第21話 『見惚れて、触れて、心が動いた』
【4月15日(水)12:05 越智隆之】
扉を開けると、風がやわらかく吹き抜けた。
昼休みの屋上には誰もいない。
静かで、空が近い場所。
この時間帯は、日常の喧騒から一時だけ離れられる、数少ない“無音領域”だ。
俺は風上に立ち、制服の裾を軽く整える。
鞄の中から、朝の通学途中で買ったパンと小さなボトルを取り出し、無言でベンチに腰を下ろした。
毎度の購買の混雑に巻き込まれるのは面倒だ。
今朝もあらかじめ、コンビニでパンを買っておいた。
――そのとき。
背後から、控えめな足音が屋上に響いた。
「……越智」
いつもと変わらぬ声。
静かで、少しだけ戸惑いを含んだ気配。
「神田か」
彼は俺の隣に、ためらいがちに腰を下ろした。
ほんの少し間をあけたつもりが、逆に存在感を強く感じてしまう。
神田が小さく喉を鳴らし、わずかに目を伏せたまま、ぽつりと口を開いた。
「昨夜のクラン戦、ありがとな。……雰囲気、悪くなかった」
「そうか。そう感じたなら、上出来だな」
俺が返すと、彼はふっと肩をすくめる。
「……まあ、たまには騒がしい夜も、悪くないな。
でも――楽しかった。クランフィールドって、こういう感じなんだなって思った」
口元が、ほんのわずかに緩んでいた。
あいつにしては、ずいぶんと珍しい表情だった。
「お前の盾、安定してた。ヘイト誘導もスムーズだったし、後衛のカバーもよかったな」
俺の言葉に、神田はわずかに表情を緩めた。
「……お前が指示出してくれたから。オレ一人なら、途中で詰んでた」
「それでも、判断の速さはお前自身のものだ」
そう返したとき、神田の視線は静かに屋上の柵へと向かい、揺れる風に目を細めるその横顔は、どこか柔らかい。
パンをひと口かじると、彼はふと空を見上げた。
「……なあ、越智」
「なんだ」
「……好きな人が、できたかもしれない」
俺はパンを手にしたまま、わざとらしく聞き返す。
「犬神か?」
「……さすがに、もっと静かな子が好みだ」
言いながらも、神田の目線はふっと逸れる。
そこに、わずかな揺らぎ――視線の遷移があった。
過去の観測記録と照合すれば、対象はおおよそ特定できる。
「……ああ。推測はできるが、確証はお前の口から得たい」
それは、答えを急がず、検証手順を踏もうとする理系の癖。推論だけで結論を出せば、観測者の矜持に反する。
「まだ“自分でも確信がない”ってやつ。……未定義のまま、観察中ってとこだ」
俺はパンの袋を、ゆっくり閉じた。
膝の上にそれを置き、息を吐く。
「……恋愛感情の定義は、難解だ」
「そうだな。だから、今はまだ“仮説”ってことで」
神田は、ほんの少しだけ口角を上げた。
それが、“気持ちの整理”をした証拠だと、俺は知っている。
そして、少し間をあけて――いつもの無機質な口調で問いかけてきた。
「お前はどうなんだ? 最近、“誰か”に、気を取られたりしてないか?」
神田の問いに、俺は即答する。
「――していない」
それ以上は追及せず、彼は目を細めて空を見上げた。
その横顔は、いつもと変わらないはずなのに――なぜか、穏やかさを帯びて見えた。
「……そうか。じゃあ、そのままの越智でいてくれ」
耳の奥に残ったのは、刺すような問いではなく、静かに寄り添うような響きだった。
昼の風が、ネクタイの端をさらりと揺らしていく。
そこへ―― ポン、と短く電子音。
置いていたスマホが、静かに震える。
画面に表示された名前は、犬神千陽。
通知バナーの下には、あの特徴的なメッセージ。
新着メッセージ。
『きょうのほうかごねっ、だぶるすの れんしゅう するんだ〜〜!
