第23話「交わる観測、重なる想い」
【4月16日(木)放課後・科学部部室 河田亜沙美】
ガラリ――。
笹倉先輩が軽やかに扉を引き開けた。
ひんやりした理科室めいた空気が流れ込み、薬品棚や金属器具の匂いが混ざり合って、独特の科学部らしい雰囲気を運んでくる。
その背中を追って、わたしたち三人も部室へ足を踏み入れた。
「……し、失礼します」
思わず声が小さくなる。
部屋に入ると、左手の壁際に九条先輩が腰かけていて、ティーポットから紅茶を注いでいた。
白い湯気とともに漂う落ち着いた香りが、部屋の空気をやわらげている。
「……いらっしゃい」
穏やかな声とともに、九条先輩が目を上げて微笑む。
その笑顔に迎えられると、不思議と自然に肩の力が抜けた。
(……前よりも、ずっと落ち着いていられる)
心の中でそう思えるくらいには、この空気に馴染んできた気がする。
隣にいた笹倉先輩が、ぱっと表情を明るくして軽やかに奥の実験スペースへ駆けていった。
北西のスペースには、腕を組んで実験器具を整えている神堂先輩の姿。
ラベルの貼られた小瓶や香水棚が並び、まるで秘密の研究所みたいだった。
「は〜い! 河田ちゃん、せっかくだからこっち来て〜っ♪」
笹倉先輩が手招きしながら、試験管を指先でくるりとひと回し。
その軽やかな仕草は、まるで舞台の上でスポットライトを浴びた一瞬のパフォーマンスのように映った。
その瞬間――初めて科学部を訪れたときに、歓迎で披露してくれたステージを思い出す。
白衣をひらりと翻し、アイドルみたいに香りの実験を演出していた笹倉先輩。
今の何気ない仕草までも、あのときと同じようにステージの一幕みたいに眩しく見えた。
その仕草に引き寄せられるように――気づけばわたしは、小走りで笹倉先輩のもとへ駆け寄っていた。
「今日のテーマは“香り”。しかも特別ブレンドだよ〜っ!」
差し出された試験管の中で、透明な液体がゆらゆら揺れる。
笹倉先輩は隣の椅子を、とんとんと優しく指先で示して、にっこり微笑んだ。
「河田ちゃん、ここに座ってみて〜。リラックスしてた方が、香りもきっとよく分かるよ♪」
「えっ……じゃ、じゃあ……お言葉に甘えて……」
少し照れながらも声を返し、わたしはそっと腰を下ろした。
緊張でこわばっていた肩が、すっと楽になる。
その様子を見ていた神堂先輩が、冷静に言葉を添えた。
「……嗅覚は、記憶を司る脳に直結している。
特定の匂いが、感情や記憶を呼び起こす現象を“プルースト効果”と呼ぶの」
(今から……何が始まるんだろう?)
笹倉先輩が、にこにこと試験管を差し出した。
「河田ちゃん、これ嗅いでみて〜。カモミールとオレンジのブレンド♪」
胸が高鳴るのを抑えきれず、おそるおそる試験管を受け取った。
神堂先輩が、静かに言葉を添える。
「……そっと目を閉じてみて。
香りが、昔の記憶を呼び覚ますこともあるわ」
わたしは小さく頷き、試験管を胸元で両手に包み込む。
「……はいっ」
おそるおそる顔を近づけ、そっと息を吸い込んで目を閉じた瞬間――
(あれっ……この匂い――)
胸の奥がざわめき、ひと呼吸のあいだに世界がふっと揺らいだ。
……砂の色。小さなスコップ。
夕方の光に染まる公園。
――どこかで、前にも見た気がする。
でも、その続きを思い出そうとした瞬間、霞がかかったように遠ざかっていく。
声も、笑顔も、指先に触れた温もりさえも、つかめない。
忘れていたはずの何かに――ほんの一瞬だけ触れた気がして、胸の奥が熱くなった。
「……不思議。なんか……懐かしい気がしました」
胸の奥には、まだかすかなざわめきが残っていた。
(……あの夢の公園と……同じ……?)
