第32話『約束のとき ― 君を待つ光 ―』
【4月25日 (土) 早朝 /河田亜沙美】
――また、同じ夢を見た。
柔らかな春の光の中、砂場を掘る音が響く。
赤と青のスコップ。
周りには小さなお花畑が広がり、風に揺れて光をやさしく返していた。
あたたかな風が頬をなで、遠くのみかん畑の木の葉がさらさらと揺れている。
ただそれだけの夢なのに――
目が覚めた途端、気持ちがざわついた。
何か、大事なことを思い出しそこねたような気がする。
けれど、理由はまだ分からない。
カーテンの隙間から差し込む光が、やけにまぶしかった。
机の上には、スマホが一台。
画面には、五日前のままの通知が残っている。
――RINE受信ログ――
〈4月20日(月)17:42 犬神千陽〉
おはよ〜っ!
河田さん、今日学校に来てなかったから、ちょっと心配で……。
体調、大丈夫かな? くぅ〜ん…。
無理しないで、ゆっくり休んでね。
また元気な顔、見られるといいなっ。
――
あの日からずっと、このメッセージが頭の片隅に残っていた。
ふとした拍子に思い出しては、無意識にスマホへと手が伸びる。
返したかったのに――結局、何も打てなかった。
その優しさに触れてしまったら、何かが壊れてしまいそうで。
何度も読み返すたび、喉の奥がつまる。
私はスマホを伏せて、そっと息をはいた。
その時、ふと――
まぶたの裏に、さっきの夢の光景がよぎる。
砂の感触。
風に揺れる葉のさざめき。
頬を撫でた、あのやさしい風。
(……日向公園……)
言葉にした瞬間、どこか遠くで呼ばれた気がした。
ずっと行っていない場所なのに、なぜか行きたくなる。
確かめたい。
あの夢が、ただの夢じゃない気がして。
それに――もう一週間も外に出ていない。
部屋の空気ばかり吸っていると、息まで重くなる気がした。少しだけでいい、陽の光を浴びたい。
風に触れたい。
気がつくと、私は立ち上がっていた。
髪を結び直して、パーカーを羽織る。
スマホをポケットに入れて、そっと玄関のドアを開けた。
――あの公園の空気が、急に恋しくなった。
* * *
【午前/住宅街 越智隆之】
河田の家までは、一度来た道だ。
覚えているはずなのに、足取りはいつもより慎重だった。
犬神が少し前を歩いている。
ふいに足を緩めて、こちらを振り返った。
「……河田さんに、会えるといいな」
その一言に、俺と神田は視線を交わす。
犬神の瞳の奥には、どこか祈るような――静かな光が宿っていた。
やがて角を曲がると、見覚えのある白い外壁が目に入った。
河田の家だ。玄関脇の花壇には、色褪せたパンジーがいくつか並んでいる。
その前で犬神が立ち止まり、短く息を吸う。
「……行こう」
俺はうなずき、門扉をくぐって玄関へ向かった。
チャイムを押すと、電子音が午前の空気に淡く響く。
わずかに間をおいて、足音。鍵の音。――ドアが開く。
「あら……あなたたちは、この前の」
河田の母親が顔をのぞかせる。
驚きと安堵、その両方が入り混じった目だ。
「また来てくれたのね……ありがとう。
けれど、ごめんなさいね――あの子、さっき急に外へ飛び出して行っちゃって」
犬神が一歩前へ出る。
小さく息を整え、真っすぐに問いかけた。
「……どこに行ったか、心当たりはありますか?」
「どこに行ったのか、まだ分からないの。
最近まで部屋にこもりきりだったのに、いきなり“ちょっと出てくる”なんて……」
声がわずかに震えた。
開いた玄関の奥には、出ていった気配がまだ漂っていた。
犬神が小さく息をのむ。
「……もしかして――」
俺は反射的に一歩、犬神の隣へ寄った。
その瞳の奥で、ほんの一瞬、光がゆらめいた。
まるで“記憶の断片”を思い出したかのように。
(……犬神?)
