第3話『観測者の微笑は、揺れていた』
【4月7日(火)10:45/日向高校 科学部部室】
「……ねぇ、越智くん。こういうのも、ちょっとだけ“青春の一部”って感じ、しない?」
棚の下にしゃがみ込んでいた犬神が、試験管の並んだ引き出しを見ながら、そんなことを言った。
その口調は、不思議なくらい穏やかで――さっきまで弾けていたテンションが、ふっと落ち着いたようにも感じられた。
「……青春? 測定不能な概念に価値はない」
つい、口から出ていた。
「えぇ〜っ!? でも、なんか雰囲気そうじゃない? ねぇねぇ〜!」
犬神は、頬をふくらませながら、まるで納得いかないとばかりに身を乗り出してくる。
(……やっぱり、会話のテンポが制御不能だ)
次の瞬間には、先ほどまでの不満を切り替え、対象を試験管から白衣へと移していた。
「テニス部に入るけど……こういう、秘密基地っぽい部室も好きかも〜。白衣、着てみたいなぁ〜〜っ!」
(やめろ。サイズが合わない)
そう思ったところで、実際に白衣に手を伸ばしかけていたので、俺は無言のまま、棚の扉をそっと閉めてやった。
「わ〜っ、越智くん、冷たい〜っ」
それでも、犬神は笑っていた。
(……気づけば、もう10分以上経っている)
部室見学は、あくまで“環境の確認”だけのつもりだった。誰にも会わずに。ひとりで。
だが、静かなはずの空間には――想定外の変数が、確かにログに刻まれていた。
そして次の瞬間――
ガチャ。
ドアが勢いよく開き、空気を断ち割った。
俺と犬神が同時に顔を向けた先に――
肩までの髪を整え、細縁の眼鏡をかけた上級生。
制服の着こなしは乱れなく、手にはファイル。
動作ひとつに、静かな気品が漂う。
だが、その視線が俺を捉えた瞬間――わずかに目が細められた。
「……あら? あなたが科学部の一年生?」
ふわりとした声。けれど、芯のある響き。
「女子とふたりで見学中……って、なかなか積極的なのね?」
「え、えっ!? あ、あのっ……こんにちはっ!」
犬神が、わかりやすく肩を跳ねさせる。
「ふふっ。驚かせちゃってごめんなさいね。
私は朝比奈こころ。生徒会長よ。あなたは……?」
「い、犬神 千陽ですっ! あの……入学式で、ご挨拶されてましたよねっ! 壇上にいた時から、すごくきれいな人だなって思ってて……!」
「まあ。そんなふうに言ってもらえるなんて、うれしいわ」
生徒会長は、にこりとやわらかく微笑んでみせる。
けれどその視線の先――俺の顔を、さりげなく観察するように流した。
「沙月に頼まれて、予算の件で書類届けに来たの。これね――」
ファイルの表紙に視線を落とし、ふっと笑う。
「あら、“越智隆之”くん。……新入部員、というわけね。 思ったより、興味深い現場に出くわしたわ」
俺は黙って視線を外す。
会話を継続する理由は、どこにもなかった。
「もちろん、部室で何があろうと、立ち入りの権限は心得てるわ。 ただ……ね?」
一瞬だけ、声のトーンが落ちる。
「ちょっと興味深い“ケース”として、気になっただけ」
「……余計な意味はない。ただの部室見学だ」
「ふふっ。これは“私的な観測”。
あくまで――心の反応パターンに惹かれただけよ」
犬神は、何を言っているのか分からないとでも言いたげに目を見開き、首を傾ける――単純すぎる反応だった。
(その“観測”は、無意味だ。
この場にいる理由は、部室見学――それだけだ)
生徒会長は、俺から静かに視線を外すと――
そのまま、もうひとりの“場を賑わせた存在”へと目を向けた。
「犬神さん、だったかしら?」
「は、はひっ! ……わたし、なにか変なこと、しちゃいましたかっ!?」
犬神は、ぴしっと背筋を伸ばし、手を前でぺたんと揃える。まるで生活指導に呼ばれた子犬みたいな姿勢だった。
「ううん。そうじゃないの。
ただ――あなた、とても“感情の動き”が豊かね」
「えっ……えぇっ!? そ、そうなんですかっ!?」
「……例えば、さっきの“白衣が似合いそう”って言葉とか。心理学的に見れば、あれは相手の感情曲線に即時のピークを生じさせる――いわばトリガーよ」
言葉を形成できず、犬神は処理落ちしたようにその場に座り込んだ。
「へ、変なこと言っちゃってたぁぁ〜〜っ!! わたしってば、うわああんっっ!」
「ふふ……可愛いわね。あなたみたいな子、好きよ。
“感情をまっすぐに出せる子”って、案外貴重だから」
(……待て。あのやりとりの時、こいつはまだ部屋にいなかったはずだ)
俺は一瞬だけ、眉をわずかに動かす。
(まさか……覗いていたのか?)
