第24話『断絶の狭間の前で』
【4月17日(金)10:15/1年A組・河田亜沙美】
国語の授業中。
担任の杉本晴香先生の声は、いつも通り穏やかに響いていた。
「――文学の中には、“人は変わっていける”というテーマが数多く描かれています。
最初は弱さを抱えていても、出会いや経験を通じて、少しずつ成長していく。そうした変化に気づかせてくれるのも、“言葉”の力なんですよ」
「……もっとも、言葉は希望にもなれば、毒にもなる――まるで刃のように。
手にした者次第で、人を勇気づけることも、深く傷つけることもあるのです」
その静けさの中で、先生の言葉が胸の奥にじんわりと沈んでいく。
(……変われる、かぁ)
黒板の文字よりも、その言葉が胸の奥に残った。
犬神さんみたいに明るくて。笹倉先輩みたいにオシャレで。九条先輩みたいにお淑やかで。
神堂先輩みたいな冷静さや、朝比奈先輩の心の揺るがなさだって――。
(……わたしなんて、何も持ってないのに)
――その瞬間。
記憶の扉が軋むように開き、あの日の光が差し込んでくる。
中庭で九条先輩と高橋先輩と一緒にお弁当を食べた、あの日のこと。
柔らかな風の中で、高橋先輩がまっすぐこちらを見つめ、穏やかに微笑んで言った。
『“新しい扉”って、意外と静かに開いているものですのよ』
(……新しい扉。 わたしだって、開けたい。
いまの自分を変えられるなら――)
その言葉に引き寄せられるように、幼い日の記憶がかすかに揺らぐ。
――だれかを助けられる人になりたい。
小さい頃、そんなことを口にしていた……気がする。
でも現実のわたしは、誰かに助けてもらってばかりだ。
(……それでも。変わりたい。あの日の自分に、追いつきたい)
胸の奥が、ぎゅっと掴まれる。
座っているだけじゃ、もう息が詰まりそうだった。
だからこそ――たとえ小さくても、前へ進んでみたい。
視線がさまようように、窓の外へ向いた。
ふと浮かんだのは“屋上”。
犬神さんが「眺めがいいんだよ〜っ」と笑っていた場所。
越智くんと神田くんが、お昼を食べているって噂の場所。
ただの場所じゃない。
わたしにとっては、これまでの自分から少しだけ抜け出せる“最初の一歩”かもしれない。
(……行ってみよう。屋上へ)
* * *
午前の中休みのチャイムが鳴った。
ざわめきが一気に広がる中、席を立って犬神さんの机へ足を向ける。
「……犬神さん。ちょっと屋上、行ってくるね」
「えっ、今から屋上? 時間大丈夫っ?」
「うん。すぐ戻るから」
犬神さんは首をかしげたあと、『わかった〜っ』って微笑んでくれた。
その無邪気な笑顔に背中を押されるようにして――わたしは教室を出た。
廊下を抜け、階段を駆け上がる。
屋上の扉を開けると、光と風が一気に流れ込んできた。
思わず息を呑む。
(……きれい。こんな場所、知らなかった)
空が、思ったよりずっと近い。
教室の窓越しでは決して味わえなかった開放感が、胸の奥をすっと満たしていく。
風が髪をやさしく揺らし、遠くの町の騒めきさえ、かすかに運んでくるようだった。
ここで、越智くんと神田くんは昼食をとっているんだ……。
犬神さんが「眺めがいいんだよ〜っ」と笑った理由も、今ならわかる。
(……いつか、わたしもみんなと一緒に……ここで……)
胸の鼓動は高鳴ったまま。
まるで大きな扉を押し開けたような感覚に、足が自然とフェンスの方へ向かう。
そのとき――
背後に、人の気配が走った。
振り返ると、入口に寄りかかる女子の姿。
風が鋭く切り裂くように通り抜ける。
「……ふふっ、懐かしいわねぇ。こうして屋上で向かい合うのって」
茶色の巻き髪を揺らし、スカートを短く整えた制服姿。
華やかな笑みの奥には、冷たい影が潜み――針のように胸を刺す気配を孕んでいた。
――橘芹香。
中学の頃、私を虐めていたグループの中心人物。
「ほら、中学の頃も“遊んだ”じゃない。
同じ屋上で、あたしを笑わせてくれたでしょ?」
懐かしげに笑う声。
でも、その響きは――胸の奥を冷ややかに切り裂いた。
「……一緒に、遊んだ……?」
思わず声がこぼれる。体の芯がざわつく。
――そんなはず、ない。
たしかに最初は笑い合っていた。
でも、いつの間にか言葉が針に変わって、わたしは笑い者にされる側になった。
(……あのときと、同じだ)
今も――。
「犬神さんと仲良さそうだったね?」
「地味キャラのわりには、調子いいじゃん」
柔らかい声色で、まるで世間話のように。
けれどその実、鋭い棘を含んだ言葉が容赦なく突き刺さってくる。
耳の奥に、トイレで浴びた冷たい声。
通学路で背中越しに浴びせられた、あの嘲笑。
胸の奥がずきんと痛む。
“弱い自分”が、また顔を出しそうになる。
――けれど。
(……違う。わたしは、もうあの頃のままじゃない)
犬神さんに支えられて。科学部のみんなに助けられて。
そして――生徒会の高橋先輩に導かれて。
少しずつでも、前に進めているはずだ。
胸の奥に、熱が灯る。
ここで黙っていたら、また“あの頃のまま”に戻ってしまう。
「……遊んだ? あれは“遊び”なんかじゃなかった。
わたしを笑い者にしてた…ただ、それだけでしょ!」
声に出した瞬間、胸のざわつきが形を持った。
「へぇ〜……言うようになったじゃん」
橘芹香の口元に、挑発めいた笑みが広がる。
わたしは一歩も退かず、まっすぐにその瞳を見返した。
「……いつも二人だったのに。今日は“村上愛梨沙さん”はいないんだね?」
「ふん。あの子は弱いから。こういうときは足手まといになるの」
笑っているのに、瞳の奥に一瞬だけ影が差す。
「……結局、誰も信じられないだけじゃないっ!」
自分でも驚くほど、声ははっきりしていた。
その響きには、一瞬だけ強さと冷静さが混じっていた。
――キーンコーン、カーンコーン。
予鈴のチャイムが校舎に響き渡る。
張りつめた空気をさらに締めつけるように、風が一瞬止んだ。
橘芹香の視線が鋭くなる。
「強がりもここまで来ると面白いね。……じゃあ、これ見たらどうなるかなぁ?」
(……っ!?)
