第29話『モーニング・トランジション』
昼休みの理科準備室前。
教室の喧噪から十数メートル離れただけで、空気の密度が変わる。
入り口のドアに手をかけようとした――その瞬間、
RINEの通知音が静寂を裂いた。
ポケットの中で、わずかな振動。
画面には、犬神千陽の名前。
《放課後の屋上でね。大事な話があるのっ。
逃げちゃダメだからね〜っ!》
(……感情で押し切るタイプの通知は、統計的に良い予兆ではない)
それでも――犬神の頼みとあらば、解析よりも実行を優先するしかない。
理屈ではなく、もう“慣例”に近い行動原理だ。
⸻
放課後の校舎は、音声トラックの消えた動画みたいに静かで、人の声も足音もなかった。
その分だけ、心拍のリズムがやけに耳に響く。
階段を上がるたびに、光が薄くなっていく。
手すりの金属がオレンジ色にきらめき、世界が少しずつ“静かな秩序”に戻っていくようだった。
――そんな奇妙な感覚。
鉄扉を押し開けた瞬間、風が流れ込んだ。
体感温度は低いのに、不自然なほど均一。
フェンス越しの空は、青とオレンジが境界線を保ったまま、静かに交わっていた。
(……静かなのに、心拍だけが騒がしい)
そのとき――風を裂くような声が届いた。
「越智くんっ!」
フェンスの向こう、太陽を背に犬神千陽が立っていた。
オレンジの光に髪が透けて、頬がわずかに赤く見える。
「わたしね――ずっと言いたかったの!」
彼女の声が空気を震わせた、その瞬間。
頭上に小さなウィンドウが“ポンッ”と浮かび上がる。
《わんわんテンション上昇中!》
《キーワード:まっすぐ・元気・だいすき!》
風に乗った光が、夕陽の中で犬神の髪をなぞっていく。
(……まさか、そういう“言いたいこと”か?)
「だい、す――」
語尾が風にさらわれた。
突風がフェンスを揺らし、空の色がノイズ交じりに分解されていく。
青と橙がバラバラのピクセルになり、数値の粒が視界を漂った。
(……異常値検出)
背後から別の声がした。
「こんなところで、何をしているのかしら――隆之くん」
振り返ると、そこには朝比奈こころ。
制服姿のまま、整った立ち姿。
完璧な生徒会長モード――いつもの彼女だ。
「らしくないわ。あなたは、感情を数字に変えて生きる人なのに」
その声音は穏やかで、完璧に整っていた。
それなのに、静けさの中で耳の奥がかすかにざわつく。
言葉を落とすたびに、彼女は一歩ずつこちらへ近づいてくる。
一歩、また一歩――そのたびに、空間のノイズが濃くなっていく。
「……でもね、そういうところが、ずるいの」
一瞬で、空気が変わった。
声のトーンが、甘く溶けるように落ちる。
目の奥に、ピンクの光。
「たかゆきぃ〜……わたしより先に犬神さんに会うなんて……ひど〜い!」
(……いや、モード切り替わり早すぎだろ)
彼女の頭上に小さなウィンドウが“ポンッ”と浮かび上がる。
《甘やかしモード:起動中♡》
《たかゆき依存レベル:観測不能》
犬神とこころ。
ふたりの視線が、同時にこちらを向く。
風が止まり、空気の密度がわずかに上がった。
ほぼ同じタイミングで、ふたりの足音が近づく。
片方は軽く跳ねるように、もう片方は静かに滑るように。
温度の違う二つの存在が、同じ一点を見据えていた。
「越智くん、こっち見てっ!」
犬神の声が明るく弾む。
「たかゆき、選んで♡」
こころの声は、蜜のようにとろけて落ちた。
――世界の格子が、そこで軋んだ。
振動が伝播し、風のデータが電子ノイズに置換されていく。
空中に浮かぶセルが崩れ、文字列が順に破損していった。
“Excel(応答なし)”の文字が空に滲み、数式が∞を描いた。
(……システムエラー:感情値、飽和)
光が乱反射し、フェンスの向こうが真っ白に溶けていく。その中で、ひとつだけ――別の声が響いた。
「……信じてたのに」
背後から、河田亜沙美の声。
振り返ると、淡い残光の中に彼女が立っていた。
髪が光に溶け、輪郭がほどけていく。
寂しげな笑みだけが、最後に残った。
