第20話『繋がる勇気』
【4月15日(水)08:15 河田亜沙美】
校門前の通学路を、いつも通りの歩幅で進む。
今日は犬神さんは朝練、越智くんや神田くんとも時間が合わず――久しぶりに、ひとりきりの登校だった。
街路樹はすっかり葉桜に変わり、朝の光を受けてやわらかな緑がきらめいている。
澄んだ空気に背を押されるように、自然と足取りが軽くなった。
いつもより早く校門前へ着くのは、久しぶりだ。
ひんやりとした風が頬を撫でるたび、胸の奥のざわつきも静まっていく――そう、思っていた。
そんな時――
背後から、軽い笑い声と足音が近づいてきた。
「……あ〜ら、おはようございます〜? 科学部予備軍さん」
反射的に、わたしは振り向いてしまった。
(……)
見間違えるはずがない。
前に、学校のトイレで嫌がらせをしてきた、別のクラスのあの二人組だ。
「最近、調子いいんでしょ? 科学部に行ったって噂、聞いたよ〜?」
「へぇ〜、地味キャラからの脱却っ? すごいすごい」
声のトーンは明るい。
でも、言葉は氷みたいに冷たくて、棘みたいに刺さってくる。
「次は何部狙ってるの? 生徒会? まさか……テニス部とか言わないよねぇ〜?」
「ふふっ、似合うわけないじゃん。ね?」
嘲笑う声が、空気をざらつかせた。
でも、わたしはもう一度、そっと前を向いた。
無視するように――足を止めず、歩き出す。
「……ていうか、ほんと図太いよね〜。うちらなら無理」
胸の奥が、きゅっと縮む。
呼吸が浅くなり、喉の奥がからからに渇く。
それでも足取りは崩さず、制服の袖の中で指先だけがじんわり冷たくなっていく…。
――その瞬間、背後から声が降ってきた。
「……“図太い”とか、“似合わない”って――誰に向けたつもりだったのかしら?」
空気が、ぴたりと凍りついた。
静かで、けれど明らかに“圧”を含んだ声が、背中に突き刺さるように響いた。
ふたりの女子が、その場で立ちすくむ。
「っ、ひ……!? せ、生徒会長……!」
制服の赤い腕章が、朝日にきらりと光る。
長い黒髪を背に流し、メガネ越しに研ぎ澄まされた眼差しを向ける朝比奈こころ先輩――生徒会長が、静かに立っていた。
表情を崩さぬまま、ふたりをまっすぐ見据えている。
「……“図太い”とか、“似合わない”とか――言葉の矢は、放った瞬間、もう戻せないのよ」
「べ、別に……誰のこととか……」
「……そう。じゃあ、生徒会の記録として、正式に報告書に残しても構わないわね?」
たった一歩、歩み寄る――視線は鋭く揺るがない。
軽い足取りのはずなのに、その足音は沈黙ごと押し寄せてくるようだった。
「軽い気持ちの矢でも、一度放てば、人の心に突き刺さる。……それくらい、もう理解しているはずでしょう?」
視線の圧に耐えきれず、ふたりは顔を伏せたまま、その場をそそくさと離れていった。
残された空気に、静けさとわずかな緊張の残り香だけが漂う。
先輩は小さく息を吐き、ほんの一瞬だけ肩の力を抜いた。
「まったく……朝から面倒なこと。……河田さん、登校、ずいぶん早いのね」
軽く視線を流しながら、ほんのりと微笑む。
その仕草には、すでに場を収めた者だけが持つ落ち着きと、余裕の色が漂っていた。
「……はい。今日は、ちょっとだけ気分転換、です。
あの……さっきは、ありがとうございましたっ。
それと――どうして、わたしの名前を……?」
「越智隆之くんのクラスメイトの方よね? 彼と一緒にいるところを見かけたから……覚えていただけよ」
「……そ、そうなんですか。あ、あの……朝比奈先輩って、越智くんとお知り合いなんですか?」
「そうね……昔からの、知り合いみたいなものよ」
朝比奈先輩は、ふっと小さく笑うと――
手提げ鞄の持ち手に、静かに指を添え直した。
ほんの何気ない仕草。
でも、その所作ひとつひとつに、なにか強い覚悟のようなものが宿っている気がして……。
わたしは思わず、目を奪われてしまった。
初めて会った人なのに。
言葉も少し交わしただけなのに――
その背中が、胸の奥に焼きついて、離れなかった。
* * *
【昼休み・1A教室】