けれど、その先はどうしても思い出せない。
その静かな余韻を見計らうように、神堂先輩がじっとこちらを見て、わずかに微笑む。
「嗅覚は、脳の深部に直接つながっている。言葉よりも早く、記憶を呼び覚ますの。――ときに、閉じ込めていた感情までも」
「でしょ〜っ! だからボクの研究テーマ、『香りで恋は始まるのか?』ってね、わりと大マジなんだよ〜っ♪」
笹倉先輩は、ひょいっと試験管を掲げながら、身を前に傾けて楽しそうに笑った。
ポニーテールを揺らして楽しそうに話す姿に、わたしは思わず見とれて口が自然に動いて――
「わぁ……笹倉先輩の研究テーマ、本当に素敵だなぁ。まるでアイドルみたいに――夢を追いかけてるみたいで……すっごく憧れちゃいます!」
言葉がこぼれた瞬間、胸の奥がどきどきして頬まで熱くなる。
自分でも照れくさくて、視線を落とさずにはいられなかった。
「えへへ〜っ、ありがと♪ じゃあボク、もっと全力でキラキラしなくちゃだねっ☆」
笹倉先輩はウィンク混じりにピースしてみせると、そのまま勢いよく身を乗り出した。
軽やかな仕草のまま、ぐいっと距離を詰めてきて――。
「ねっねっ、今度は一緒に“調合”やってみよ〜っ!
ボクと沙月先輩の研究、体験してみたら絶対楽しいよっ♪」
(わ、わっ……ち、近いっ!)
距離を縮める勢いに、胸の奥がふわりとくすぐったくなる。
「わ、わたしが……? わぁ……ほんとにうれしいですっ! でも……やっぱりちょっと緊張しちゃうなぁ……っ」
頬まで熱くなって、声がはずんでしまった。
――ちょうどそのとき。
部室の中央に置かれた四人掛けの机。
その向かい合う席で、越智くんと神田くんが実験ノートや器材を前に、淡々と確認していた。
越智くんは、机の横に置いてあった木材の支柱を手元に寄せ、定規で寸法をざっと確かめている。
「……河田、声が弾んでる。すごく嬉しそうだ」
神田くんが観測じゃなく、素直な感想みたいに口にした。
「だな。表情に笑みがにじんでる」
越智くんが続けて頷く。口調はいつも通り淡々なのに、その視線は温かかった。
思わず胸の奥が熱くなる。
二人にそう言われただけで、気づけば心まで軽くなっていく気がした。
わたしは試験管をそっと元の場所に戻すと――九条先輩の声がやわらかく届く。
「河田さん。よければ、あとで一息入れてね」
ティーポットを置く小さな音とともに――
その声だけで、空気がやさしく和らいでいく。
「あ……はいっ」
思わず返事をして、自然と越智くんへと視線を向けた。
彼は支柱と定規を手に、ふと顔を上げると――
その瞳がほんの一瞬やわらいで、真っすぐこちらを見つめる。
「……河田。“体験中”なんだろ。やってみるか?」
「えっ……! わ、わたしが……?」
すぐ隣にいた笹倉先輩が、にこやかに笑って肩をぽんとたたいた。
「えへへ〜、楽しそ〜♪ 行ってきなよ、河田ちゃんっ」
背中を押されるように、胸をどきどきさせながら中央机へ歩み寄り、越智くんの隣に腰を落ち着ける。
すると、彼はためらいもなく小さな木片を差し出してきて―― 思わず息をのんだ。
「横支えを組むだけだ。手順は図面にあるし、力もいらない」
見つめ返したその瞬間、胸の奥がふっと熱を帯び、鼓動が速まる。
そんな気持ちを越智くんに気づかれないように、小さく息を吸い込み深呼吸して――心を落ち着けさせた。
(……これ、もしかして――)
わたしは、ゆっくりと頷いて手を伸ばす。
「……やってみる」
小さな木片を組む指先。
彼のすぐ隣、図面を広げたデスクの一角。
二人で並んで作業するなんて――とっても不思議な感じだった。
「……あっ、ここ、浮いてる……」
「押さえる。接着剤、頼む」
「は、はいっ!」
言葉を交わさなくても、手の動きがぴたりと噛み合っていく。
その息の合い方がくすぐったくて、けれど妙に心地よかった。
そんな静まった気持ちの中で、昨日の“科学部の連携”の話が自然と頭をよぎる。
「……ふふっ。これって昨日、話してた“科学部の連携”だよねっ」
「……まぁ、そうなるな」
手元の図面を追いながら、でも声だけがいつもより少しやさしく耳に届いた。
その響きに――ふと、昨日の夕暮れの帰り道を思い出す。
(……だめっ、落ち着いたはずなのに……また顔が……!)