《信頼データ:途切れました》
《コメント:……それでも、ありがとう》
《……恋のログ、破損》
Excelのセルのように整列したピンクの粒子が、ひとつ、またひとつと消えていく。
伸ばした手は、確かに彼女へ向かっていた。
けれど、触れることはできなかった。
そこには――空白しかない。
指先の先で、薄い光の粒が静かに散っていくのが見えた。
やがて、セルの並びが崩れはじめる。
白がすべてを呑み込み、輪郭も音も消えていく。
――そして、その白は、朝の光に変わった。
目を開けると、天井の模様がぼんやりと滲んでいた。
「……夢、か」
呼吸を整えながら、さっきの光景を思い出す。
フェンスの向こうへ伸ばした手は、結局、河田には届かなかった。
最後に残ったのは、彼女の声だけ。
“信じてたのに”――その響きが、まだ耳の奥に残っている。
(……河田。あれも、俺の記憶が作った幻か)
Excelのセルが崩れていく映像が、まだまぶたの裏に残っていた。
(恋のログ……破損、か)
額に手を当てて息を吐いた――そのときだった。
「おはよう♡ たかゆきっ♡」
……聞き覚えのある声。
体の横に、わずかな体温の差を感じた。
寝返りを打つと、枕の向こうで髪がふわりと揺れる。
視線を向けると――同じ布団の中で、にこにこと笑う朝比奈こころがいた。
「…………は?」
「ん〜? ノックしたけど起きなかったから〜♪ だから“強制ログイン”♡」
「……ログインじゃなくて、不法侵入だろ」
声は保てていた。
ただ、思考が数秒ほど空白になっていたのは否定できない。
こころがふわりと身を起こす。
その拍子に、ベッドの端で体勢を崩した。
「きゃっ――」
反射的に手を掴む――が、そのまま重心を持っていかれた。
「っと……!」
視界が反転し、シーツと枕が一瞬宙を舞う。
ドサッ、と鈍い音。気づけば、二人とも床の上――こころを抱きかかえる形で倒れ込んでいた。
彼女の瞳がわずかに揺れ、呼気が触れる。
体温の境界が曖昧になり、心拍のノイズが一瞬跳ねた。
(……距離、ゼロ。完全に想定外)
息を整える間もなく、彼女の唇がわずかに弧を描く。
「……ねぇ、たかゆき。ドキドキしてる?」
「……一時的な誤作動だ」
その瞬間――
微かな音とともに、背後のドアが開いた。
視線を向けると、そこに神堂沙月が立っていた。
寝起きの光に照らされた輪郭は、日常の中に差し込んだ異物のように整っている。
表情はいつもの静けさ。ただ一瞥だけをこちらに投げた。
「……あなたたち、もう付き合ったら?」
その声は冷たくも淡々としていて、まるで空気そのものが“論理”に戻ったようだった。
こころの肩がびくりと跳ね、現実がゆっくりと再起動する。
「違う。これは事故だ」
「じゃあ――付き合っちゃおっか?」
こころが屈託なく笑う。
「……お前のバグは、もう修正不能だな」
「だって、“事故”も運命のうちでしょ?」
沙月が呆れたように息を吐く。
「……合理的な事故、ね。朝からご苦労さま」
こころは一瞬、言葉を詰まらせて視線を逸らす。
指先で頬を押さえながら、小さく呟いた。
「……そんなふうに言われたら、恥ずかしいじゃない……」
俺は天井を見上げ、わずかに息を吸い込んだ。
(……朝から心拍、基準値+6。誤差の範囲内。
問題なし)
その沈黙を測ったかのようなタイミングで、沙月が口を開いた。
「……せっかくの休日の朝だし、たまには外でコーヒーでもどう? 笹倉カフェ、ちょうどモーニングの時間よ」
こころがぱっと顔を明るくする。
「行こっ行こっ! 梓ちゃんのカフェ、久しぶりだし♪」
俺は髪を整えながら、ふと窓の外を見た。
薄く差し込む朝の光の中で、ゆっくりと言葉を返す。
「……あそこなら、悪くない。落ち着いた空気がある」
沙月が小さく口角を上げる。
「珍しく肯定的ね。じゃあ決まり」
そのやり取りの最中、ふと沙月の服装に視線が引かれた。
胸元に“シバりん”を堂々と抱えたTシャツ。
昨日の風呂上がりに見たときと、まったく同じ格好だった。
