第30話『観測の果て、静かなる決意 ― 前編 ―』
【4月18日(土)10:05/商店街通り 越智隆之】
カフェを出ると、照度が一段上がった。
陽の反射で舗道のタイルが、やけに白く見える。
沙月が腕時計を確認し、鞄の紐を持ち直した。
「そろそろ戻るわ。午後はレポートの整理もあるし」
こころが軽く首をかしげる。
「……あ、そういえば沙月、今朝いったん家に戻ってたんだっけ?」
「ええ。着替えと、いつものバッグを取りにね」
朝の陽射しを受けて、彼女のTシャツの“シバりん”が淡く滲んでいた。
「……着替えたって言っても、その“シバりん”は続投なんだ」
こころが口元をゆるめる。
「これは気に入ってるの。洗濯する暇がなかっただけ」
沙月は淡々と答え、少し間をおいて続けた。
「Tシャツ、あとで洗って返すわね」
こころは小さく首を振った。
「気にしないで。似合ってたし」
「……ありがとう。でも、貸しっぱなしは落ち着かないの」
声のトーンは変わらない。
けれど、その一言だけが、少しだけ柔らかかった。
「うん……分かった」
こころが一瞬だけ目を細める。
沙月は短く頷いて歩き出す。
人の流れに混ざり、すぐに輪郭が薄れた。
その背中を追う風が、ほんの少しだけ街の音をさらっていく。
誰もそれを追わず、時間だけが自然に進んでいった。
沙月の姿が見えなくなったあと、隣で立ち止まっていたこころが小さく息を吸う。
「……少し歩こうか。人の少ないところで」
「……そうだな」
頷く。
彼女の視線の先―― 日向公園の緑が、視界の端で連続的に揺れていた。
乱れのない波形。心拍も安定。――記録、再開。
* * *
並木の坂を抜けた瞬間、視界が一気に開けた。
日向町を見下ろす展望台。
風の質が変わり、街の音が遠のく。
足元の下には小さな公園が見える。
噴水と鳥の声が重なり、ひとつの旋律のように響いていた。
陽を受けた水面がきらめき、その縁を早咲きのレースラベンダーが淡く染めている。
春に咲くのは、この町でも珍しい。
薄紫の花びらが風に揺れ、懐かしい香りが流れてきた。
その向こうの丘には、みかん畑が緩やかに続いていた。
青い新芽のあいだから、ほのかに花の香りが流れてくる。
ラベンダーの紫と、若葉の緑――この町らしい色の取り合わせだ。
こころは一度だけ周囲を見渡し、「……ここなら、いいかな」とつぶやいてベンチに腰を下ろした。
俺も隣に座る。
「ねぇ、たかゆき。さっき“あとで話すね”って言ったこと……今、話してもいい?」
軽く息を整え、視線だけで続きを促す。
「――あの日、放課後のこと」
こころは手を組み、膝の上で指を重ねた。
「河田さんと隆之が一緒に帰っていたのを見かけたの。
その少し離れたところに、橘さんと……村上さんの姿もあった」
(……やはり、あの二人も一緒だったか)
「ただ、そのときは何をしているのかまでは――わからなかった。
二人とも、なんだか落ち着かない様子で……。
でも、あの後に河田さんが学校に来なくなったって聞いて、繋がってしまったの」
言葉の合間に短い息が混じる。
それは説明というより、自分の中の整理に近かった。
小さく息をついて、続けた。
「もしかしたら、あの時――隆之と河田さんが並んで歩いてた姿、あの二人に撮られてたのかもしれない」
視線が、足元の影に落ちる。
「橘さんと村上さんのこれまでの態度を見れば、なんとなく想像できる。
自分より幸せそうな人を見つけると、壊したくなるんだと思う」
言葉を選ぶように、少し沈黙が落ちた。
「確証はない。でも、もしそうなら……その写真が、脅しの材料に使われていた可能性もあると思う」
――あれは、俺にとってはただの下校の帰り道だった。
けれど、河田にとっては違ったのかもしれない。
……あの光景が、結果的に脅迫のネタになってしまったのだろう。
「もしあのとき、もう少し冷静でいられたら、あの二人が写真を撮ってたのを止めることだってできたのに……。
でも、あの瞬間は――どうしても、目を逸らせなかったの」
春の風がベンチの間を抜けていく。
遠くの街並みに、白い雲の影が静かに流れていた。
「――だから、知っておいてほしかった」
ようやく顔を上げた彼女の瞳は、言い訳でも謝罪でもなく、“報告”に近い透明さを持っていた。
「……なるほど。あの一件が、そんな形で繋がってたのか。 ……これで、だいたいの構図は見えたな。」
風が抜け、こころの髪がわずかに揺れた。
その一瞬の静けさに、思考がまた深く潜る。
(橘芹香――行動の意図、要再分析だ)
* * *
【4月20日(月)9:00/1年A組】
春の光が斜めに差し込み、黒板の反射がわずかに揺れている。
チョークの音が一定の間隔で響く。
乾いたリズムに合わせて、ペン先がノートの上を滑っていく。
前の席――河田の机。
今朝配られたプリントが、一枚だけ手つかずのまま残っている。
欠席という事実は明白。だが、まだ“確定値”として処理しきれない自分がいる。