頬にふわっと熱が広がる。
慌てて視線を手元に落とすけど、鼓動の速さは隠せなかった。
自分の指先が、勝手にかすかに震えてしまって、越智くんに気づかれてしまいそうで――胸の奥が余計にざわつく。
ごまかすみたいに、思わず口を開いた。
「ね、ねえ……これって、どういう実験なの?」
わたしが小さな声で問いかけると、越智くんは少しだけ手を止めて、図面の端を指先でトントンと叩いた。
「構造強度の検証。三角支持とL字型の接合部で、どれだけ耐荷重が変わるか。
地震とか、風圧とか――建物が受ける力を考えて、最適な支え方を探してる」
「……そっか。
建物の中身って、そうやって守られてるんだ……」
「当たり前に見えて、計算と設計で成り立ってる。
見えない部分が、一番重要だ」
それは、越智くんの声としては珍しいほど――言葉に熱があった。
彼が何を大事にして、どんなものを見ているのか。
ほんの少しだけ、覗けた気がして。
すごいな――まっすぐで、迷いがない。
「……結局、土台がなきゃ崩れる。建物も、人も」
越智くんの対面に座っていた神田くんが、ぼそりと呟くように言い、視線をノートに落とした。
その声音は無機質なのに、妙に重みがあった。
なんだか、哲学みたいな言葉。理屈っぽいはずなのに、不思議と胸の奥にすっと染み込んでくる。
「人も……。うん、たしかに。だから“信じるもの”があると心強いのかな」
わたしは小さく頷きながら、そう口にしていた。
神田くんは短くうなずき、越智くんはわずかに目を細める。二人の反応が重なって、胸の奥にあたたかな余韻が広がっていく。
いつの間にか越智くんは作業に戻っていて、わたしも自然と木片に手を伸ばしていた。
「……ふむ」
――静けさを破るように、低い声が耳へ届く。
顔を上げると、実験机の向こう側に立つ神堂先輩が、腕を組んだままこちらをじっと観察していた。
「河田さん」
「は、はいっ……!」
背筋が思わず伸びる。
神堂先輩の眼差しは冷静で――けれど、ほんの少しだけ興味を帯びているように見えた。
「感情の動きが、作業に影響しているわね。……さっきまでより、手元が素直になっている」
「え……」
「“安心”と“信頼”。その二つがあるだけで、作業はぐっと正確になる。
つまり、人の心は科学的に見ても、無駄じゃないのよ」
わずかに唇を弧にした神堂先輩の横顔は、いつもより柔らかく見えた。
隣で笹倉先輩がにこっと笑い、試験管をひょいと掲げる。
「でしょ〜っ♪ だからボク、香りも恋もぜんぶ科学しちゃうんだよ〜!」
神堂先輩は視線だけを横に流し、さらりと付け加える。
「……恋は非合理。だが、観測対象としては――実に面白い」
(……観測対象って……わたしのこと……?)
胸の奥が、じんわりと熱を帯びていく。
神堂先輩は、私たちのやり取りを黙って見守っていた。
腕を組んだ姿勢は揺るがず、ただそこに立つだけで場の空気が整っていく。
それは背筋が伸びるような緊張感と、なぜか安心できる静けさを同時に運んでいた。
視線の奥がわずかに揺れて、低い声がぽつりと落ちる。
「……越智くん。あなたも、少しずつ変わってきたのね。
誰かと歩調を合わせることを――受け入れてきてる」
その言葉に越智くんは、ほんの一瞬だけ手を止めて――
「……否定はしない。そう見えるなら、そうなんだろう」
静かにそう返した。
神堂先輩は、揺るぎない眼差しを向けたまま言葉を重ねる。
「……けれど、本質的な核は、昔から一切変わっていない」
静かに息を吐き、ようやく視線を外す。
越智くんは軽く肩をすくめ、何も答えずに机の道具に手を伸ばした。
声音は淡々としているのに、不思議と揺るがない。
神堂先輩の横顔には、わずかに安堵の色が浮かんでいた。
……そのやり取りを見ていたら、胸の奥に小さなざわめきが広がっていく。
(……神堂先輩と越智くんって、どういう関係なんだろ)
そう感じたけれど、聞く勇気はなくて。
わたしはそっと視線を伏せ、胸の奥に芽生えた疑問を抱え込んだまま、作業机を見つめていた。
部室には静かな余韻が広がり、ほんの一瞬、時が止まったように感じられる。