「……それで行くつもりか?」
「当然でしょ。人目なんて気にしないわ」
無表情で言い切りながらも、指先がほんのわずかに裾を整えていた。
こころがくすっと笑う。
「じゃあ、私も“生徒会長モード”でピシッと行っちゃおうかしら」
懐から黒縁のメガネを取り出し――
スチャッ。
慣れた手つきでメガネをかけ、髪を解いてさらりと肩へ流す。
一瞬で“完璧会長”の雰囲気が立ち上がった。
「……それ、伊達メガネだろ」
「しっ、演出も大事なの♡」
沙月が肩をすくめる。
「合理性ゼロね」
「でも、効果は抜群でしょ?」
小さな笑いがこぼれた。
窓から射す朝の光が、三人の影を静かに重ねていく。
⸻
【4月18日(土)9:00/Aroma Café ササクラ前】
商店街の角を曲がった瞬間、小さな鳴き声が耳に届いた。白いリードの先で、柴犬の子が尻尾を左右に揺らしている。
そのリードを握っていたのは――犬神千陽。
「越智くん!? 朝比奈先輩も!? それに、そのすっごく綺麗な人は!?」
沙月が一歩前に出る。
「神堂沙月。科学部の部長よ。――こころとは従姉妹。今日は私が二人をカフェに誘ったの」
犬神が納得したように、ふわりと微笑む。
「へぇ〜っ! 科学部の部長さんなんだ〜っ! かっこいい〜っ!」
その声に反応するように、足元の柴犬――ゲンキが「ワンッ!」と短く鳴いた。
すると、視界の端に青い文字が浮かぶ。
《【翻訳】この人たち、いい匂い!》
(……そうか。これが、あのときの看板猫――トラのときと同じ反応か。
気づかないうちに、翻訳スキルが定着してたとはな)
こころがしゃがみ込み、頭を撫でた。
「ふふ、可愛い子ね。……なんていう名前なの?」
「ゲンキっ! 生後半年なの〜っ!」
犬神が胸を張って答える。
「ゲンキ……いい名前ね。名前のとおり、元気いっぱいじゃない」
こころが微笑むと、ゲンキが「ワンッ!」と短く鳴き、尻尾を勢いよく振った。
その様子に、犬神も自然と笑みをこぼす。
沙月は少し距離を取っていたが、ゲンキが正面に座ると、そのまっすぐな瞳に射抜かれたように動きを止めた。
「……近い」
「もしかして、犬が苦手ですか?」
犬神が心配そうに首を傾げる。
「距離の取り方が、わからないだけ」
沙月はそう言って、逡巡のあと――そっと手を伸ばした。
指先が毛並みに触れた瞬間、沙月の肩がわずかに震えた。
掌に広がる温度に、思わず息を止めている。
「……あったかい」
ゲンキが「クゥン」と小さく鳴いた。
《【翻訳】くすぐったいけど、うれしいよー!》
(……人も犬も、感情表現は案外シンプルだ)
ゲンキはそのまま沙月の手に頭を預けた。
こころが微笑み、犬神がうれしそうに声を上げる。
「ね、いい子でしょ〜っ。ゲンキも神堂先輩のこと好きなんだよ〜っ!」
沙月は短く息を整え、ほんのわずかに目元を緩める。
「……ふわふわで、かわいい」
ゲンキが満足そうに鳴き、尻尾をゆるやかに揺らした。
《【翻訳】ぼく、えらい?》
(……よし、合格だ)
そのまま、ゲンキの頭に軽く手を伸ばした。
毛並みは思っていたより柔らかく、掌に小さな温もりが残った。
満足げに目を細めたゲンキが、今度は沙月の服の裾をくんくんと嗅ぐ。
胸元のプリントに気づき、犬神の目が輝いた。
「うわぁ、それ“シバりん”だよねっ!?」
沙月が視線を落とす。
「……ええ。こころが貸してくれたの」
「わんダフル☆フレンズ! わたし、このアニメ大好きなんだよ〜っ!」
こころが笑みを浮かべる。
「実は私も。癒されるわよね」
「ほんと!? 今度語り合お〜っ!」
「いいわね、約束」
沙月が小さく首を傾ける。
「……論理的には矛盾が多いけれど」
「それがいいのっ!」
二人の声が重なる。
ゲンキが「ワンッ!」と短く鳴いた。
《【翻訳】ぼくも好きー!》
(……犬まで一枚噛むか)
ゲンキの声に合わせるように、犬神がぱっと笑顔を弾かせた。
そのままリードを引きながら、軽やかに手を振る。
「じゃ、そろそろ帰るねっ! 部活の時間、もうすぐなんだ〜っ!」
