかに残したまま、朝の光に細かくきらめいていた。
その明るさに誘われるように顔を上げると――
坂の上で朝日にきらめく犬神さんが、両手をぶんぶん振りながら一直線に駆け降りてくる。
そのすぐ後ろでは、越智くんと神田くんも、こちらへ向かって降りてきていた。
「もう元気そうだねっ! なんか安心したよ〜っ!」
「うん……ありがとう。もう平気だよ」
犬神さんが、そっと歩幅を合わせてくれる。
心がほんのりほどけて――二人にも、
“あの時のお礼”をちゃんと伝えたいと思った。
「――越智くん、神田くんも、ありがとう」
越智くんが、わずかに目を細めて言った。
「……その様子なら、大丈夫そうだな」
続いて神田くんが、眉をひとつ上げてぽつり。
「……無理すんなよ」
淡々とした越智くんの安心と、神田くんの不器用な優しさ――その二つが静かに背中を支えてくれた。
坂を上っていくと、朝のざわめきが少しずつ近づいてくる。その気配が、どこか懐かしい。
風が髪をかすめ、自然と呼吸が軽くなった。
(……もう大丈夫。今度は、自分の足で前に進みたい)
そんな思いを胸に歩みを進めると、いつもの校門が見えてきた。
――そのとき。
春の風ごしに、落ち着いた声が名前を呼んだ。
「――河田さん」
その声に導かれるように顔を上げる。
校門のそばに、朝比奈先輩が立っていた。
穏やかなまなざしで、まっすぐこちらを見ている。
その隣で、杉本先生も静かに微笑んでいた。
犬神さんと私は、同じタイミングでそっと頭を下げる。
「おはよ〜ございますっ!」
「……おはようございます」
越智くんと神田くんも、静かに会釈を返した。
杉本先生は胸に手を当てて、やわらかく微笑む。
「河田さん……本当に、元気そうでよかった。
顔を見たら、それだけで安心しましたよ」
続いて、朝比奈先輩が一歩前へ。
「――河田さん。おかえりなさい」
「最近、あなたの名前がいろんな場で挙がっていて……
みんな心配していたのよ。もちろん、私も」
私の表情を静かに確かめるように、
ほんの一呼吸だけ間を置いた。
「でも、今のあなたを見て……安心したわ。
ちゃんと、自分の歩幅で戻ってきた表情だから」
「……はい。ありがとうございます」
すぐ隣で、犬神さんがそっと私の袖をつまんだ。
そのやわらかさに、ふわりと背中を押されるような感覚が広がる。
朝比奈先輩が続けた。
「無理をしないでね。
もし何かあったら、生徒会としても……個人的にも力になるから」
隣で杉本先生もやわらかくうなずく。
「そうですよ、河田さん。
今日みたいに――ゆっくり学校に慣れていけば大丈夫ですからね」
「……はい。来てよかったって、いま思えました」
気づけば、いつもの日常がページをめくるようにそっと進み始めていた。
朝比奈先輩が、その流れをそっと後押しするように口を開く。
「じゃあ……ゆっくり行きましょうか。
今日の学校、きっと大丈夫よ」
その背中を見送る横で、犬神さんが胸をなでおろすように、ほっと息をつく。
「よかったねっ……みんな、河田さんのこと見てくれてるよっ」
越智くんが短く言う。
「……安心材料が増えたな」
神田くんも、そっぽを向いたまま。
「……良かったな」
3人の声が重なるみたいに心へ届いて、ふっと息がゆるんだ。
朝のざわめきが、いつもよりやわらかく感じられる。
その優しさに後押しされるように――
私たちは、そのまま校舎の中へ歩き出した。
* * *
昇降口で上履きに履き替える。
金属ロッカーの軋む音が、少しだけ懐かしかった。
(……戻ってきたんだ。ほんとに)
4人で並んで廊下を進む。
犬神さんはいつもの調子で、越智くんと神田くんは無言のまま――
それでも、その存在だけで静かに心が支えられていく。
教室の前で、そっと立ち止まる。
引き戸に添えた指先が、ほんの少しだけ震えた。
犬神さんが、小さく囁く。
「……河田さん、行こっ。いっしょに、ね?」
振り返ると、越智くんが短くうなずき、神田くんも小さく合図を送ってくれた。
――この一歩は、前の自分には踏み出せなかった一歩。
でも今なら、大丈夫。
深呼吸をひとつ。
ゆっくり引き戸に手をかけて、そっと開ける。
その瞬間――
窓から差し込む朝の光が、私の席をやわらかく照らしていた。
まるで「おかえり」って迎え入れてくれたみたいに。
「あ、河田さんだ」
「戻ってきたんだね。よかった」
前の列の男子が笑い、
窓際の女子が小さく手を振る。
「おはよう……ただいま、かな。ありがとう」
カバンを机の横に置き、椅子を引く音が小さく響いた。
こんな何でもない動作が、少し照れくさくて――
でも、それ以上に嬉しかった。
(……日常って、こんなにも優しいんだ)
