第28話『揺れる最適解』
【4月17日(金)17:20/越智家・玄関】
玄関のドアノブに手をかけたとき、雨に濡れた制服は肌に張りつき、冷たさだけが残っていた。
扉を開けると、外の湿気に混じって台所の匂いがふわりと押し寄せてくる。
玉ねぎを炒めた甘い香りが鼻をくすぐり、体温を奪われた感覚に小さな救いを与えてくれた。
濡れた靴底が玄関のタイルに触れた瞬間、視線が自然と足元へ落ちる。
並んだローファーの列に、一足だけつま先の角度まで揃えられたものがある。
その隣には、微妙に向きがずれた一足。
(――こころの他に“誰か”が一緒にいる。……あいつ以外に考えられないな)
「あら、隆之。びしょ濡れじゃない。早くお風呂に入りなさい」
台所から母の声。簡潔で迷いのない言葉はいつも通りで、返す余地はない。
看護師として夜勤をこなす母は、家にいないことも多い。だからこそ、こうして台所から聞こえる声には、不思議と安心感があった。
母はさらに声をかける。
「こころちゃんたち、もう先に入ってるけど、そろそろ出てる頃じゃないかしら。カレーもすぐ出来るからね」
「……わかった」
鍋で煮込まれる音と、スパイスの香りが廊下まで漂ってくる。
湿度に混ざった温かな香気が、冷えた肌に“温度の錯覚”を与えてくれた。
――その匂いの奥に、心が少しだけ緩む理由も分かっていた。
階段を上がり、自室で部屋着を手に取る。
そのまま脱衣所へ向かうと、引き戸が内側からわずかに動いた。
――かすかな湯気が、すうっと漏れ出す。
湿った空気に、ほのかな石けんの香り。
その白いもやの中から、髪をタオルで押さえながら、こころが現れた。
「あっ、たかゆき、帰ってきたんだ。ちょうどお風呂空いたよ。……雨、けっこうやばかったでしょ?」
「……そうだな」
(……母さんの言った通りだ)
その直後、もう一人。
後ろから現れたのは――神堂沙月。
胸元に、こころお気に入りのアニメ『わんダフル☆フレンズ』の犬キャラ“シバりん”が大きくプリントされた長袖Tシャツ。下はハーフパンツ。普段の冷静沈着な彼女からは、想像できないラフな格好だった。
しかも本人は、当たり前のように無表情で着こなしている。
「……何? そんな顔して。珍しいものでも見たの?」
(……こころが沙月に着せたか。これはもう、世界七不思議に追加されてもいい現象だろう)
「ふふっ、似合うでしょ? 沙月、こういうの絶対に着ないからさ」
「……沙月にしては、意外と似合ってる」
気づけば、思考がそのまま口をついていた。
沙月は胸元のシバりんをちらりと見下ろす。
「借りただけよ。……ただの例外処理にすぎないわ。
もっとも――このキャラが愛されるのも、合理的に説明できるわね」
冷静な声の奥に、わずかな照れが滲んでいた。
理屈の響きが、短い余韻を残して消える。
ちょうどその間を断ち切るように、台所から母の声。
「隆之、早く入りなさい! 風邪ひくわよ」
声に押され、脱衣所へ足を運ぶ。
非日常の余韻は、いつもの安定値に収束していった。
⸻
湯船に身を沈める。
体の芯から冷えが溶けていく感覚の中で、思考だけが沈まなかった。
「――ねぇ、あなた、彼女いるの?」
湯気の奥で、あまりにも場違いな声がよみがえる。
十年前、こころが初めて沙月を家に連れてきた日の記憶。
幼いのに、不思議な落ち着きをまとった少女。
窓辺に差す光を受け、銀の髪が淡く跳ね返る。
その瞳は、年齢相応というデータからは明らかに外れた値を示していた。
小さな自信のような笑みを浮かべて、沙月は言葉を重ねる。
「……ふぅん。じゃあ、いつかできたら教えて」
あの時の声は、幼さと大人びた響きが混ざっていた。