ゲンキが「ワフッ」ともう一声。
《【翻訳】またね!》
「……ああ」
犬神とゲンキが並んで歩き去っていく。
朝の光の中で、背中の輪郭がゆっくりと遠ざかっていった。
俺は歩を進めながら、視界に残った文字を閉じた。
《犬神千陽:元気値+∞ 安定指数:不明》
沙月が短く息をつく。
「……あの子、あれで案外、場のノイズを整えるわね」
淡々とした声に、ほんの微笑がにじんだ。
「うん……」こころが応える声は、少しだけ遅れた。
「見てると……自分まで笑顔になる」
その瞳の奥に、わずかな揺らぎ――消えかけた何かが、ふっと灯る。
俺はその横顔を視界の端で捉えながら、
(……“安定指数:不明”。まさに犬神は、そういう存在だ)と、ひとつの観測結果として受け止めた。
⸻
カラン。
真鍮のベルが軽く鳴り、扉が静かに開く。
ふわりと、甘やかな香りが流れ込んできた。
焼きたてのトースト、ラベンダー、紅茶の湯気――
香りの層がゆっくりと混ざり合い、店内の空気そのものに温度が宿っている。
「いらっしゃい、皆さん。モーニングを食べに来てくれたのね」
カウンターの奥から笹倉の母が顔を出し、柔らかな笑みを向けてきた。
その横では、エプロン姿の笹倉一香が手を振る。
厨房の奥では笹倉の父がハンドドリップをしており、湯気とともに香ばしい音が空気に溶けていく。
「おはようございますっ!」
一香が元気に挨拶する。
「おはようございます、一香ちゃん」――こころが微笑みながら返す。
「おはよう」――沙月は短く、それでも穏やかに。
俺は軽く会釈だけして、二人の後ろに続いた。
その流れで、自然と視線が交わる。
一香がぱちりと目を瞬いた。
「……あれ? また違う女の人と来てる〜!? も、もしかして……モテるんだ……!」
視線の先には、朝比奈こころと神堂沙月。
その並びは、確かに目を引く。
こころが静かに笑みを返した。
「……そう。楽しそうで、何よりだわ」
だが、その目の奥に――わずかに“ざらつき”のような揺れが走る。微かな違和感。
(……こころの反応パターン、平常値から逸脱)
短い沈黙が落ちた。
言葉の行き場を失った空気が、わずかに沈む。
その静けさを埋めるように――カウンターの奥で、ドリップの湯が静かに落ちる音だけが響いた。
笹倉の父の手元には、一切の揺らぎがなかった。
湯の軌道も、滴の間隔も、正確で安定している。
そのリズムに合わせるように、コーヒーの香りが秒単位で空気に染みていく。
穏やかな空気の中に、わずかな違和感を探すように――
沙月が視線を動かし、店内を一巡させた。
「笹倉梓さんは、今日は居ないの?」
「お姉ちゃんなら今いないの」
一香がそう言って、胸を張るように続けた。
「“ダンスのレッスン”に行ったの。最近すっごく頑張ってて――毎週楽しそうなんだよ!」
沙月がふっと笑う。
「相変わらず、向上心のかたまりね。……あの子らしいわ」
「そうなのよ」
笹倉の母が目を細め、うれしそうに笑う。
「今日は朝から張り切って出かけたわ。熱心なのは良いことね」
その言葉と同時に、足元を何かがすっと横切った。
視線を落とすと、毛並みの整った茶トラ猫――この店の女王、“トラ”が静かに姿を現した。
「今日もご機嫌ね」
こころが目線を合わせて声をかける。
しかし、トラはちらりと一瞥をくれただけで、くるりと尻尾を翻した。優雅で、堂々たる“塩対応”。
「ニャ〜」
《【翻訳】また来たわね、人間たち。犬の匂いがする……落ち着かないわ。》
「ニャッ」
《【翻訳】――静かな朝なのに、感情の匂いが渦を巻いてる。今日は少し騒がしいわね。》
(……嗅覚の精度、相変わらずだな)
心の中で小さく息を漏らす。
トラは何事もなかったように、カウンターの奥へ戻っていった。
その背中には、“店を仕切る女王”の風格が漂っている。
姿が見えなくなるのを確かめてから、視線をテーブルへ戻す。歩を進め、空いた席に腰を下ろした。
笹倉の母が静かに近づき、微笑みながら水を置く。
「モーニングはトーストセットでいいかしら?