一瞬、呼吸が止まった。
手に握られたスマホの画面。
そこに映っていたのは――水曜日の放課後、夕暮れの道を並んで歩くわたしと越智くんの姿。
(……あの日の帰り道。忘れられるはず、ない)
息が詰まり、視界が揺れた。
ただ並んで歩いただけなのに。
その一枚が、すべてを暴く証拠のように冷たく突きつけられる。
「“あの地味キャラが調子に乗ってる”ってSNSに晒したらさ……どうなると思う?」
指先が冷たくなり、制服の裾を握りしめた。
喉はからからに乾いて、声が出ない。
もし広まったら、笑われるのはわたしだけじゃない。
――関係のない越智くんまで、巻き込んでしまう。
「……っ……!」
必死に言葉を絞り出す。
視線は床に落ち、思わず顔を伏せていた。
「……わたしのことは、どう言われてもいい。
でも――越智くんにだけは、絶対に迷惑かけないで…」
顔を上げると――橘芹香の笑みがさらに深まった。
「へぇ……そうやって庇うんだ。ますます“いいネタ”になるじゃん」
声は甘いのに、冷たさを帯びて背筋を撫でていく。
ひらひら揺れるスマホとともに、間合いが縮まる。
(……こわい。近づいてくるたびに、息が詰まる……!)
足はすくんで、一歩も動けない…。
扉の前にいる彼女の笑みが、逃げ道を塞ぐように迫ってきて――胸の奥がぎゅっと縮む。
「……ほんと、あんたが羨ましいよ」
軽やかに零れたその言葉は、冗談みたいで。
けれどその瞳の奥には、笑っていない影が潜んでいた。
「これね、もう下書きに上げてあるんだ。公開ボタンひとつで、すぐに広まる。誰かに言ったりでもしたら――どうなるか、分かるよね」
スマホを指先で軽く揺らし、にやりと笑う。
(……そんな……っ!)
頭の奥が真っ白になった。
心臓の鼓動だけが、耳の奥でいやに大きく響いている。
体の芯が、すうっと冷えていく。
「ねぇ河田さん。あんた、変わったつもりでいるでしょ? でもさ――結局、中学の頃と同じ。誰かに庇われなきゃ、何もできない。すぐに笑い者になるの」
耳にまとわりつくような声が、過去の記憶をむりやり引きずり出す。
「結局“変わらない方がいい”のよ。あんたみたいなのは」
「……やめて……違うのに……」
制服の裾を握る指先から力が抜けた。
喉はからまり、息が浅くなる。
視界はにじみ、足は震えて一歩も動かなかった。
――逃げたいのに、体が言うことをきかない。
「……っ!」
震えを押し殺すように、動かない足を無理やり振りほどく。
屋上の扉を抜け、階段へ飛び出そうとした――その瞬間。
容赦ない力が、腕をがしりと掴んだ。
「……またそうやって、逃げるんだ?」
その言葉に全身の血の気が引いた。
無我夢中で振り解き、階段を駆け下りる。
靴音が、心臓の音と重なって響く。
ただ下へ、ただ出口へ――。
(……嫌だ……また、あの頃に逆戻りだ……)
そのとき、前方から上がってくる影。
越智くんと神田くんが階段の途中に現れた。
顔を上げる勇気なんてなくて、視線は床に縫いつけられたまま。
ほんの一瞬のすれ違い――
「……河田っ!」
越智くんの鋭い声が耳を打つ。
胸の奥が、ぎゅっと掴まれる。
その声に応えることが、今の私には――怖くてできなかった。
――振り返れない。
足は止まらず、階段を駆け下り続ける。
視界がにじみ、制服の袖で拭っても、涙は止まらなかった。
(どうして……わたしは、いつもこうなんだろう)
校舎の出口を抜けた瞬間、春の光が一気に視界を白く染めた。
けれど、その温かさは胸の奥には届かない。
ただ、足音だけが校門へ向かって響いて――
心は、静かな闇へと沈んでいった。




