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第3話『観測者の微笑は、揺れていた』

「……ねぇ、越智くん。こういうのも、ちょっとだけ“青春の一部”って感じ、しない?」


棚の下にしゃがみ込んでいた犬神が、試験管の並んだ引き出しを見ながら、そんなことを言った。その口調は、不思議なくらい穏やかで――さっきまで弾けていたテンションが、ふっと落ち着いたようにも感じられた。


(……言われてみれば、そうかもしれない)


理屈ではないが、納得してしまった自分がいた。


「テニス部に入るけど……こういう、秘密基地っぽい部室も好きかも〜。白衣、着てみたいなぁ〜〜っ!」


(やめろ。サイズが合わない)


そう思ったところで、実際に白衣に手を伸ばしかけていたので、俺は無言のまま、棚の扉をそっと閉めてやった。


「わ〜っ、越智くん、冷たい〜っ」


それでも、犬神は笑っていた。


(……気づけば、もう10分以上経っていた)


部室見学は、あくまで“空気を見る”だけのつもりだった。誰にも会わずに。ひとりで。部室の空気は、穏やかに落ち着いていた。

騒がしかったはずの時間が、どこか心に残る温度を持っていた。

けれど、いま――俺の中には、予定していなかった“誰かの気配”が、確かに残っていた。そしてその瞬間――


ガラッ。


勢いよく開いたドアが、空気を切り裂いた。

俺と犬神が、ほぼ同時にそちらへ視線を向ける。その場に現れたのは――

落ち着いた制服の着こなし、肩までの髪をきちんとまとめ、細縁の眼鏡をかけた、知的な雰囲気の上級生。手にはファイルを携え、その所作には、静かな気品が宿っていた。だが、その視線が俺を捉えた瞬間、微かに目が細められる。


「……あら? あなたが科学部の一年生?」


ふわりとした声。けれど、芯のある響き。


「女子とふたりで見学中……って、なかなか積極的なのね?」


犬神が、わかりやすく肩を跳ねさせる。


「え、えっ!? あ、あのっ……こんにちはっ!」


「ふふっ。驚かせちゃってごめんなさいね。

私は朝比奈こころ。生徒会長よ。あなたは……?」


「い、犬神千陽ですっ! あの……入学式で、ご挨拶されてましたよねっ!壇上にいた時から、すごくきれいな人だなって思ってて……!」


「まあ。そんなふうに言ってもらえるなんて、うれしいわ」


生徒会長は、にこりとやわらかく微笑んでみせる。

けれどその視線の先――俺の顔を、さりげなく観察するように流した。


「沙月に頼まれて、予算の件で書類届けに来たの。

これね――」

ファイルの表紙に視線を落とし、ふっと笑う。


「あら、“越智隆之”くん。あなたが越智さんだったのね?……思ったより、興味深い現場に出くわしたわ」


(……やめろ)

俺は無言で視線を外す。


「生徒会長。ここは、科学部の部室です」


「もちろん、部室で何があろうと、立ち入りの権限は心得てるわ。ただ……ね?」


一瞬だけ、声のトーンが落ちる。


「“観測対象”として、ちょっと興味が湧いただけ」


「……生徒会の干渉は、科学部に必要ありません」


「ふふっ。これは“私的な観測”よ。あくまで、個人的な趣味」


犬神は、目をまんまるくして、小首をかしげていた。


(その“観測”は、無意味だ。

この場にいる理由は、部室見学――それだけだ)


生徒会長は、俺から静かに視線を外すと――

そのまま、もうひとりの“場を賑わせた存在”へと目を向けた。


「犬神さん、だったかしら?」


「は、はひっ! ……わたし、なにか変なこと、しちゃいましたかっ!?」


犬神は、ぴしっと背筋を伸ばし、手を前でぺたんと揃える。まるで生活指導に呼ばれた子犬みたいな姿勢だった。


「ううん。そうじゃないの。ただ――あなた、とても“感情の動き”が豊かね」


「えっ……えぇっ!? そ、そうなんですかっ!?」


「……例えば、さっきの“白衣が似合いそう”って言葉とか。

私だったら、あれは相手の心拍数を跳ね上げるセリフだと思うのよ?」


犬神は口をぱくぱくさせたあと、

ついに言葉にならず、ぺたんとその場に座り込んだ。


「へ、変なこと言っちゃってたぁぁ〜〜っ!! わたしってば、うわああんっっ!」


「ふふ……可愛いわね。あなたみたいな子、好きよ。

“感情をまっすぐに出せる子”って、案外貴重だから」


(……待て。あのやりとりの時、こいつはまだ部屋にいなかったはずだ)


俺は一瞬だけ、眉をわずかに動かす。


(まさか……覗いていたのか?)


