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第31話『観測の果て、静かなる決意 ― 後編 ―』

【4月23日(木)夕方/笹倉カフェ】


夕暮れの光がガラス窓を透けて、店内をやわらかく染めていた。

紅茶の湯気に混じるオレンジピールの甘さが、クラシックの旋律へと静かに溶けていく。


カウンター席には、二年生組の三人――高橋玲奈、九条詩織、笹倉梓。

それぞれの前には、温かなカップと焼き菓子。

漂う香りがゆるやかに混ざり合い、言葉よりも先にぬくもりが交わっていた。


玲奈がカップを持ち上げ、湯気の向こうで柔らかく笑う。

「いつ訪れましても、笹倉さんのカフェは心が安らぎますわ」


「えへへ、ありがとう。今日の紅茶は、新しいブレンドなんだって」


玲奈はカップを口に運び、小さく息をついた。

「……香りが上品ですわね。落ち着く味ですこと」


その穏やかな声が店内に溶けたころ、詩織がスプーンを静かにひと回しして口を開く。

「……犬神さんと越智くん、神田くんの三人で、今週の土曜に河田さんの家へ行くみたいね」


「ほんとに? 三人で?」

梓の声が小さく揺れた。


「神田くんと河田さんのことを少し話す機会があって……そのときに聞いたの。

先生に頼まれて、プリントを届けに行くそうよ」


詩織は視線を落とし、静かに続ける。

「犬神さんって、不思議な人よね。

無理に背中を押すわけでも、言葉を並べるわけでもないのに――そっと隣に立って、気づけば人が笑顔になれる方へ導いているの。

まるで、静かな追い風のように」


玲奈がカップを口に運び、視線の奥に静かな祈りを滲ませた。

「ええ、確かに……。犬神さんは、そういう方ですもの。 きっと、彼女を迎えに行くのですわ。

――もう一度、教室に戻ってこられるように」


梓は短く息を吸い込み、まっすぐ顔を上げる。

「……じゃあ、間に合わせなきゃ。あの子のための香り、今夜中に仕上げる。絶対に。」


「香りで心を癒す。あなたらしいわね、梓。」


詩織の微笑みは、午後の日差しのように穏やかだった。

玲奈は視線を落とし、揺れる琥珀色をそっと見つめる。


「私も、私なりの形で想いを届けますわ。……言葉で」


梓はカップをそっと置き、玲奈を見た。

「手紙、書くの?」


「ええ。書かずにはいられませんの。あの子の“頑張りすぎる癖”は、私にもよく分かりますから」


「――いい夜になりそうね。誰かを想って何かを作る時間は、いつだって心を温めてくれるものよ」


詩織の微笑みには、静かな優しさが息づいていた。


窓の外では夕陽が沈みきり、オレンジから群青へと変わる空。

三人の前のカップから立ちのぼる湯気が、まるで言葉にならない想いのように溶けていった。


* * *


【4月23日(木)夜/笹倉ささくらあずさの部屋】


机の上に、透明な小瓶とスポイト。

数日前に合わせておいたブレンドを、きょうやっと仕上げる。


ラベンダーを主に。ベルガモットを呼吸の入口に。

最後に、オレンジを一滴だけ——“がんばりすぎた肩の力が抜ける量”。


ムエットに落として、そっと鼻先で吸う。

揮発したアルコールの奥から、花と果実の輪郭がひとつに溶けていく。

うん。やわらかい。ちゃんと、帰れる香りだ。


キャップを閉めて、窓辺の光にかざす。


「……届きますように、河田ちゃん」


小瓶は胸の前で、ほんのりと希望の香りを咲かせていた。


* * *


【同夜/高橋家・玲奈れなの部屋】


便箋が三枚、下書きのまま沈んでおりますわ。

言葉を整えようとするほど、言葉が遠のいてしまう……。


ペン先を見つめ、そっと息を整える。


――もう探すのはやめましょう。

いま心に浮かんだままを、ただ綴ればいいのですわ。


ペン先を新しい一枚に置き、深く息を吸う。

飾らず、いちばん伝えたいことだけ。


――“あなたの居場所は、まだ教室に。

そして、私たちの中にもありますわ。”