飲み物は、いつものように?」
こころがうれしそうに頷いた。
「はい、紅茶でお願いします」
沙月も軽く会釈し、「同じで」と短く答える。
俺もそれに続いて頷く。
「ブレンドでお願いします」
前に河田が頼んでいたのと、同じ。
――意識したわけじゃない。
ただ、今はその香りを確かめてみたくなっただけだ。
しばらくして、焼きたてのトーストとサラダ、ポットから注がれた紅茶、そして湯気を立てるブレンドのカップが並んだ。
紅茶の柔らかい香りと、コーヒーの深い焙煎の匂いが、静かに混ざり合う。
店内を満たす香りの層が、朝の光の温度と同期していた。
こころはゆで卵の殻を丁寧に剥き、指で転がす。
動きが滑らかで、余白がある。
「……こういう朝、好き」
その言葉に、紅茶の湯気が小さく揺れた。
沙月はサラダのオリーブを最後に回す。
「味の偏差が小さいものは、最後にまとめるの」
理屈を言いながらも、表情はわずかに緩んでいた。
(こういう瞬間にも、思考の配列が乱れない。……相変わらずだ)
俺はブレンドを一口飲む。
深い苦味の奥に、かすかな甘み。
その香りが、記憶のどこかを静かに叩いた。
――河田は、この苦味の中に何を見ていたんだろう。
甘みか、迷いか。それとも、誰にも言わなかった気持ちの残り香か。
(心拍、基準値−2。安定)
カップを置くと、時計の針が小さく鳴った。
その一瞬の間に、空気の流れが変わる。
こころの視線が、ゆっくりと窓の外へ滑っていった。
「……一年の、村上愛梨沙さん。」
迷いなく、その名を口にした。
通りを歩く黒髪の少女。淡いベージュのカーディガン、細いショルダーバッグ。
見覚えのある顔だった。たしか――橘芹香の隣で、何度か見かけたことがある。
「橘芹香さんと、いつも一緒にいるわね。」
こころの声音に、わずかな陰が混ざる。
(反応速度、変わらず。記憶領域は健在だ)
こころは日向高校の全生徒の顔と名前を記憶している。
それを俺は、もう何度も見てきた。
だが今は、その精度の下にわずかな“ノイズ”が混ざっていた。
沙月が小さく眉を動かす。「知っているの?」
「ええ。生徒会で名前を見たことがあるの。……それに――」
こころは言葉を濁し、指先でカップの縁をなぞった。
外では風が一度だけ通り、カーテンが柔らかく揺れる。
そのわずかな揺らぎに合わせるように、こころの瞳が細くなる。
「……あの時、校門のところで見かけた顔。
もしかして、あの出来事と繋がってるかもしれない。――帰ったら、話すね」
(現実のログが、ひとつ更新された)
コーヒーの表面に、輪のような波紋が広がって消える。
冷めていく温度につれて、苦味だけが静かに濃くなっていった。
トラが尾をほどき、こちらを一瞥してからあくびをする。
「ニャッ」
《【翻訳】――この居場所、落ち着かないわね。》
空のカップを受け皿に戻し、深く息を吸う。
朝の静けさがほどけ、現実が息を吹き返す。
胸の奥で、更新されたログが静かに沈んでいた。




