第26話『観測と決意、その先へ』
【4月17日(金)12:25/屋上 越智隆之】
昼休みのざわめきは遠くにかすみ、屋上には俺と神田の気配だけが流れていた。
しばしの静寂を破り、午前の中休みに起きたことを俺が口にする。
「……屋上で聞いた言葉、もう一度詳しく聞かせてもらえるか」
神田はわずかに視線を落とし、短く答える。
「“下書きに上げてある。公開ボタンひとつで広まる。誰かに言ったら、どうなるか分かるな”――そう言っていた」
「……つまり、“弱みを握られてる”ってことか」
口にした瞬間、胸の奥がざらりと揺さぶられる。
神田は短く頷き、低く続けた。
「脅しの対象は――河田のプライベートに関わる何かだ」
「だが、その“何か”までは分からない」
「そうだ」
俺はわずかに肩の力を抜き、口を開いた。
「迂闊に動けば逆効果になる。……まずは慎重に進めるしかないな」
「同意だ。データはまだ不足している。――観測と確認、その二つを終えてからだ」
神田は淡々と応じ、その言葉に俺も続けた。
「……彼女のプライベートに触れることになる。
だからこそ、まずは本人の意思を確かめる」
互いの言葉が揃ったことで、議論はひとまず収束を見せた――。その瞬間、ベンチに並ぶ俺と神田の前に足音が近づいてくる。
振り向くと、犬神が息を弾ませながら屋上に駆け込んできた。
「ごめんね〜っ、先生に呼ばれてて!」
小さく頭を下げると、すぐに表情を曇らせた。
「杉本先生がね、河田さんのこと……自宅に戻ったって教えてくれたの。しばらく学校は休むって」
「……やはり、そうか」
予想の域を出なかった事実が、静かに現実として突きつけられる。
犬神は一歩近づき、真剣な眼差しで俺たちを射抜くように見つめた。
小さく息を吸い込み、ためらいを振り切るように口を開く。
「ねぇ……屋上で、河田さんに何があったのか…教えてくれない?」
その視線に押され、俺も覚悟を決めて口を開いた。
「屋上で河田が――橘芹香に脅迫されていた可能性が高い」
神田が、眉をひそめて言葉を継ぐ。
「……要は、弱みを握られて“公開ボタンひとつでネットに拡散される”ってことだ」
犬神は、はっと息を呑み、瞳を大きく見開いた。
「……橘芹香……」
「……知っているのか?」
俺が問い返すと、犬神は慌てて首を振った。
「ううん、なんでもないっ!」
笑顔は崩さなかったが、その奥にわずかな翳りが見えた気がした。
眉を寄せて、不安げに声を落とす。
「でも……これ、わたしたちだけで抱えるには重すぎるよ。杉本先生に、ちゃんと相談しよっ?」
俺は小さく首を振った。
「……気持ちは分かる。だが今それをすれば、橘が本当に“公開ボタン”を押すリスクは消えない。だから――まずは事実を整理して、慎重に動くべきだ」
神田がすぐ言葉を継いだ。
「そうだ。彼女のプライベートにも関わる。軽率に広めれば逆効果になる。……守るなら、なおさらだ」
犬神は小さくうなずき、堪えていた声をこぼした。
「……河田さん、またひとりで苦しんでる。もう放っておけないよ。だって――大切な友達なんだもん」
その言葉に、胸の奥が熱を帯びる。
短い沈黙ののち、神田は静かに視線を上げた。
「ああ。……だからこそ、軽率に動くんじゃなく、正規ルートで進む」
俺は静かに言葉を結び、理路整然と告げる。
「――観測、確認。それから介入だ。河田を守るために」
その一言を合図にするように、三人の視線が交わり、意志が一つに収束していった。
会話はひと区切りつき、犬神がふと両手を合わせるようにして口を開いた。
「そうだ……杉本先生から、“河田さんのカバンを届けてほしい”って頼まれたの」
俺がうなずくと、犬神は言葉を添えた。
「それから……“部活はまた明日でも大丈夫だから、今日は河田さんを優先してあげて”って」
「……場所なら分かる。放課後、俺が案内する」
そう答えると、犬神の表情に安堵が宿った。
神田はしばし黙考し、やがて淡々と告げる。
「カバンの件は、二人に任せた。オレは別の角度から観測する」
言葉を重ねずとも、声音からは確かな意思が滲んでいた。その静かな決意が、場を確かに引き締める。
それぞれの役割を胸に――俺たちは、河田を救うための一歩を踏み出した。
* * *
【4月17日(金)16:10/日向町・住宅街】
放課後の科学部は、今日は欠席にした。
理由はひとつ――河田のカバンを届けるためだ。
隣を並ぶ犬神は、カバンを抱えたまま小走り気味に歩調を合わせてくる。
曇りにかすむ午後の光が、二人分の影を細く落としていた。
「……河田さん、大丈夫かな」
犬神がぽつりと漏らす。
その横顔を見ながら、俺は言葉を選んだ。
「すぐに答えを出せることじゃない。だから、せめて今は――カバンだけでも届けよう」
犬神は小さく頷き、少しだけ肩の力を抜いた。
やがて視線を落とし、ぽつりと口を開く。
「……ねぇ、越智くん。こういうときって、なんて声かけてあげたらいいんだろ。……河田さんに」
