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第22話『胸の奥、ふわりと揺れて』

【4月16日(木)10:40 河田かわだ亜沙美あさみ


窓から差し込む春の光が、ノートの上でゆらゆら揺れていた。

先生の声も、チョークの音も、ちゃんと聞こえてる。

なのに――心の中では、昨日の“あの瞬間”がずっとリピートされていた。


ノートの文字が霞んで、胸の奥を占めていたのは、昨日の放課後の坂道のこと。


バランスを崩しかけたわたしを、すっと支えてくれた、あの手。

「……気をつけろ」

短くて静かなその声だけで、どうしてこんなに心があたたかくなるんだろう。


(……こんな気持ち、わたしらしくないのに……)


ふと目を上げると、風に揺れるカーテンの白がきらめいて、胸の奥までそっと揺さぶられるようだった。


(……だめ、考えすぎ)


ペンを握り直す。

でも意識は、ずっと背中側の気配へ引っぱられていた。


(今、どんな顔でノート取ってるのかな……)


振り返れない。

肩越しに視線が背中へ向きかけて――あわてて止めた、そのとき。


コロン。


「あっ……!」


消しゴムが指先から逃げ、机の下を転がって後ろの席へ。


慌てて立ち上がりかけたそのとき、背中から静かな手。


「……落としたぞ」


振り向くと、昨日と同じ落ち着いた瞳がすぐそこにあった。

整った指先が、消しゴムをそっと差し出す。


「あ、あの……ありがと……」


指先が、かすかに触れそうになった瞬間――胸の奥が小さく跳ねた。


思わず目を逸らす。


(……また思い出しちゃう)


その微かな距離感だけで、昨日の温もりがよみがえって――胸の奥に今も残っていた。


* * *


チャイムが鳴る。

お昼の合図に、教室の空気がほどけた。

椅子を引く音や、かばんを取り出す気配、友達どうしの声が一斉に飛び交って、昼休みのざわめきが広がっていく。


それなのに、胸の奥はまださっきの出来事を引きずって、そわそわしていた。


(……言えるかな)


後ろで、椅子の引かれる音。


「……屋上、行ってくる」


かばんを持ち上げる手が見えた瞬間――


「あっ、あのっ……!」


思わず立ち上がると、彼の動きが止まった。


「……ん?」


「えっと……その、放課後、科学部に行くんだったら……わ、わたしも……見学、してみたいなって……」


声がしぼむ。でも、言い切った。


次の瞬間――


「……好きにすればいい」


淡々と返して、彼は前を向く。


「わあ〜っ、河田さんっ、科学部〜っ?」

隣の犬神さんの元気な声。


「わたしは放課後テニス部だからダメだけど……河田さん、科学部入るの?」


「う、ううん……まだ、決めてないけど」


越智くんは何も言わず教室を出ていった。

前を通り過ぎる背中を――わたしは目で追っていた。


その横で、犬神さんが小さく笑う。


「ねえ、河田さん。なんか……ちょっと雰囲気、変わってきたかも〜っ」


「そっ、そうかな?」


「もちろん良い意味で! えへへ〜っ、なんか素直でいい感じ〜っ!」


「……うぅ〜……そう言われると恥ずかしい……」


思わずうつむいて、机の端を指先でなぞる。


(……でも、ちょっと嬉しいかも)