(……今の沙月の論理構造じゃ、まず出てこないセリフだな)
胸の奥の記憶の残響を、上がる湯気の奥へと沈めていく。
⸻
風呂を上がると、リビングには温かい匂いが満ちていて、食卓の上には食事の準備が整っていた。
鍋を置く音、サラダを並べる音、グラスが軽く触れ合う音――それらが重なって“家族の気配”を作り上げている。
俺が席に着く頃には、こころと沙月はすでにテーブルに並んで座っていた。
「沙月ちゃん、今日は泊まっていくのよね? 明日は土曜日で学校もお休みだし、ゆっくりしていって」
向こうの台所から、母の声が柔らかく届く。
「……ええ。ありがとうございます。お言葉に甘えさせてもらうわ」
こころが微笑みながら、スプーンをそっと置き、頬にかかる髪を耳にかける。
「ふふっ、なんだか久しぶりにお泊まり女子会だね」
「……いつの間にそんな話になったんだ?」
母が笑いながら振り向き、穏やかな声で続けた。
「さっき聞いたのよ。遅い時間に帰すより、従姉妹なんだから、うちにいた方が安心でしょ?」
「……まあ、そうだな」
口にした瞬間、湯気がふわりと上がる。
食卓の空気が静かに解けていく。
カレーがよそわれ、スパイスの香りがわずかに視界を揺らした。
一瞬の静寂のあと、手を合わせる。
三つの声が重なった。
「いただきます」
スプーンの音が一斉に響き、食卓に一瞬の静けさが訪れる。
その中で母が懐かしそうに笑った。
「そういえばたかゆき、小さい頃はこころちゃんと沙月ちゃんのこと、“お姉ちゃん、お姉ちゃん”って呼んでたのよねぇ」
「……母さん、それはやめてくれ」
「ふふっ、私も覚えてる。“こころお姉ちゃん”って、すごく可愛かったんだから」
「……私も同じ。あの頃は素直だったわね」
「やだぁ、沙月まで! ねぇたかゆき、今からでも呼んでくれていいんだよ? “こころお姉ちゃん♡”」
「絶対に言わない」
三人の笑い声が重なり、食卓の湯気が柔らかく揺れた。
⸻
夕食を終えると、こころと沙月が並んで台所に立った。
手際よく食器を流しに運び、洗いと拭きを自然に分担する。
「こころ、ちゃんと水気ふき取って」
「分かってるってば。……沙月こそ、ほら、カレー鍋まだ熱いんだから気をつけてよ」
互いに軽く突っ込み合いながらも、動きは噛み合っている。
母はその様子を見て目を細め、「ほんとに仲のいい二人ね」と微笑んだ。
二人は顔を見合わせ、小さく笑い返す。
俺はグラスの水を飲みながら、その光景を横から眺めた。
(……ああ、こういうのを“家族”って言うんだろうな)
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ひと段落したところで、こころが手を拭きながら声を落とした。
「――お父さんに挨拶してくるね」
沙月も静かに頷く。自然と俺も立ち上がっていた。
三人は廊下を進み、和室へ。
畳の匂いの中、こころは家具型の仏壇の前に座り、静かに手を合わせる。
扉の奥には、柔らかな光に包まれた義父の遺影。
穏やかな笑みを浮かべたまま、今でも家族を見守っているかのようだった。
「……ただいま、お父さん。もうすぐ五年になるね」
その声は寂しさよりも、懐かしさを含んだ微笑みだった。
誰に聞かせるでもなく、日常の会話を続けるように。
俺は少し離れた場所で、その祈りを見つめていた。
(――俺にとっては義理の父親。沙月にとっては叔父にあたる人。穏やかで、人柄の良い人だった。
……あの人からもらった“最初のきっかけ”。もう形にはしていないが、心の奥で今も静かに息づいている)
沙月も膝を折り、こころの隣で仏壇の前に座る。
目を閉じて手を合わせ、低く呟いた。