その静けさをやさしく解くように、九条先輩がティーポットを置き、ふわりと目を上げた。
「河田さん、よかったらこちらへどうぞ」
やさしい声に包まれて、思わず声が詰まってしまう。
「えっ……あ、はいっ」
自然と立ち上がり、声に導かれるようにソファへと歩いていく。
九条先輩の隣に腰を下ろすと、ふわりと紅茶の香りが広がり、胸の奥まであたたかく染み込んでいった。
カップを用意する手を止め、九条先輩がこちらに目を向ける。
「河田さん、ここの空気には……少し慣れてきたかしら?」
わたしは、少し戸惑いながらも頷く。
「えっと……はい。 最初よりは、落ち着いてきた気がします」
ティーポットから、お湯が細く、静かに流れ落ちる音。
その湯気の向こうで、九条先輩がカップに紅茶を注いでいた。
「……今日は、ローズマリーとカモミール。ちょっとだけ、集中力を助けるブレンドにしてみたの」
わたしの前にもティーカップが置かれ、胸の奥がじんわりあたたかくなる。
すぐ隣から伝わる九条先輩の落ち着いた気配に包まれながら、ふわりと広がる香りにそっと息を吸い込んだ。
「……なんだか、落ち着きますっ」
言ったそばから胸がほんのり温かくなって、自然と笑みがこぼれそうになる。
ちょうどそのとき――横から低い声が落ちてきた。
「……九条先輩、紅茶いただけますか」
その低く落ち着いた声に、わたしは思わず顔を向ける。
そこには、神田くんが静かな面持ちでこちらに立っていた。
九条先輩はふっと微笑んで、正面の空いた席に手を添える。
「こちらでよければ、どうぞ」
その席の前にカップを置き、静かに紅茶を注いだ。
湯気とともに、やわらかな香りが広がっていく――
神田くんは静かに腰を下ろし、そのカップを手に取った。
わずかに指先が丁寧に扱っているのが伝わってくる。
「……いただきます」
小さくそう告げると、背もたれにわずかに寄りかかる仕草が、彼らしくて静かだった。
湯気とともに広がる紅茶の香りが、わたしと二人のあいだをそっと満たしていく。
その静けさの中で、神田くんがふいに口を開いた。
「……香り、変えましたね」
「ふふ。気づいたのね。 神田くんが昨日、“ペパーミントは強すぎたかも”って呟いてたから」
「……そういうの、見逃さないんですね」
「ええ、もちろん」
九条先輩の声は優しくて、どこかくすぐったい。
神田くんは、少しだけまぶしそうに視線を伏せていた。
「……こういうの、慣れてないんで」
「無理しなくていいのよ。ただ、“紅茶が好きな後輩がひとりいる”――それだけで私、ちょっと嬉しかっただけ」
「……わ、わたしも。この香り、すごく好きですっ」
思わず口を挟むと、九条先輩がやわらかく目を向けてきた。
「ふふ、ありがとう。河田さんの一言で、選んだかいがあったと思えるわ」
あたたかな余韻が胸に広がる中、神田くんはただ静かに紅茶を口へ運ぶ。
静かな仕草に、彼らしい変わらなさを感じる。
九条先輩は湯気の立つカップを自分の前に置き、ふっと視線を神田くんに移した。
「ずっと見ていて思ったのだけど……神田くんは、やっぱり“声”を見ているのね?」
「ええ。声は隠せません。……間の取り方や調子の揺れに、感情の痕跡が出ますから」
いつもと同じ淡々とした返し――けれど、その声音はほんのわずかにやわらいでいた。
「そう。言葉よりも先に、心の揺れがにじみ出てしまう……。あなたは、それを見逃さない」
九条先輩が微笑むと、神田くんのまなざしが、かすかに揺れる。視線の先にあるのは、ほかならぬ先輩。
ふたりにだけ通じる温度に、胸がそっとざわめいた。
(……やっぱり、この二人には、私の知らない“特別な距離”がある)
少し大人びていて、ちょっと憧れてしまうような――そんな距離感。
誰もが自由で、少しずつ独特。
でもその空気が重なり合うこの部室は、なぜかとても心地よかった。
その空気の中にいられる今が、胸の奥をそっと温めてくれる。
紅茶の香りがふわりと部室を満たし、静かな午後の時間が、やさしく幕を下ろしていった。