ほんの短い間離れていただけなのに、
“ここにいていい”って空気がちゃんと迎えてくれる。
ざわめき、笑い声、チョークの音。
昨日までは遠くに感じていたのに――
今はその一つひとつが、胸の奥を静かにあたためていく。
今日からまた、歩き出せる。
そう思えた。
* * *
午前の中休みのチャイムが鳴る頃。
ノートを閉じて顔を上げると、教室のあちこちで椅子のきしむ音や笑い声が立ちはじめる。
そのタイミングで――
廊下側の席の神田くんが、ふっと顔を上げた。
「……河田、先輩たち来てるぞ」
その声に、胸がひとつ弾んだ。
自然と視線が扉へ向いてしまう。
越智くんもそちらに目を向け、静かにうなずく。
犬神さんが私のほうへ顔を寄せ、ほんのり微笑んだ。
「行っておいでっ、河田さんっ」
その賑やかさに溶けるように――扉がゆっくりと開く。
「河田ちゃ〜んっ! いたっ♪」
ぱっと顔をのぞかせた笹倉先輩が、
指先で小さくピースをつくりながら、うれしそうに笑っていた。
その後ろには、高橋先輩と九条先輩の姿も続く。
久しぶりに触れる“見慣れた優しさ”が、まっすぐ心に響いてくる。
頬がゆるんで、そのまま自然に席を立っていた。
椅子のきしむ音とともに、教室のざわめきがゆっくり遠のく。
光と香りが混ざる廊下の空気の中へ、そっと踏み出す。
「お久しぶりですっ、先輩。
その……ご心配をおかけしました」
頭を下げると、九条先輩が静かに微笑んだ。
「戻ってきてくれて、うれしいわ。
落ち着いたら、また一緒に紅茶でもどう?」
その穏やかな誘いに、自然と笑みがこぼれる。
「……はいっ。ぜひ、お願いします」
返した笑みを受けとるように、九条先輩の目元がそっとやわらいだ。
その空気に導かれるように――
「おはようございます、河田さん。
今日のあなた、とてもよいお顔をしていますわ」
高橋先輩の落ち着いた声に、思わず口が自然に開いた。
「おはようございます。先輩。
そう言ってもらえて……嬉しいですっ」
言葉を区切るように、一度だけ息を整えた。
胸の奥にそっと溜めていた思いが――
言葉になってこぼれていく。
「先日のお手紙……本当に、ありがとうございました。
あの言葉があったから、今日……ここに来ることができました」
高橋先輩のまなざしが、静かにほころぶ。
「それならよかったですわ。
あなたの笑顔を見られて、安心しましたの」
そのやわらぎにそっと重なるように――
笹倉先輩が一歩だけ近づき、ふわりと鼻先で空気を確かめた。
「……えへ、分かっちゃった。
今日、つけてきてくれたでしょ〜?」
「はい。つけてみたら……すごく心が落ち着いて。
自分の中で、ひとつ前に進めた気がしました。
……改めて、ありがとうございますっ」
その言葉に、笹倉先輩の表情がぱっと明るくなった。
「えへへ〜っ……! どういたしましてっ♪
喜んでくれて、ほんとに嬉しいよ〜〜っ!」
笹倉先輩の嬉しさはそのまま声に弾んで、
周りの空気までやわらいでいく。
「その香り、“やさしい勇気”のブレンドなんだよ♪
河田さんにつけてもらえて、ブレンドした甲斐があったな〜っ☆」
その明るさにつられて、自然と笑みがこぼれた。
「……本当にそうかもです。香りって……すごいですねっ」
「でしょ〜っ! その香り、河田さんの“いいところ”をもっと引き出してくれるんだよ〜♪」
そのやわらかな空気にほぐされて、気づけば頬がふわりとゆるんでいた。
その様子を見届けるように、九条先輩が静かに微笑む。
「香りの話をしていたら……また、みんなで“お茶会”がしたくなったわね。
梓のカフェで、あのときみたいにゆっくりと。」
すぐそばで、高橋先輩がやわらかく相づちを打つ。
「ええ、とても素敵な案ですわ。
笹倉さんのお家の飲み物は、どれも香りが上品でしてよ」
その一言に、笹倉先輩の表情が一気にほころんだ。
「うんうんっ! パパのコーヒーも紅茶も、どっちも香りいいよ〜っ♪
河田ちゃん、この前のブレンドで元気になってたでしょ? 紅茶もね、ふわっと広がって落ち着くんだよ〜」
「紅茶……いいですね。
今なら、もっと素敵に感じられそうですっ」
返すと、高橋先輩がふわりと微笑む。
「まぁ……楽しみですわ。
香りの飲み物は、気持ちを整えてくれますものね」
九条先輩も軽くうなずく。
「ええ。落ち着いた時間に味わう一杯は格別よ。
また元気になった頃に、みんなで行きましょうね」
「……はい。ぜひ」
三人の声に囲まれて、
あたたかい紅茶の湯気がそっと広がるように、心が軽くなっていく。
(やっぱり……先輩たちに会うと安心するなぁ。
嬉しくて胸があったかい)
いつかまた、みんなでお茶を囲む時間が――
ふと、楽しみになっていた。