呼びかけた声が、喉の奥で止まった。
犬神の焦点の合わない視線が、遠くの一点を追う。
それは、何かを“思い出そうとしている”ようにも見える。
次の瞬間、息の流れが戻った。
「……日向公園、だと思うっ」
「……公園?」
神田の眉がわずかに動く。
犬神は、迷いのない声で続けた。
「河田さんが……そこにいる気がするの。
夢で見た時と同じ場所――春の風の中で、誰かを待っているみたいだったんだ」
俺はその横顔を見つめながら、屋上で聞いた犬神の言葉を思い出していた。
幼い河田の夢。――あれは、ただの夢じゃなかったというのか。
「……日向公園、だな」
言葉を口にした瞬間、犬神が静かにうなずいた。
「うん。きっとそこだよっ」
迷いのない声だった。
短い沈黙のあと、神田が低くつぶやく。
「そこまで断定できるのなら、行ってみる価値はあるかもな」
その一言が、静かな余韻を残した。
犬神がうなずき、俺も同じ方向へ視線を向ける。
その視線の先――三人の進むべき道が、ひとつに重なっていた。
* * *
天照寺の前を抜け、ゆるやかな坂を登る。
空が少しずつ開けていく。
やがて、木々の隙間からブランコの鉄枠が見えた。
日向公園。
昼前の光の中、風が吹くたびに紫の花が揺れている。
かすかな香りが漂い、春の空気にやわらかく溶けていった。
犬神が一瞬だけ立ち止まり、すぐに足を速めた。
俺と神田もあとを追う。
やがて、遊具のある広場の奥――
砂場を見渡すベンチに、ひとりの後ろ姿があった。
春の光が髪を照らし、風が肩をかすめていく。
そのわずかな仕草だけで、誰なのか分かった。
河田だ。
胸の奥が静かに波打つ。
安堵に似た感情が浮かんだが、すぐに抑えた。
犬神が足を止める。
ほんの短い沈黙ののち、ゆっくりと歩き出す。
互いの距離が、目に見える形で縮まっていく。
「河田さん……」
犬神の声に、河田の肩がわずかに動いた。
ゆっくりと振り向く。
「……犬神さん。
それに、みんなも……」
その瞳の奥に、迷いの影がちらりと揺れる。
犬神が一歩、近づく。
「体調、もう大丈夫?」
「……うん。ちょっと寝すぎただけ」
その笑みが、僅かにぎこちなく見えた。
犬神がそっと声を落とす。
「よかった……ずっと顔、見られなかったから、少し心配してたんだ」
「……心配かけて、ごめんね」
その言葉に、神田が淡々と口を開いた。
「無理をしたくないなら、それでいい」
らしくないほど穏やかな声だった。
春の風がベンチの脇を通り抜け、木の影をゆらしていく。
犬神がその風を感じ取るように目を細めた。
「……風、気持ちいいね」
「……うん」
小さな返事が返る。
その声に少しだけ、“いつもの河田”が戻っていたような気がした。
俺は一歩前に出る。
ほんの少しだけ息を整えてから、口を開いた。
「……俺たちは、別に責めに来たわけじゃない。
顔が見たかっただけだ」
声は自然と落ち着いていた。
「……そうだな。お前がいないと、妙に落ち着かない」
神田の声が続く。
河田の視線が、わずかに揺れた。
膝の上で手を組み直し、呼吸をひとつ整えるのが見える。
そして――
神田が、抑えた声で続けた。
「……状況は、大体把握してる」
場の空気がわずかに張り、河田が小さく息を呑む。
その反応で、こちらの推測が間違っていないと分かった。
言うかどうか、一瞬迷った。
だが――ここで黙る理由は、もうない。
「――放課後の、あの写真のことだな」
「だが、誤解されるようなことは、何ひとつなかった」
言葉を選んだつもりだった。けれど、声にはわずかに熱がにじんだ。
「……ごめん。わたしのせいで……」
「……そうじゃない」
反射的に出た。理屈より先に、否定が走る。
「……あれは、ただの下校帰りだ。
話をして、家まで一緒に歩いただけだ」
息をひとつ整え、視線を正面に戻す。
「悪いのは、あんな形で人を傷つけようとした奴らだ」
その瞬間、風が止まり、木々のざわめきさえ消えた。
神田が口を開く。
「……中三の時、同じクラスだったよな。お前が何をされていたか、薄々わかっていた」
一拍置いて、短く息を吐いた。
「だが、あのときは――何もできなかった」
声のトーンがわずかに上がる。
神田の視線はまっすぐ、河田を捉えていた。
「もう見てるだけじゃいられない。お前が苦しんでる姿は、もう見たくない」
その声音に、迷いはなかった。
河田はゆっくりと顔を上げ、光に目を細める。
木漏れ日が頬をかすめ、涙の気配がきらりと光った。
「……わたし、誰かを巻き込むのが、ずっと怖くて」
言葉を探すように息をつぐ。
「……越智くんまで、傷つけたくなかった」
声は細く、今にも消え入りそうだった。
