第25話『屋上に響く歪んだノイズ』
【4月17日(金)10:15/1年A組・越智隆之】
国語の授業。
担任の杉本先生の声は、いつも通り抑揚は少ないのに不思議と耳に残る。
「――文学の中には、“人は変わっていける”というテーマが数多く描かれています。
最初は弱さを抱えていても、出会いや経験を通じて、少しずつ成長していく。そうした変化に気づかせてくれるのも、“言葉”の力なんですよ」
一拍置いて、先生は柔らかく微笑んだ。
「……もっとも、言葉は希望にもなれば、毒にもなる――まるで刃のように。
手にした者次第で、人を勇気づけることも、深く傷つけることもあるのです」
静かな教室に、言葉だけが淡々と積み重なっていく。
(……人は変われる、か)
理屈としては理解できる。だが、数値化できないものに「変化」を求めるのは危うい。
条件が揃えば、人は行動を変えることもあるだろう。
だが「根本」が変わるのかは、まだ俺には実感がない。
心拍数、呼吸数、体温――そうしたログは嘘をつかない。
人の本質を測れるのは、言葉よりも数値のはずだ。
それでも――先生の言葉が、妙に胸に残っていた。
……河田も、そうなのかもしれない。
塞ぎこんでいたはずなのに、最近は小さく笑うようになった。
視界に重なる生体ログでも、心拍の波形は乱高下から安定へと移りつつある。
その揺れは不安定さではない。――むしろ、改善の段階に現れる特有の変動だ。
閉ざされていた状態から、「変化」が始まっているのは明白だった。
犬神は――別格だ。
初期値をぶっ壊して、毎日ログを乱す。
数値に収まりきらない存在。
その笑顔ひとつで、俺自身の心拍まで変えてしまう。
(……気づかぬうちに、俺自身も“変化”の中にいるのかもしれない)
そんな思考の渦の中で――。
――キーンコーン、カーンコーン。
中休みのチャイムが、静かな教室に溶け込むように鳴り響いた。
周囲の空気が一気に緩み、椅子を引く音が重なり、ざわめきが広がる。
その中で、河田が足早に立ち上がった。
「ちょっと屋上、行ってくるね」
「えっ、今から屋上? 時間大丈夫っ?」
「うん。すぐ戻るから」
軽く犬神と会話を交わしたあと、河田はそのまま教室を後にした。
(……屋上? この時間にか?)
思わず目で追ったが、彼女は振り返ることなく扉の向こうへ消えていった。
犬神がこちらに振り向き、笑顔で声を弾ませる。
「ねぇねぇ、今日のお昼さ、屋上で4人一緒に食べよっか〜っ!」
「……ああ。河田も喜ぶかもな」
犬神の無邪気な言葉が河田の願いを代わりに示している気がして、気づけば自然と返事がこぼれていた。
* * *
――キーンコーン、カーンコーン。
中休み終了の予鈴が教室に響いた。
机に戻る生徒たちのざわめきが広がる中――河田の席だけが空いたままだった。
犬神が心配そうに椅子を揺らしながらつぶやく。
「……まだ戻ってないよね……」
(……おかしい。中休みは10分しかない。そろそろ戻るはずだろう)
戻らない河田の席を見やり、神田が立ち上がってこちらへ近づく。眉をひそめ低くつぶやいた。
「……何かあったんじゃないのか」
その低い声が胸をかすめ、ざらりと嫌な感触が広がった。
さっき河田が「ちょっと屋上、行ってくるね」と犬神に告げて出ていった姿を思い出す。だが、予鈴が鳴っても戻らないのは異常だ。
河田は、いつだって真面目なやつだ。チャイムが鳴れば必ず席に戻る――はずなのに。
単なる寄り道ならいい。けれど――あいつの過去を知っているからこそ、“トラブルに巻き込まれた可能性”が頭をよぎる。
視線を交わすと、神田も無言でうなずいた。
「先生にはトイレって伝えておいてくれ」
犬神にそう告げ、神田と共に立ち上がる。
「……気をつけてね。しっぽがピンって立っちゃうくらい、嫌な予感がするの」
犬神の声が、小さく背中を押した気がした。
胸のざわめきが波紋のように広がっていく。
椅子のきしむ音に、前列の何人かが振り返った。
だが問いかけてくる者はいない。
犬神が小さく手を振ると、周囲の視線はすぐ逸れた。
ドアを開けると、廊下はしんと静まり返っていた。
窓から射し込む午前の光が、床にまっすぐ伸びている。
「……屋上か」
神田が短く言う。俺は黙ってうなずき、歩調を合わせた。
胸のざわめきは消えない。足音が響くたび、嫌な予感が少しずつ輪郭を帯びていく。
廊下を抜け、階段を駆け上がる。窓から射し込む光は眩しいはずなのに、胸のざわめきのせいでどこか色を失って見えた。