「……叔父さん。お邪魔しています」
冷静な声音なのに、不思議と温かさが宿っていた。
仏壇の前に落ちる静けさが――夜の空気に溶けていく。
こころが手を合わせ終え、ゆっくり目を開ける。
「……うん、行こっか」
微笑んで静かに立ち上がった。
沙月は目を伏せたまま、口元にわずかな笑みを残す。
その穏やかな表情が、かえって胸に残った。
静けさの中で、俺はそっと息を整える。
三人で和室を後にし、リビングへ戻る。
片付けを終えた母の気配はすでに遠く、テーブルには食後の温もりだけが残っていた。
そこで立ち止まり、短く息を吐く。
二人の視線を受け止め、ゆっくりと言葉を絞り出した。
「……二人に、相談がある」
こころがわずかに表情を曇らせ、頷いた。
「……河田さんのことでしょう? 分かってるわ。
じゃあ、たかゆきの部屋で話しましょうか」
沙月は無言で頷き、俺を促すように視線を寄越す。
三人は立ったまま視線を交わし、そのまま無言で階段を上がった。
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俺の部屋に入り、ドアを閉める。下の階の生活音が遠ざかり、空気が切り替わった。
机の前の椅子に腰を下ろす。
こころはベッドの端に腰かけ、膝の上で両手を揃える。
沙月は壁際の補助椅子を引き寄せ、姿勢を正して座った。
静かな間が落ちる。
その静寂を破るように、短く息を吐き、俺は切り出した。
「……河田が、不登校になった。原因は脅迫だ。
相手は橘芹香」
こころのまつ毛がわずかに揺れ、表情が陰る。
「それは……先生からも連絡があったわ。生徒会長として、不登校の件は聞いている。
でも……橘さんが関わっていたなんて」
少し間をおき、静かに続けた。
「……橘さんと村上さん。数日前、通学の途中で河田さんを責めているのを見たの。
その時は止めてあげたんだけど……もっと、ちゃんと彼女に寄り添ってあげればよかった」
空気がわずかに沈む。
沙月は目を伏せ、手を重ねたまま口を開いた。
「……こころ、誰にでも完璧に寄り添うことなんてできないわ。
でも、あなたがその場で止めたことは、確かに意味があったはずよ」
「……十分だ」
短く言葉を添えると、こころは小さく目を伏せ、二人の言葉を噛みしめた。
「……橘は、脅迫の証拠をSNSに拡散するつもりでいる。河田が不登校になったのも、それを恐れたからだ」
こころの眉が寄る。
「拡散……そんなこと、絶対に許されないわ」
沙月が腕を組み、淡々と続けた。
「非合法な手で真相を暴くこともできる。でも、それでは彼女を守れない。最適解は“正規ルート”。先生や生徒会と連携して、正しく解決することよ」
俺は視線を伏せる。
「……だが、時期を誤れば、かえって彼女を追い詰める」
こころは小さく頷き、静かに言葉を添えた。
「それも分かる。でも、抱え込んだままじゃ彼女は孤立する。……だから、動くタイミングを見極めなきゃいけないわ」
二人の声が重なり、胸に落ちる。
冷静な判断と、優しい寄り添い。どちらも正しい。
だからこそ、難しい。
「……分かった。俺も、そのために動く」
三人の間に静かな決意が芽生える。
けれど核心には届かず、“揺れる最適解”を胸に抱えたまま――夜は深まっていった。
会話の熱量が落ち着き、再び静寂が戻る。
そんな中、こころがふと表情を曇らせた。
「……河田さん、橘さん、SNS……」
膝の上で指先を組みながら、ぽつりと漏らす。
「こうして並べると……私、何か大事なことを忘れてる気がする」
沙月も俺も言葉を挟まず、ただ見守った。
その“違和感”が、後に何へと繋がっていくのか――まだ、誰にも分からなかった。