「無理に励ます必要はない。……ただ“待ってる”って伝えられれば十分だ」
俺がそう返すと、犬神はしばらく黙り込み、そっと吐息をもらした。
「……そっか。待ってる、か。……そうだよね」
言葉を飲み込むように口を結び、それからそっと笑みを浮かべた。
「……あの子が少し落ち着いたら、わたし……RINEしてみようかな」
その横顔に、俺は短く「……ああ」とだけ答えた。
言葉は少なくても、その思いを肯定するように。
言葉の余韻に包まれながら、犬神はふと足を止めた。
そして空を見上げる。
「ねぇ……天気、曇ってきてない?」
「……気のせいじゃない。予報、外れたな」
「やっぱり……! わたし傘持ってきてないんだよね」
俺は空を仰ぎ、わずかに息を吐いた。
「予定外だ。俺も持ってない」
「えー、そうなんだ。絶対、越智くんは持ってると思ってたのに」
(……この空模様じゃ、時間の問題だ)
しばらく歩くと、見慣れた住宅街の一角にたどり着く。
白い塀に囲まれた二階建ての家。その玄関前で、俺と犬神は立ち止まる。
数日前の放課後、河田と下校したときにこの前を通った。だから場所は分かっていた。
「……ここだ」
短く告げてインターホンを押すと、ほどなくして扉が開き、河田の母親が姿を現した。
「まあ……わざわざ届けてくれたのね」
穏やかな声と共に、俺たちを迎える視線。そこには安堵と心配が入り混じっていた。
「クラスメイトの越智です。……こちらは犬神」
軽く自己紹介をすると、犬神が胸の前でカバンを差し出す。
「河田さんに伝えてください、“いつでも戻ってきてね”って。……わたしたち、待ってますからっ」
母親は驚いたように目を瞬かせ、それからふっと表情を和らげた。
「……ありがとう。本当にありがとうね。あの子、こうして気にかけてくれる友達がいるなんて……」
受け取ったカバンを抱きしめるようにして、そのまま言葉を重ねる。
「早退してからは、ずっと部屋に閉じこもったままで……。わたしも声をかけようとしては、うまく届かなくて……ただ見守ることしかできないのよ」
犬神は両手を強く握りしめ、まっすぐ言葉を返す。
「きっと、大丈夫です。……わたしたち、待ってますから」
母親の瞳にわずかに涙が光り、唇が震える。
「そう……そうね。あの子に伝えるわ。……きっと心強く思うはずだわ」
そのやりとりのあと、玄関先に温かな沈黙が広がった。
だが、次第に空の気配は変わり始め――細かい雨粒が視界を曇らせた。
「……降ってきたな」
俺が空を仰ぐと、犬神が肩をすくめる。
「ほんとだ……濡れちゃうね」
母親は心配そうにこちらを見つめていたが、俺たちは丁寧に頭を下げる。犬神が一歩下がって笑顔を向けた。
「お母さん、また来ますねっ」
その声に、母親の頬に安堵の笑みがにじんでいた。
白い塀を背に、俺と犬神は雨に追われるように路地へと出る。
「そういえば……えへへ〜っ、代わりにカバン持っててくれてありがとっ、越智くん」
犬神が振り返り、小さく笑みをこぼす。
その無邪気さに、張りつめていた空気が少しほどけた気がした。
そして俺の手からカバンを受け取ると、両手で胸に抱き寄せ、濡れた表面をそっと払った。
その間にも雨粒は増えていき、ポツポツと音を立ててアスファルトを濡らしていく。
傘もなく、俺と犬神は小走りで住宅街を駆け抜けた。
「……ねぇ、あそこ!」
犬神が指差す先に、温かな灯りが漏れる小さな店が見えた。
【Aroma Café ササクラ】――白い外壁に緑の窓枠、雨に濡れてもなお柔らかな雰囲気を放っていた。
「……前に一度入ったことがある。落ち着いた雰囲気で、コーヒーも悪くなかった。笹倉先輩の妹や、看板猫もいたな」
俺が短く口にすると、犬神の瞳がぱっと輝く。
「えっ、笹倉先輩、妹さんいたんだね〜! にゃんこは前に先輩が言ってたトラちゃん? ……会ってみたいなぁ〜。わふっ♪」
その無邪気さに、雨音が一瞬だけ遠のいた気がした。
だが次の瞬間、ざあっと白い幕が路地を覆う。
「本降りだな……」
犬神は足元を気にして小さく身を縮め、それでも笑みを浮かべた。
「わふ〜っ、まるで天然のシャワーだね〜♪」
「風邪ひくぞ」
俺がすぐに返すと、犬神はえへへっと肩をすくめる。
雨粒は勢いを増し、すでに制服は肌に張りついていた。
互いに言葉を交わす余裕もなく、俺たちは笹倉のカフェを横目に、びしょ濡れの路地をさらに駆け抜けた。
やがて、木立の間に鳥居の影がにじむのが見えてくる。
「ねぇ、あそこ――犬神神社! ちょっと雨宿りしてこ?」
犬神が急いで声を上げる。
雨にけぶる木立の奥、鳥居の影が浮かんでいた。
「……そうだな。雨宿りさせてもらうか」
二人で境内に駆け込み、石段を上がって拝殿の軒下に身を寄せる。
湿った風が吹き抜け、軒を打つ雨音が途切れず響いていた。
ただ、その音に心拍はゆるやかに同調し――胸のざわめきが鎮まっていく。