「……戻ってこない理由。トイレや購買じゃないな」
神田が低く言う。
「だな。忘れ物でも、予鈴までには戻る」
「結論は二つ。――自分の意思で戻らないか、戻れないか」
「……後者なら最悪だ」
神田は表情を変えず、ただ言い切った。
「だから確かめる。それだけだ」
その無機質な声音に、余計な感情は削ぎ落とされる。
息を整えながら階段を駆け上がると――神田がふいに足を止めた。
「……待て。屋上で何か聞こえる」
「何が――」
眉をひそめ、低くつぶやく。
「……“公開ボタンひとつで、すぐに広まる”」
その断片だけで、何が起きているのか理解できた。
背筋に冷たいものが走る。
「相手は――橘芹香。中学で河田を追い詰めていた女だ」
「……脅迫されてるぞ、河田」
神田の声が鋭く響いた。
言葉はそれ以上いらなかった。
俺たちは無言のまま、屋上へ続く階段を駆け上がる。
その瞬間、犬神の声が頭をよぎった。
「……気をつけてね。嫌な予感がするの」
――犬神には時折、夢を通して人の心を覗き込むような力がある。河田の過去を“見た”と口にしたあの時の揺らいだ表情が今も焼きついていた。
にわかに信じがたいが――犬神の力は、次第に信憑性を帯びてきている。
視線を上げた先、鉄扉はすべて開け放たれていた。
屋上の光に切り取られたその隙間から、一つの影が駆け下りてくる。
一瞬遅れて――その顔が視界に飛び込む。
「……河田っ!」
呼びかけても振り向かず、足早に階段を駆け下りていく。頬には涙が伝い、その背中はあっという間に遠ざかっていった。
視界の端に、生体ログが一瞬だけ走る。
【生体ログ:河田 亜沙美】
▶ 脈拍:平常比 +28
▶ 呼吸数:乱れ/安定なし
[反応解析:強い動揺]
追いかけたい――そう思った。けれど足は止まる。
あいつが、河田亜沙美になにをしたのか。
屋上には、まだ“確かめる気配”がある。
互いに視線を交わし、俺と神田は一気に屋上の入り口へ駆け寄った。
開け放たれた扉を踏み込むと、光と風がざらりと頬をかすめ、胸の底を荒くかき乱す。
そこに立つ橘芹香は、風に揺れる髪を片手で払いながら、腕を組んでこちらを見据えていた。
その口元には、挑発的な冷笑が浮かんでいる。
「ふふ……わざわざ来るなんて、ご苦労さま」
声は薄氷を踏むように冷たく響いた。
「……何のつもりだ、橘」
神田の声が低く響く。
橘は首をかしげ、わざとらしく笑った。
「ふふっ。ちょっと軽く声をかけただけよ? そしたら勝手に泣きそうになって逃げ出したの」
(勝手に……? そんなわけがあるか)
「――ふざけるな」
胸の奥でざらついた苛立ちが広がる。
「言葉一つで脅して泣かせたんだろ。それを“軽い”と分類する時点で、お前の論理は破綻している」
橘はスマホを指先で弄ぶように持ち、こちらへ見せつけた。
不敵な笑みと無造作な仕草が、挑発の色を一層濃くする。
「脅し? そう思うのなら――本人に聞いてみれば? まぁ……証拠があるのなら、見せてくれるかしら?」
余裕を崩さぬまま、橘の笑みはさらに深く刻まれた。
――その冷笑を叩き割るように、神田の声が鋭く響く。
「……河田を脅した言葉、全部この耳に残ってる」
俺も視線を逸らさず、一歩踏み込む。
「証拠はこれから揃える。だが――お前の反応は、すでに数値化できている」
視界の隅に、無機質なログが走った。
【生体ログ:橘 芹香】
▶ 脈拍:69 bpm → 84 bpm(+15)
▶ 声帯振動数:平常比 +2.4Hz
▶ 瞳孔径:拡大傾向(+0.3mm)
▶ 皮膚電位反応:上昇(発汗量+)
[解析:動揺の兆候]
数字は冷徹に、虚勢の裏を突きつけてくる。橘は一瞬、目を細めた。だがすぐに、かすかに口角を吊り上げる。
「……へぇ」
肩をすくめ、スマホを弄びながら冷たく笑う。
「数字や耳で追い詰めたつもり?――でも、あの子の弱さを一番よく知ってるのは、あたしだから」
そこでふっと口元が歪み、瞳だけが鋭さを帯びる。
わずかな沈黙のあと、冷ややかに続けた。
「心配しなくても大丈夫。……これからも、逃がさず“見守ってあげる”から……ね。ふふっ」
挑発の笑みを浮かべたまま、硬い靴音が階段へと遠ざかっていく。
風が通り抜ける屋上に、計測では掴めない“歪んだノイズ”が胸に澱んでいった――。
不快感は残る。だが、呑まれるわけにはいかない。
呼吸を整え、胸の奥に芽生えた熱を一つの誓いへと収束させた。
(……河田。必ず俺が――お前を救う“最適解”を掴んでみせる)