生徒会長は何も言わず、ただ微笑んでいる。

その顔からは、何一つ情報は読み取れなかった。


***

【同刻 科学部部室/犬神千陽】


壇上でも、すっごく綺麗だったけど――こうして目の前で見ると、なんだか……もっとすごい人、って感じがした。生徒会長・朝比奈こころ先輩っ。

背筋がしゃんとしてて、動きもすごく丁寧で、でもちょっとだけ……近づきにくい雰囲気。


(……わわっ。テレビの中にいる“学園ドラマのお姉さま”って、こんな感じかもっ……)


ぽかーんとして、私は思わず、まんまるな目で先輩を見つめちゃってた。

さっきまで科学部の棚の引き出しをぱかぱか開けて、「きゃーっ♡」ってテンション上がってた自分……なんか恥ずかしい〜っ。


でも――ふとした瞬間。朝比奈先輩が、越智くんのほうを見たときだけ、ちょっとだけ……声のトーンが違って聞こえた気がした。


(……え? 今……なんか……優しかった?)


うまく言えないんだけど、胸の奥がふるっと揺れる感じ。なんだろう、この……もやっ、て。そのとき、生徒会長は眼鏡をくいって直して――ふいに、こっちを見た。

そして、私のほうにだけ、ふわって……ほころぶみたいに微笑んでくれたの。


「犬神さん……」


やさしい声……なんか、胸の奥がぽかってして……

しっぽ、ぶんぶんしたくなる感じっ!


「これから、いろんな人と関わっていくと思うけれど……“近づきすぎる”には、気をつけてね?」


「えっ……?」


「人の心って、繊細だから。あなたみたいにまっすぐな子は、気づかないうちに、誰かの大切なものに触れてしまうことがあるから――」


笑ってるのに、最後の言葉だけ、

……ちょっとだけ、ひんやりして聞こえた。


(……それって、もしかして……わたしのこと……?)


言葉が喉の奥でつっかえて、うまく返せなくて私はそっと目を伏せた。


***


「……言いすぎです。それは」


俺の声は静かだった。

けれど、明らかに空気が変わったのがわかった。


「犬神は、相手の反応を“見て楽しむ”ような人間じゃありません。あれはただ……素直に、思ったことを言っただけです」


その語調は淡々としていたけれど、その一言一言が、まっすぐに線を引いていた。

ほんのわずかに間を置いて――視線を、生徒会長へと戻す。

そして今度は、観測者という立場そのものに、静かに言葉を向けた。


「“感情が強く出た瞬間”は、観測者にとっては確かに魅力的かもしれません。でも――その感情を引き出した相手に、“責任”を求めるのは違う」


生徒会長は、眼鏡の奥でわずかに目を細めた。けれど何も言わず、ただ静かに視線を逸らす。そして、もう一度――犬神を見た。


「あなたって……ほんと、まっすぐで可愛いわね」


その言い方に、さっきまでの“圧”はなかった。

ただ、観測対象に対する好奇心が、透けて見えた気がした。


「でもね、犬神さん。人の心って、時々“無自覚”に誰かを動かすものなの。……あなたみたいな子は、特に」


犬神がきゅっと息を飲んだのがわかった。

それを見て、彼女はふっと表情をやわらげる。


「気を悪くしたらごめんなさいね。別に責めたつもりじゃないの。……ただ、ほんの少しだけ、心配になったのよ」


……そう言いながら、生徒会長はゆっくりと視線を落とした。

まるで、自分の言葉が少しだけ効きすぎたことを、わかっていたかのように――その声は、少しだけ揺れていた。


「……人の心が動く瞬間って、ちょっとだけ怖いけど……それでも、どうしても目を逸らせないの。そんなあなたのことが、少し羨ましかったのかもしれない」


その言葉と同時に浮かんだ微笑は、どこか寂しげで――少しだけ、遠いものだった。


(……あの笑顔は、誰に向けたものだったのか。

俺に? 犬神に? それとも――自分自身に、だったのか)


(判断するまでもない。対象外だ)

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