お弁当袋をぎゅっと抱きしめて、わたしは席にちょこんと座り直す。

顔がじんわり熱を帯びる。……なのに、気持ちが小さく跳ねているみたいで――ふと、教室のざわめきが耳に届いた。


弁当のふたが開く音や、友達どうしの笑い声が重なって、昼休みらしいにぎやかさが広がっている。

周りはワイワイしてるのに、犬神さんと向き合ってると、その空間だけが特別に感じられた。


そんなわたしの前に、犬神さんが机を寄せてきて、自然にお弁当を広げる。


「えへへ〜っ、今日の卵焼きね、昨日ネットで見た作り方、試したんだっ!」


犬神さんがお箸でひょいっと持ち上げた卵焼きは、ふわふわに膨らんで甘そうに見えた。その横には、安定のブロッコリーがぎゅっと並んでいる。


「ほんとだ、形きれい……」


わたしは、お弁当箱に並んだ三角のおにぎりに手を伸ばし、ひと口ほおばってから答えた。


「味はいいんだけど、巻き方がまだ下手っぴで〜。今度は、もっときれいに作りたいなっ♪」


お箸で卵焼きを持ち上げて、ふっと眺める犬神さん。

その横顔は、どこか真剣で――でもやっぱり彼女らしくて。


「えっと……じゃあ、今度のお休みの日とか、一緒に作ってみる?」


口にした瞬間、自分でもちょっとびっくりする。


わたしの言葉を聞いた途端、犬神さんがパッと顔を輝かせた。


「えっ!? ほんとに〜〜っ!? わたしの家、キッチン広いからっ、お料理教室ごっこできるよ〜っ!」


「いいのっ!? ……わたし、不器用だから、教えてもらえたらすごく助かるなっ♪」


卵焼きをお箸でつまんだまま言うと、自分でも少し驚くくらい、素直な声が出ていた。


犬神さんはすぐに小指を差し出す。

「じゃあ――約束ねっ!」


「……うん。約束」


机の上で小さな指切りが結ばれた。

胸の奥までふわっと温かくなる。


恥ずかしいのに、どうしようもなく嬉しくて――

思わず笑い合って、肩の力が、卵焼きのふんわりした甘さに溶けるようにほどけていった。


その余韻の中で、ふと胸の奥に記憶の断片がよぎる。

あれ……どこかで、こんなふうに小指を重ねた気がする。

けれど確かめる間もなく、その感覚はすぐに霧のように消えていった。


残ったのは、窓から差し込むやわらかな光と、隣に座るさりげない心地よさ。


その穏やかさを味わっていたとき――犬神さんが、くるっとわたしの方を向いて。


「そういえば、昨夜の河田さんとのRINE、楽しかったよ〜っ!」


そう言って、スカートのポケットからスマホをぱっと取り出す。

その仕草につられるように、わたしも慌ててポケットに手を伸ばした。


「わ、わたしも……!」


気づけばふたりして、机の上に小さなスマホをちょこんと並べていて――

なんだかそれだけで頬が熱くなり、口元がゆるみそうになるのを必死にこらえる。


そんなわたしを見て、犬神さんがふふっと口元をゆるめて、ちょっと照れた声で言った。


「“おやすみ〜っ”って送ってくれたの、すっごくうれしかったんだ♪」


「そ、そんな大したことじゃ……」


ふと思い返しただけで、息がほんのり弾んで、自然と笑顔になってしまう。


――すると、犬神さんがふと顔を輝かせ、声を弾ませた。


「実はね、越智くんともRINE交換したんだよ〜っ!」


「えっ……!」

思わず箸を止めてしまう。


「返事ね、“OK!”と“GOOD!”の柴犬スタンプだったの!」


スマホを見せてきた犬神さんに、胸の奥が、そっとざわめいた。

でも次の瞬間、自然と笑みが浮かんでしまう。


「ふふっ……越智くんらしいね」


「でしょ〜っ! しかもね、この柴犬、うちのゲンキに似てるの〜!」


そう言いながら、犬神さんは嬉しそうにスマホの待ち受けを見せてきた。

画面に映っていたのは、柴犬ゲンキ。くりくりの目に、ぴんと立った耳、そして触れたら気持ちよさそうなフサフサの茶色がかった毛並み。


思わず、「わぁ、かわいい……!」と声が漏れて――ゲンキの写真に目を奪われたまま、気づけば言葉がこぼれていた。


「……今度、犬神さん家に行ったとき、ゲンキにも会いたいなぁ」


犬神さんはパッと顔をほころばせて――


「もちろんっ! ゲンキ、人懐っこいから絶対なつくよ〜っ!」


「……その日が来るの、楽しみにしてるね」


言葉にした途端、胸の奥にふわっと温もりが広がり、口元が自然にゆるんだ。


犬神さんも小さくうなずき、頬をほんのり赤く染めて、やさしい笑みを返してくれる。


「……やっぱりね、こうやって何でも話せるのがいちばん楽しいなっ♪」


そして、思い出したように声を弾ませる。


「RINEでさ、お昼どこで食べる〜?って気軽に聞けるのもいいよねっ」


そんなふうに言って、犬神さんがふと窓の外を見やった。私もつられて視線を向けながら、口を開く。


「……そういえば、越智くんと神田くんって、お昼は屋上で食べてるんだよね」


「うんっ。ふたりとも、人の多いとこ苦手なんだって〜っ」


「……そっか。なんか……いいなぁって思っちゃった」


「えっ? なになに〜〜? どんな意味〜?」


「ち、違うの! 変な意味じゃなくて……。屋上って、景色眺めながら食べられるでしょ? それがちょっと憧れで……」


少し恥ずかしくなって言ったのに、犬神さんはじーっとこちらを見て、それからにこっと笑った。


「じゃあさっ、今度いっしょに行ってみよっか、屋上っ!」


「えっ……いいの?」


「もちろんっ! 越智くんたちのことは、任せて〜っ♪」


そのひとことに、胸の奥がふわっと跳ねた。


放課後の科学部見学と屋上ランチ。

そして、犬神さん家で卵焼きを作るっていう約束。


どれも――今の私にとって、新しい自分への一歩だった。


* * *


【放課後・1年A組教室】


チャイムが終わると、放課後のざわめきが一気に広がった。


(科学部、今日で二度目。……なのに、なんでこんなに胸が熱いんだろう)