書き終えた瞬間、胸の奥で張りつめていた糸が静かにゆるんだ。


封をして、明日の準備を整える。


「犬神さんに、お渡ししますわね。……どうか、届きますように」


ランプの明かりを落とす。

机の上の白い封筒が、暗闇の中で静けさとともに――

願いの光のように、そっと息づいていた。


* * *


【4月24日(金)放課後/テニスコート 犬神いぬがみ千陽ちはる


練習が終わるころ、夕陽がネットをオレンジに染めてた。

汗が少し冷えて、風が心地いい。コートの砂の匂いに光がまざって、胸の奥がじんわりあったかくなる。


……明日、ちゃんと河田さんに会えるといいな。

そう思ったら、少しだけドキドキしてきた。


ラケットを片づけながら、ふぅっと息を吐く。

夕陽に目を細めると、背後から静かな声がした。


「犬神さん、少しお話がありますの」


振り向くと――高橋玲奈先輩。

夕陽の光に照らされて、黄金色の髪がふわりと揺れる。

その笑顔の奥に、静かな決意の色が見えた気がした。


「――これを、河田さんに渡してほしいのですわ」


差し出された白い封筒が夕陽を受けて、ほんのりあたたかい。


「えっ……わたしに、ですか?」


「ええ。九条さんから伺いましたの。あなたが、彼女に会いに行く準備をしていると」


「……はいっ。明日、プリントを届けに行こうと思ってて」


高橋先輩は、その言葉に小さく頷いた。

夕陽の光が横顔を照らし、ほんの一瞬だけ柔らかな微笑みが浮かぶ。


「“犬神さんなら、きっと河田さんの背中をそっと押してくださる”と、九条さんが仰っていましたわ」


ふっと微笑んだその瞳は、祈るような静けさを湛えていた。


「……九条先輩がそう言ってくれたなら。わたし、できるかぎり寄り添ってみますっ」


コートの上を風がかすめ、二人のあいだで砂が小さく舞う。その音まで、どこか穏やかに感じた。


「私も同じ気持ちですの。あの子はきっと、自分を責めてしまうでしょう。

だから――あなたのような人が、そばにいてくださることを願っていますの」


玲奈先輩は、両手で封筒をそっと差し出した。

白い紙越しに、体温のようなぬくもりが伝わってくる。

私は封筒を両手で受け取り、胸の前でそっと抱きしめた。


「……はいっ。必ず、渡しますっ!」


フェンスの向こうを風が抜け、光の粒がキラキラと流れていく。


「……犬神さん。

あなたの想いなら、きっと届きますわ。

その手で、“あの子の居場所は、まだここにある”と伝えてくださいませ」


――その言葉が、胸の奥で静かに響いた。

風が頬を撫でていく。

いつもの放課後が、少しだけ違って見えた。


* * *


【同刻 放課後/科学部部室 越智おち隆之たかゆき


机の上でメモを整理していると、笹倉が小さな箱を抱えて近づいてきた。

淡い色のリボンがかかった、落ち着いたデザインの箱。

彼女はそれをそっと開け、中から小さな透明の瓶を取り出す。中の液体が、夕陽の光で淡く揺れていた。


「ねぇ、越智くん。これ……河田ちゃんに渡してほしいの」


「……香水か?」


「うん。あの子、頑張りすぎるときに、よく肩のあたりに力が入ってたでしょ?