もしよかったら……ちょっとだけ、みにきてくれると うれしなっ……!(まってるわんっ!)』
一瞬、指が止まった。
――ほんの数行の文字で、思考にノイズが走る。
俺は答えが出せないまま、静かに画面を閉じた。
神田は、それをちらりと見ただけで、静かに目を伏せた。そして、口元にほんのわずかな笑みを残す。
――そうだな。
たぶん、これくらいの距離感がちょうどいい。
風の音が、静かにふたりのあいだを満たしていく――。
* * *
【放課後・河田亜沙美】
(……なんで、こんなに緊張してるんだろ)
まだ部活が始まる前の時間。
高橋先輩との約束を思い出しながら、わたしは少し早めにテニスコート外のベンチへ向かった。
金網越しにのぞくと、コートの中では先輩たちが準備運動を始めている。
フェンス一枚を隔てているだけで、声や打球音はすぐ耳に届く。
手を伸ばせば触れられそうなほど近いのに、そこには確かな境界があった。
わたしはベンチに腰を下ろし、そっと視線をコートへ注ぐ。
「……わあ」
その瞬間――息が止まった。
まるで舞台袖から現れた主役のように、高橋先輩がコートに姿を現す。
真っ白なポロシャツに淡いブルーのスコート。
陽射しを受けてその輪郭が眩しく縁取られ――風に乗って裾がふわりと舞った。
踏み出すたびに、夕暮れの光を透かした黄金色のウェーブヘアがなめらかに揺れ、ラケットを握る指先まで洗練された所作。
一挙手一投足が、まるで計算され尽くしているかのように整っていて――それでいて、しなやかで優雅。
ラケットを振る腕の流れるような動きも、ボールを追う視線の真っ直ぐさも。
すべてが凛としていて、目を離すことができない。
(……素敵な人)
ただテニスをしているだけなのに、こんなにも人を魅了してしまう――これが“高橋玲奈”という人なんだ、と。
その余韻に浸る間もなく、ふいに背後から足音が近づいてきた。
(……誰か来た?)
「河田か」
びくっとして振り返ると――
「……越智くん?」
「……来てたんだな」
「うん。高橋先輩に誘われて、ちょっと見学を……」
「ああ。俺は……犬神に誘われた。ダブルス練習らしいな」
そう言って、越智くんはためらいもなく、わたしの隣に腰を下ろした。
ベンチがわずかに沈み、その反動で肩先が触れそうになる。
(わっ……近い…っ)
視線は前を向いているのに、鼓動だけが落ち着かなくて、握っていた膝の上の手に力がこもる。
息を整えようとしても、隣の存在が気になってしまう――そんな距離だった。
それでも意識をそらすように、ゆっくりと視線をコートへ向ける。
ちょうどそのとき、犬神さんがコートに駆け込んできた。
高橋先輩とおそろいのテニスウェアに身を包んだ犬神さんが、まるで光の粒をはじくようにコートへと駆けていく。
ポニーテールもスコートの裾も、夕陽に照らされて――すべてが、キラキラと跳ねていた。
(……ポニーテール、かわいすぎない!?)
ふだんの彼女とは少し違うその軽やかな姿が、やけに新鮮に映った。
高橋先輩の優雅さとは対照的な、真っ直ぐで弾けるような眩しさに――思わず見惚れてしまった。
「犬神……さん」
気づけば、その名前が自然と口をついていた。
* * *
【放課後・同刻 越智隆之】
犬神が、高橋先輩とダブルスを組んでコートを縦横に駆けていた。
鋭く振り抜くスイング。前衛への素早い詰め。
軽く跳ねてラケットでボールを拾い上げる動作、そして瞬時のステップ切り返し。
どれも、いつもの教室で見る姿とは別人のように――驚くほど軽快で、無駄がなかった。
少しぎこちない場面もあるが、全力で“今”を楽しんでいる――そんなふうに見える。
(……想定以上だ)
あいつの動きには、やっぱり無駄がない。
直感的に見える一歩も、それは――経験から導かれた最短ルートのような所作だった。
白いポロシャツに淡いブルーのスコート――裾が跳ねるたび、夕陽を受けたポニーテールが弾み、コートの白線に淡い影を走らせる。
そして、駆けるたびにその真剣な瞳が、まっすぐ前を射抜いた。
「犬神さん――っ! 前へ、お願いっ!」
高橋先輩の声に応えるように、犬神がネット際へ沈むドロップショットを放つ。
慌てて駆け込んだ相手がなんとかラケットを合わせるも、返球は甘く浮いた。
その瞬間――高橋先輩がすっと前に出る。
迷いのないステップ。そのまま放たれた鋭角のボレーが、コートを切り裂く。
バシュッ!