生徒会長は何も言わず、ただ口元に静かな微笑をたたえている。
その裏側に、解析可能なシグナルは検出できなかった。
* * *
【同刻 科学部部室/犬神千陽】
壇上でも、すっごく綺麗だったけど――こうして目の前で見ると、なんだか……もっとすごい人、って感じがした。生徒会長・朝比奈こころ先輩っ。
背筋がしゃんとしてて、動きもすごく丁寧で、でもちょっとだけ……近づきにくい雰囲気。
(……わわっ。テレビの中にいる“学園ドラマのお姉さま”って、こんな感じかもっ……)
けど――なんだろう。
目の奥が、ちょっとだけ……ほんとは疲れてるみたいに見えた気がする。
(わたしの気のせい……かな?)
私は気づけば、先輩から目が離せなくなっていた。
さっきまで科学部の棚の引き出しをぱかぱか開けて、「きゃーっ♡」ってテンション上がってた自分……なんか恥ずかしい〜っ。
でも――ふとした瞬間。朝比奈先輩が、越智くんのほうを見たときだけ、ちょっとだけ……声のトーンが違って聞こえた気がしたの。
(……え? 今……なんか……優しかった?)
うまく言葉にはできないんだけど、胸の奥がふわっと揺れて――なんだか、もやもやっ。
(……なに、この感じ?)
そのとき、朝比奈先輩は眼鏡をくいって直して、ふいにこっちを見た。
そして、私の方にだけ、やわらかく――ふわって、お花がひらくみたいに微笑んでくれた。
「犬神さん……」
やさしい声……なんか、胸の奥がぽかってして……
しっぽ、ぶんぶんしたくなる感じっ!
「これから、いろんな人と関わっていくと思うけれど……“距離の取り方”には気をつけてね?」
「えっ……?」
思ってもみなかった方向からの言葉に、耳がぴくんって立った気がした。
胸がきゅっと縮んで、次の言葉が出てこない。
「人の心は、ガラス細工みたいに壊れやすいものよ。あなたのように率直な子は、無自覚のまま“境界線”を越えてしまうことがあるの」
笑ってるのに、最後の言葉だけ…… 背中に冷たい風がすっと通った気がした。
(……それって、もしかして……わたしのこと……?)
言葉が喉の奥でつっかえて、うまく返せなくて私はそっと目を伏せた。
* * *
「……言いすぎだ。それは」
俺は声を抑えていた――だが、空気がわずかに張りつめたのがわかった。
「犬神は、相手の反応を“楽しむ”ような人間じゃない。ただ……思ったことを、そのまま口にしただけだ」
語調は終始淡々としていた。
それでも、一つひとつの言葉は線を引くように明確だった。
わずかに間を挟み、今度は彼女自身に向けて言葉を返す。
「“感情が跳ねる瞬間”は、データとして切り取れば確かに魅力的かもしれない。……でも、その反応を引き出した相手に“責任”を押しつけるのは違う」
朝比奈こころは、眼鏡の奥でわずかに目を細めた。
けれど何も言わず、ただ静かに視線を逸らす。
そして、もう一度――犬神を見た。
「あなたって……ほんと、まっすぐで可愛いわね」
その言い方に、さっきまでの“圧”はなかった。
ただ、観測対象に対する好奇心が、透けて見えた気がした。
「でもね、犬神さん。人の心は、無意識のうちに他人を動かすことがあるの。……あなたみたいに率直な子は、特にね」
犬神の肩がわずかに震え、息が詰まる音が伝わってきた。それを見て、彼女はふっと表情をやわらげる。
「気を悪くしたらごめんなさいね。別に責めたつもりじゃないの。……ただ、ほんの少しだけ、心配になったのよ」
そう言いながら、生徒会長はゆっくりと視線を落とした。
まるで、言葉が効きすぎたことをわかっているかのように――その声には、柔らかい揺れがあった。
「……でもね、まっすぐで可愛いところは、どうかそのままでいて。 私にはないものだから……少し、羨ましいのよ」
その言葉と同時に浮かんだ微笑は、淡い寂しさを帯び――わずかに距離を置いたものだった。
(……その感情の帰属先を解析する意味はない。
結論はひとつ――対象外だ)