膝の上で組んだ手が、まだ解けない。
「俺なら大丈夫だ。気にしていない」
河田の指先がわずかに震える。
「……学校へ戻るのが、怖いの…。何されるか分からないし……」
――その声を聞いた瞬間、犬神の表情が引き締まった。
「河田さんっ、覚えてる? あのとき、トイレで助けに行ったときのこと」
「……あれは……」
「困ってる人を見たら、わたし、じっとしてられないんだっ」
犬神は少し照れたように笑い、胸に手を当てる。
「もしまた何かあったら、今度も駆けつけるからねっ。どこにいたって、絶対っ!」
揺るぎない決意を帯びた声が――。
眼差しに宿る決意に、河田は思わず顔を上げる。
犬神の言葉を受けて、神田が低くつぶやく。
「……お前は、もうひとりじゃない」
その一言が、静かに場の空気を変えていく。
何かが確かに変わった。
俺もそれに続くように口を開く。
「……何かあっても、大丈夫だ。俺たちがいる」
風が通り抜け、ラベンダーの香りが淡く漂った。
その香りを胸いっぱいに吸い込みながら、河田の肩がわずかに緩んだ。
まだ迷いは消えていない。
けれどその表情には、やわらかな希望が差していた。
その変化を見届けたように、犬神がそっとうなずく。
そして、俺と一瞬視線が合う。
言葉はいらなかった。互いの意図はもう伝わっていた。
犬神が白い封筒を差し出す。
俺はポケットに手を入れ、小さな箱を取り出した。
笹倉に託された香水だ。
その箱を手の中で確かめながら、俺も静かに前へ差し出す。
「……これっ。高橋先輩から、預かってきたのっ」
「……笹倉からだ」
二つの小さな贈りものが、春の光の中で並んだ。
河田は驚いたように目を瞬かせ、ゆっくりと手を伸ばした。
「……高橋先輩と、笹倉先輩から……」
言葉の途中で、声が震える。
手紙と香水――そのふたつを包み込むように、両手で受け取った。
手の中の贈りものを確かめるように、視線がそっと揺れる。
春風が頬を撫で、白い紙の端をそっと揺らす。
胸もとにそれらを抱えたまま、しばらく黙っていた。
やがて小さく息を吸い、ぽつりとつぶやく。
「……ありがとう」
その声はまだ弱々しかったが、確かに前を向いていた。
犬神が隣で微笑む。
「帰ろっか。みんなで、ねっ」
河田はわずかに迷ったあと、ゆっくりとうなずいた。
俺たちは四人で並んで歩き出す。
ベンチの影を離れ、砂場を抜け、日向公園の出口へ。
出口へ向かう途中、公園の端にラベンダー畑が広がっていた。
紫の花が春風に揺れ、淡い香りがあたり一面を満たしていく。
その香りに気づいたように――犬神が足を止め、そっと振り返った。
「ねぇ、ラベンダーの花言葉って、知ってる?」
言葉のあと、やわらかな静けさが落ちた。
花の香りがふわりと流れ、時間が少しだけ止まったようだった。
河田が小さく首を振る。
その表情を見て、犬神が静かに微笑んだ。
「“あなたを待っています”――なんだって」
風が花々を揺らし――
ラベンダーの香りが記憶の奥をそっと撫でるように広がっていった。
「私たちもね、学校で待ってるよ。河田さんのこと――いつでも待ってるからっ」
河田の唇が、かすかに震えた。
目尻を伝う一筋の涙が、陽に照らされて輝く。
その光の中で、彼女は静かにうなずいた
「……うん」
それからは、誰も言葉を重ねなかった。
けれどあの沈黙の中で――確かに何かが通じ合っていた気がした。
* * *
【同日夜/河田亜沙美】
夜の部屋は、息をひそめたように静かだった。
それでも、カーテンを揺らす風が昼のぬくもりを運んでくる。
そのやわらかさに触れるたび、胸の奥がそっと波打つ。
あの公園で交わした言葉たちが、ゆっくりと浮かんでは、また静かに消えていった。
“ありがとう”って言えたけど、本当の気持ちはまだ揺れてた。
怖さも、不安も、完全には消えてない。
――でも、少しだけ前を向けた気がする。
机の上に置かれた、白い封筒と小さな香水瓶。
蛍光灯の光をやわらかく反射して、並んで静かに佇んでいる。
私はそっと、アロマの器具に香水を数滴垂らした。
ゆっくりと香りが広がり、部屋の空気がやわらかく変わっていく。
肩の力がほどけていくような、やさしい匂いだった。
そして――白い封筒を手に取る。
ベッドの端に腰を下ろし、深く息を吸った。
天井の灯りがやわらかく部屋を照らし、その隙間から差し込む月明かりが封筒の縁を淡く染めていた。
高橋先輩の流れるような筆跡が、光の中で静かに浮かび上がる。
封を切ると、紙の柔らかな手触りが指先をくすぐった。
◇ ◇ ◇
河田さんへ
辛いことは、誰にでもありますの。
心が追いつかない日も、朝の光がやけに遠く感じる日も。