「――ナイスショット!」
鋭い音とともに、鮮やかなポイント。
観客席から、控えめながらも確かな拍手が湧いた。
その合間、犬神がふとこちらを見上げ――
夕陽を背に、眩しい笑顔で全力の手振りを送ってきた。
……一瞬、言葉が見つからなかった。
理屈じゃない。その笑顔は――視界を越えて胸の奥に触れてくる。
呼吸がひとつ遅れて、気づけば視線が止まっていた。
《生体ログ:自動記録更新》
・心拍数:平常比+30前後
・呼吸数:上昇傾向
・末端体温:微増
・動揺レベル:高揚/反応制御ぎりぎり
(……完全に不意を突かれた)
冷静を装っても、身体は嘘をつけない。
“観測者”のくせに。……自分のログすら、まともに解析できないとはな。
(“観測”じゃ、追いつけない変化もあるってことか)
頬の奥にじんわりと熱がこもる。
指先の温もりだけじゃない――今は、心のどこかまでその笑顔にかき乱されていた。
だが、頬をなでる風に意識が引き戻される。
視界の端、その様子を見て嬉しそうに頷いている河田亜沙美の姿があった。
(河田も……そして、俺も変わりはじめている)
静かに息を吐き、視線を外して観測を断つ。
――これ以上、揺れが深く記録される前に。
* * *
【放課後・帰り道 河田亜沙美】
日向高校の校門を出ると、夕陽がゆるやかに坂道を染めていた。
昼よりも少しだけ涼しい風が、前髪をくすぐる。
テニス部の見学を終え、わたしは越智くんと並んで坂を下っていた。
「……犬神さんたち、すごかったね」
声に出したら、胸の奥まで温まるような余韻がまたよみがえる。
「ダブルスであれだけ連携できるのは、相当練習してる証拠だな」
淡々とした口調なのに、目はちゃんと見てた人のそれだった。
「やっぱり、普段から仲いいからかな?」
「仲がいいだけじゃ足りない。お互いの動き方や癖まで把握してないと、ああはならない」
うんうんと頷きながら、その言葉の確かさがじんわり胸に広がっていく。
――たとえ自分の気持ちがふわふわ揺れていても、越智くんはいつも通りでいてくれる。
ちゃんと見てくれて、ちゃんと言葉にしてくれる。
その“変わらなさ”が、いまのわたしには、何より頼もしく思えた。
「……科学部も、ああいう連携とかあるの?」
ふと聞いてみると、越智くんは少し間を置いてから答えた。
「ある。機材を扱うときとか、実験の段取りを組むときとか……」
「そっか。……でも、科学部の方が難しそう」
「失敗したら、テニスよりも後片づけが面倒だ」
さらっと返すその一言に、思わずくすっと笑った。
坂道を下る靴音が、夕方の空気に溶けていく。
会話は途切れても、気まずさはない。
――不思議と、沈黙がやさしく寄り添ってくれる。
「……朝はちょっと、色々あって……正直、しんどかったけど――」
ふっと笑ってから、ぽつりと続けた。
「でも……なんか今日、いい日だったかも」
ちょっとだけ声を張った。風に消えてほしくなかったから。
「……そうか。なら、よかった」
短く返されたその声は、なぜかやわらかくて、胸の奥をくすぐった。
――そのときだった。
小さな段差に足先が触れた瞬間、景色がふわりと揺れて――バランスが崩れかけた。
「あっ……!」
ふいに、腕を引き寄せられる感覚。
とっさに伸びてきた手が、わたしの体をしっかりと受け止めていた。
「……気をつけろ」
低く静かな声が、耳元で囁くように落ちてくる。
驚いて顔を上げたら、すぐそこに――越智くんの顔。
吐息が触れそうな距離。
視線が重なった一瞬、胸がぎゅっと縮まる。
けれど彼は、いつもの無表情のまま、冷静に視線を逸らした。
「……あ、あの……ありがとう、越智くん……」
思わず声が震えたのは、転びかけたせい……だけじゃない気がする。
体勢はすぐ戻ったのに、掴まれた腕の奥に残る感触だけが、熱をもって、じんわり広がっていく。
……そういえば、体育の授業でも同じことがあった。
グラウンドの真ん中で、急に視界が揺れて足がもつれたとき。
倒れそうになったわたしを、誰よりも早く駆け寄って支えてくれたのは――やっぱり、越智くんだった。
あのとき胸に広がった鼓動の速さが、今また甦ってくる。何ひとつ変わらない、その確かな温度。
再び歩き出した彼の背中を、少しだけ早足で追いかける。
ただの帰り道なのに、胸の奥がふっと温かくなった。
(……この感覚は、まだ言葉にしなくていい)
そう思ったら、ほんの少しだけ、この時間が愛おしくなった。
* * *
そのとき、坂の上――
夕陽に照らされたふたりの背中を、じっと見つめる視線があった。
校門の脇、少し離れた通用門の影に、あの女子二人組が立っていた。
「ふーん……生徒会長のお気に入りが、今度は男子と仲良しアピール?」
「あいつ…。“陰キャ”卒業したつもり?」
カシャッ、と小さくシャッター音が響く。
「見て見て、この角度。#1Aの闇 にあげたら、また盛り上がるかもね」
誰もいないと思っていた帰り道。
――だが、その闇の底から伸びた視線は、冷たく、確かにこちらを射抜いていた。