リラックスできるブレンドにしたの。

ラベンダーとベルガモット、それに少しだけオレンジ」


瓶の口をそっと開けると、柔らかな香りが広がった。

冷静に整理していた頭の中に、わずかな温もりが差し込む。


笹倉は目を細め、ひと呼吸だけその香りを確かめてから、静かに蓋を閉めた。

そして、両手で瓶を包むようにして差し出す。


俺はその手元を見つめ、一拍遅れて受け取る。

指先には、かすかな温もりが残っていた。


「……よく気づいてたんだな」


「“香りで気持ちは変わる”って信じてるから。

だから、もし会えたら……これを渡してあげて」


近くのソファーに座っていた九条が、ティーカップを静かに置いた。

湯気の向こうで、穏やかに微笑む。


「焦らなくていいのよ。

香りも人の心も、時間をかけて馴染んでいくものだから」


笹倉が小さく頷く。

俺は一度瓶を見つめ、ポケットの中へしまう。


「……預かる。あとは任せてくれ」


言葉を探すより先に、自然と口をついていた。

二人の反応は穏やかで、無言の了解が交わされた。


「……焦らずにね」


九条の声は落ち着いていた。


窓の端で、暮れ色が理科棟のガラスを薄く染めていた。

反射した光が、瓶の中で静かに揺れる。


――誰かの想いが、確かにここにある。

それをどう扱うかは、次の観測に委ねるだけだ。


* * *


【同刻 夕方/職員室】


窓の外では、校庭の影がゆっくりと伸びていた。

職員室に響くのは、書類をめくる音とペンの走る微かな音だけ。


杉本晴香先生は手を止め、ふと窓の外に目をやる。

校門の方では、生徒たちがそれぞれの帰路に就こうとしていた。


その中に――河田亜沙美の姿は、今日もいない。

その事実を、彼女はもう何度も数えてきた。


小さく息を吐いたとき、隣の机から紅茶の香りがやわらかく漂った。


「……また、河田さんのことを?」

声の主は、保健室の早川澪先生だった。


「ええ……無理をしていないか、そればかり気になってしまって」


杉本先生の言葉に、早川先生は手にしたカップを胸の前でそっと支えた。

その表情に、わずかな哀しみと優しさが交わる。


「河田さんは、人の心の痛みにすぐ気づいてしまうんです。

だからきっと、誰にも気づかれないところで、静かに――自分を責めてしまうんでしょうね」


杉本先生は小さくうなずいた。

その声には、わずかな憂いがにじむ。


「……ええ。私たちがどれだけ声をかけても、きっと自分で答えを出そうとしてしまう。

だからこそ、見守ることしかできないのが……もどかしいですね」


早川先生は紅茶のカップをそっと置き、やわらかく微笑んだ。


「信じてあげましょう。きっと、また顔を見せてくれますよ」


傾いた夕陽が窓辺を染め、机の上の紅茶に光を落とした。

その温もりだけが、静かな祈りのように職員室に残った。


* * *


【同刻 夕方/昇降口前 越智おち隆之たかゆき


科学部の活動を終え、昇降口へ向かう。

扉を開けた瞬間、冷たい空気と一緒に――橘の姿が目に飛び込んできた。


一拍の静寂。

橘は小さく目を細め、唇の端だけで笑う。


「……あら、越智くん。タイミング、いいのね」


軽やかに聞こえる声。だが、その視線の動きには“仕組まれた偶然”の気配があった。


「河田さん、このまま学校に戻ってこないんじゃない?」


語尾に、わずかな圧が残る。


「……何が言いたい」


「ただの現実よ。人の顔色ばかり見てる子は結局、自分で沈んでいくものなの」


言葉が落ちた瞬間、周囲の音が遠のいた。


「沈むのは仕組みじゃない。支える力が足りないだけだ」


声のトーンは、いつも通りのはずだった。

橘はその言葉を受け、ゆっくりと口角を上げる。


「あなたが支えられるって言うなら、やってみなさいよ。――全部、壊れるかもしれないけど」


ヒールの音が、硬質な床を打つ。

その響きが、昇降口の冷えた空気に静かに溶けていった。


――まだ、記録ログは終わっていない。


外へ出ると、夕方の風が頬をかすめた。

その冷たさが、熱を帯びた思考を静かに整えていく。


* * *


夜。

音の消えた部屋に、PCの光だけが淡く瞬いている。

机の端の小瓶が、その光を受けて静かに揺れた。


視線をモニターへ戻す。

無数のセルが並ぶ画面の中で、指先がぴたりと止まる。


日付:4/25

項目:行動フェーズ移行

対象:河田亜沙美

結果:未入力


エンターキーを押す。

青い枠線が次のセルへ移動し、カーソルが点滅する。


俺は、心拍も、視線の揺れも、言葉の温度も――

すべてを記録することで、感情の形を保ってきた。

だが、記録だけでは“変化”は生まれない。


(観測は終わりだ。

 次は――記録ではなく、確かめに行く)


Excelの枠を越えて、世界が少しだけ広がった気がした。


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