(やはり今日も来ていないか)
理由は推測可能。
けれど、判断を下すには情報が足りない。
結論の保留―― 今は、それが最も妥当な処理だ。
ノートに視線を戻す。
シャープペンの芯が、いつも通りの筆圧で文字を刻んでいく。
(データは揃いつつある。だが、仮説を口にするには早い)
ペン先が一瞬止まる。
頭の片隅に――初めて河田たちと笹倉カフェに行ったときの記憶が浮かんだ。
あのとき、彼女はブレンドのカフェインにあてられて、少しテンションが上がっていた。
それでも、その笑顔だけは妙に印象に残っている。
(…… 記憶の中だけで、終わらせたくはない)
軽く息を整え、ノートに視線を戻す。
チャイムが鳴る。
周囲の動きが一斉に切り替わる中、自分だけが――わずか数秒だけ、処理が遅れていた。
* * *
【12:30/屋上】
昼の風が、屋上の金属柵を鳴らしていた。
神田は柵にもたれ、低く切り出す。
「村上愛梨沙。――あの時、橘に呼ばれてたらしい」
「……屋上の件か」
「ああ。けど途中で抜けた。“やりすぎだ”って」
短い沈黙。
風が二人の間を抜け、シャツの裾がかすかに揺れる。
神田は視線を前に向けたまま、淡々と口を開いた。
「橘が河田の“写真”を持っていた。
放課後の帰り道、お前の隣にいたときのものだ。」
言葉の残響が、冷えた空気の中に吸い込まれていく。
「村上は止めようとしたけど、聞かなかった。
“やるなら自分ひとりでやる”って言って、屋上へ行ったらしい。」
言葉のひとつひとつが、計測された数値みたいに正確だった。
彼の頭の中では、既に整理が終わっているのだろう。
(こころの証言と一致。
……つまり、これで確定だ)
「村上は“怖かった”と言っていた。
あの時の橘、まるで人が変わったみたいだったってな。 止めようとしても、言葉は届かないと判断したらしい。」
神田の声は低く冷えていた。
そこに感情の揺らぎはなく、ただ事実だけを告げていた。
その静けさの奥に、わずかな違和感が残る。
――彼はどこまで知っているのか。
「……橘と村上。お前、中学の頃から面識があったのか?」
神田は短くうなずいた。
「河田も含めて、三人とも、な。
中三のとき、同じクラスだった」
「……なるほど。繋がりが見えてきたな」
風が途切れた瞬間、空気の密度がわずかに変わった。
言葉の余韻だけが、その場に残る。
小さく息を吐く。フェンスの向こうを見た。
あの日、この空の下で何が起きたのか―― ただ、事実の断片を並べるように思考する。
俺は沈黙を切るように口を開いた。
「……これで全てか」
「表面上はな。
でも、“心の修復”までは含まれない」
神田が視線を外し、階段の方へと歩き出す。
彼の背中がドアの向こうに消え、残った風がフェンスを静かに鳴らした。
(――情報は揃った。
あとは、どう動くか)
空の青が妙に澄みすぎていて、目に沁みた。
* * *
水曜の朝になっても、河田の席は空白のままだった。
教室の配置は変わらないのに、バランスだけが微妙にずれている。
――欠席日数、三日。記録上はただの数字。
だが、その空白は思った以上に教室の空気を変えていた。
犬神は河田の机に残されたプリントをそっと集め、神田は机に肘をつき、窓の外を無言で見つめている。
俺はその動きを視界の端で捉えながら、ただ“観測”を続けていた。
誰も言葉にはしない。
けれど、同じ思考の線上にいることだけは分かっている。
(……そろそろ、動く時だ)
そう思った瞬間――胸の奥で、わずかに何かが音を立てた。
* * *
翌日、木曜の昼。
屋上には、拡散した光が満ちていた。
空気の輪郭がわずかに揺らぎ、フェンスの向こうで校庭のざわめきが一定のリズムを刻んでいる。
神田はフェンス際に立ち、下を見下ろしていた。
その横で、犬神が鞄から厚めの封筒を取り出した。
中には、月曜から集めてきたプリントがぎっしり詰まっている。
「……これ、河田さんの分。先生たちに頼まれてたんだ」
少し迷いを含んだ声。
プリントを胸の前で抱えたまま、彼女は視線を落とした。
「でも……渡すだけで終わらせたくない。
本当は、ちゃんと顔を見て話したいよ」
空気が静かに揺れる。
俺は目線を落とし、短く息を整えた。
「……行こう。状況を確認する必要がある」
神田が無言で頷く。
ポケットに手を入れたまま、視線を空に向けた。
「非効率だが、放置よりは建設的だな」
犬神の表情が、わずかに和らぐ。
その変化を視界の端で捉えながら、胸の奥に小さな温度差を感じた。
「ありがと。じゃあ、みんなで行こっか――土曜日の朝に」
一拍おいて、少し柔らかな声で続ける。
「もし直接渡せなくても……それはそれで、一歩前進だと思う。動かなきゃ、何も変わらないもん」
風がフェンスをなでるように通り抜け、影がゆっくり伸びていく。
俺は空を見上げ、低く言葉を落とした。
「――観測、確認。それから介入だ。
河田を守るために。」
昼の風がその声をさらい、青に溶けた。