そんな時は、どうか無理をなさらないでくださいませ。
歩みを止めることも、立ち止まることも、人に与えられた大切な時間ですのよ。
けれど――忘れないでほしいのです。
世界は決して、あなたひとりで背負うものではありません。
誰かがあなたを思い、あなたを待っています。
その想いが、あなたの心の灯を消さずにいてくれるはずですわ。
あなたがこれまで、誰かのために注いできた優しさ。
そのひとつひとつが、今度はあなた自身を支える力になります。
苦しみの中にいても、どうかそれを信じて。
焦らず、少しずつで構いません。
戻りたいと思ったときには、教室の扉を開けてくださいませ。
そこにはいつも通りの景色があり、
あなたの席も、友達の笑顔も、きちんと残っています。
私も、そのひとりとして――
いつでも、あなたの帰りを待っていますわ。
――高橋玲奈
◇ ◇ ◇
読み終えたとき、胸の奥で何かがほどけた。
頬を伝うものが止まらない。
(……高橋先輩……)
言葉の一つひとつが、まるで優しく抱きしめられたような温もりを帯びていた。
私が信じきれなかった“優しさ”の形が――確かに、そこにあった。
そっと息を吸い込む。
ラベンダーのやさしさに、ベルガモットの透明な風。
そして、ほんのりとしたオレンジの甘さが――
静かに部屋いっぱいに広がっていく。
その香りの奥に、笹倉先輩の笑顔がやさしく浮かんだ。
「……落ち着く香り、でしょ?」
あの穏やかな声が、記憶の中でそっと響いた。
その余韻が、心の奥にあたたかい波を広げていく。
気づけば、部屋の中に小さな安らぎが満ちていた。
私はそのままベッドに身をあずける。
シーツの温もりが、やさしく全身を包んだ。
そっと目を閉じる。
まぶたの裏に、やわらかな月の光とラベンダーの香りが浮かぶ。
頬を撫でたあの風が、もう一度、胸の奥を通り抜けた。
呼吸がゆっくりと深くなる。
意識がやわらかく沈んでいく中で――
わたしは、夢を見ていた。
………。
……。
…。
静かな春の夕暮れ。
空は茜に染まり、公園の木々が長い影を落としていた。
風はやさしく、少しだけ切ない匂いを運んでいる。
公園の外れでは、淡い紫のラベンダーが風に揺れていた。
その向こうの丘には、小さなみかん畑が広がっている。
甘い花の香りと、みかんの葉の爽やかな匂いが混ざり合い、夕日の光の中で、空気がゆるやかに流れていた。
その公園の片隅――
砂場の上に、ふたりの幼い少女が腰を下ろしている。
まだランドセルも似合わない、小さなふたり。
ひとりは、明るくて人懐っこい笑顔を浮かべた女の子。
赤いスコップを手に、砂をざくざくと掘っては小山を築いていく。
もうひとりは、少しおっとりしていて、けれど瞳の奥がまっすぐだった。
彼女の手には、青いスコップ。慎重に砂をすくい、形を整えていく。
ふたりのスコップの音が、春の風と混ざって軽やかに響く。
砂をかけ合っては笑い合いながら、小さな砂の城を一緒に作っていた。
――これは、忘れていた記憶。
でも確かに、胸の奥でずっとあたたかく残っていた、最初の“約束”。
あの日、ふたりは偶然、公園で出会った。
たった一度の午後。
同じスコップを手に、夢中で砂の城を作って――気づけば、もう名前で呼び合っていた。
それは短くもやさしい時間。
けれど、そのぬくもりだけは、今も消えずに残っている。
――あの日の光景が、静かに蘇る。
赤と青、ふたつの小さなスコップが交差しながら、青いスコップを手にした女の子が、笑顔で隣を見た。
無邪気な声が、砂の城の上で弾む。
「チハルちゃんってさ〜、ぜったい大きくなったら人気者になるタイプだよねっ☆」
隣で赤いスコップを握っていた千陽が、目を丸くして笑う。
夕暮れの光が、頬の砂粒をそっと撫でた。
「えへへ……あさみちゃんの方が、ずっとすごいよ〜!」
砂の上に二人の影が重なる。
風が髪をくすぐり、笑い声がふわりと舞い上がった。
青いスコップを手にした亜沙美が、ふと手を止めて空を見上げる。
その瞳がきらりと光った。
「わたしね、いつか大きくなったら、だれかを助けられる人になりたいのっ!」
その言葉に、千陽はスコップを止めて顔を上げる。
真剣な瞳に、まだ幼い夢の光が映っていた。
「そっか……えへへっ、じゃあ、わたしもっ!
あさみが困ってたら、ぜったい助けに行くからっ!」
「あははっ、じゃあさっ、大きくなっても、ずーっと仲良しでいようねっ♪」
「うんっ、約束だよっ!」
ふたりの小さな小指が、そっと絡み合う。
その瞬間――約束のきらめきが、夕暮れの空気にやわらかく溶けていった。
その光は今もなお――記憶の底でそっと灯り続けている。