「河田さんっ! いよいよ科学部だね〜っ!」


犬神さんが、いつもの笑顔でぱっと顔をのぞき込んできた。


「う、うん……。前も優しかったけど……やっぱり、ちょっと緊張するかも」


「だいじょーぶっ! 今日も歓迎してくれるよ〜っ!」


その明るさに、胸の奥がほんの少し軽くなった。

……と、すぐ近くから静かな声が落ちてくる。


「……科学部に行くんだろ。越智から聞いた」


思わず振り向くと、神田くんが立ち上がっていて、ちらりとこちらを見ていた。


「えっ、うん……」


「一人で行くのか? ……足並みは揃えた方がいい」


冷静なはずの声にやさしさが混じっていて、思わず息が詰まる。


(神田くんって、意外と優しい)


背後の席で、越智くんも静かに立ち上がった。


「……じゃあ、行くか」


私は鞄を抱え、犬神さんも元気よく立つ。


「よーしっ! じゃあ出発〜〜っ!」


四人で、にぎやかな教室を抜けて廊下へ。

二度目の科学部――でも今日は、前よりも心がじんわり高鳴っていた。


扉を開けた途端、背後のざわめきが遠ざかり、廊下から男子の声が耳に飛び込んできた。


「……あれ、二年の“化学系アイドル”の笹倉先輩じゃね?」

「マジだ……可愛いな……」


視線の先。金髪ポニーテールの笹倉先輩が軽やかに近づいてくる。


「やっほー! 越智くん、神田くんに河田ちゃんも〜! あ、そして……っ!?」

犬神さんを見つけた笹倉先輩が、勢いよく指をさす。


「キミが、噂の犬神いぬがみ千陽ちはるちゃんだぁ〜っ!」


「えぇっ!? わ、わたしって噂になってるんですかっ!?」


「ちょ、ちょっと待って! 悪い噂じゃなくてね!? 元気でかわいいって、いい噂だから!」


「えへへっ……ほんとにっ!? わたし、めちゃくちゃ嬉しい〜っ!」


犬神さんは目をまんまるにして固まったかと思えば、ぱあっと顔を輝かせて今にも飛びつきそうな勢い。

対する笹倉先輩は慌てて手をぶんぶん振りながら、まるでおやつをもらって大はしゃぎする子犬を必死にあやす飼い主みたいで――。

思わず口に手をあてて、くすっと笑ってしまった。


「そういえば、この前みんなで笹倉カフェ来てくれたよね〜! ありがと♪」

笹倉先輩がにっこり笑って、軽く手を振る。


「コーヒーとクッキー、美味しかったですっ!」

思わず口に出したわたしに、先輩はぱっと笑顔を返す。


神田くんは、ほんのわずかに口元をゆるめ、越智くんも軽くうなずいてみせる。

それだけで、二人とも笹倉カフェを気に入っていたことが伝わってきた。


「じゃあ犬神ちゃんも、今度ぜひ笹倉カフェにおいで〜♪ トラもきっと喜ぶから!」


「えぇっ!? トラ……って、あのサバンナにいるやつですかっ!?!?」

犬神さんの素の驚き声が廊下に響いた。


「……本気で信じてる顔してたぞ」

「まあ……犬神ならありえるな」


神田くんはため息をつき、越智くんは苦笑して肩をすくめる。


「ち、ちがうちがうっ! ただの猫ちゃんだよ〜っ!

茶色のトラ模様だから“トラ”って名前なだけ〜っ♪」

笹倉先輩が慌てて笑う。


「にゃ、にゃんこ!? わわっ、ぜったい会いたいですっ!」

犬神さんが身を乗り出すと、笹倉先輩も楽しそうに頷く。


「トラもゴロゴロしながら歓迎してくれるよ〜っ!

今度みんなで遊びにおいで♪」


「やったぁ〜っ! 楽しみだなぁ……♪」


スキップしたくなる足取りで進んだ犬神さんは、曲がり角でくるっと振り返った。


「じゃ、わたしはここでバイバイだよ〜っ! テニス部、いってきまーすっ!」


「……テニス部、頑張れよ」

神田くんが短く告げる。


「えへへっ、ありがと〜っ!」


セミロングの茶髪が揺れて、犬神さんは軽やかに駆けていった。


「……部活前に、あれだけ動いてバテたりしないのか?」

神田くんがぽつり。


「……放課後のコートでもそうだった。犬神なら大丈夫だ」


越智くんは静かに言って、視線を柔らかく落とした。


「……うん。あのときの犬神さん、ほんとにすごかったよね」


私は頷きながら答えた。

昨日のコートの眩しさが胸に甦る。


「ふふっ、犬神さんから……“ひなた”みたいな匂いがした〜」


笹倉先輩は嬉しそうに微笑み、そのままやわらかく言葉を重ねた。


「じゃ、行こっか。科学部まで、すぐだよ〜♪」


その言葉に背中を押され、夕暮れの廊下を進むたび――胸の奥に、そっと勇気が芽生えていく気がした。


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