「は〜いっ! お待たせ〜〜っ!」
明るい声が、教室の窓際から跳ねてくる。
犬神さんは自分の席からお弁当箱を抱えて、ガタガタッと机をわたしの隣まで引き寄せた。
「ねぇねぇっ! 今日も一緒に食べていい!?」
「ふふっ、いつも一緒に食べてるでしょ?」
犬神さんのその笑顔は、教室の空気ごとぱっと明るくする魔法みたいで――思わず、わたしも笑ってしまう。
(……すごいな、犬神さん……きっと悩んだりしても、それをぜんぶ笑顔に変えられるんだ)
犬神さんは、得意げにブロッコリーを一口。
(相変わらずブロッコリー好きなんだなぁ……)
そんなことを思いながらも、胸の中には自然と前向きな気持ちが広がっていく。
「ねぇねぇ、河田さんってさ〜、RINEとかやってる〜〜っ?」
「えっ、この流れって……もしかして?!」
思わず心臓が高鳴る。
「えへへ〜っ、わたし、最近ね、お料理とかお掃除とか、もっと効率よくできるようになりたくて……“おうちスキル同好会”っていうグループ作ろうかな〜って思ってるんだ〜っ!」
胸のあたりがふわっと浮き上がった。
思わず椅子から立ち上がりそうになるくらい、うれしくて――。
「わぁ、もちろん! わたしも犬神さんとRINE交換したかったんだ」
犬神さんは嬉しそうに目を細め、スマホを取り出した。
「じゃあ、はいっ、これQRコードね〜っ!」
指先が落ち着かなくて、何度もタップを間違えそうになる。
けれど、視界の端に映る犬神さんの笑顔が、胸の奥までじんわりと入り込んできて――意識を奪って離さなかった。
* * *
お弁当を食べ終わったあと、犬神さんに誘われて廊下へ出た。
窓際で座っていたときよりも、こうして立ち話をするほうが、不思議と心が軽くなる気がした。
「えへへ〜っ、午後もがんばるぞ〜って気合い入れなきゃね〜〜っ!」
元気に伸びをする犬神さん。その笑顔を見ていたら――
ふと、前方の空気がやわらかく揺れた。
陽光をまとった金のウェーブ髪が、ゆるやかに弧を描いて揺れ、優雅な足取りでこちらへと歩み寄ってくる。
「河田さん、犬神さん。会えてよかったですわ」
視線を向けると、そこには高橋玲奈先輩。
わたしが会釈すると、隣の犬神さんも「おはようございます、高橋先輩っ!」と明るく元気な声を弾ませる。
その笑顔に応えるように、先輩はやわらかく微笑み、ふと視線をこちらへ向け直した。
「この前はありがとう。保健室のあと、中庭でご一緒できて嬉しかったですわ」
「こちらこそ……ありがとうございました」
先輩はすぐに犬神さんへ視線を移す。
「犬神さん、午後は予定通り。放課後、あなたと私でダブルスですわ」
「はいっ! よろしくお願いします、先輩っ!」
そのやり取りだけで、胸の奥が少し高鳴る。
犬神さんと先輩の笑顔が交わった、その直後――
高橋先輩が、こちらへ向き直る。
「河田さん。もしお時間があれば……今日の練習、少しご覧になりませんこと? 無理強いはいたしませんわ」
そこでふっと微笑みを深め、視線の奥にやわらかな熱が宿った気がした。
「ただ、犬神さんと私が同じコートで呼吸を合わせて戦う姿を、河田さんに見てもらえたら嬉しくて」
迷いなんて、もうない。
こんなの――即答に決まってる。
その瞬間、小さな灯りが胸の奥であたたかくともった。
「……わたし、ちゃんと応援したいです。犬神さんと高橋先輩のダブルス――ぜひ観に行かせてくださいっ!」
「ふふっ。嬉しいですわ。コート脇のスタンドにいらして。席は私が確保しておきますわ」
すかさず、犬神さんがくるっと私の方へ向き直る。
頬まで明るく染まった笑顔が、勢いよく距離を詰めてくる。
「わふ〜〜っ♪ じゃあ、わたし、手ぇ振るからっ! ね、ね、見ててね? ぜったい勝つんだもんっ!」
「う、うん……! 見る。ちゃんと」
高橋先輩は、やわらかく微笑み、小さく頷いた。
その仕草ひとつで、場の空気がすっと澄んでいく。
「では、生徒会へ行ってまいりますわ。
放課後――コートにてお会いしましょう」
隣の犬神さんが、ぱっと笑顔になって手を振る。
「じゃあ先輩、また放課後にね〜っ!」
先輩が去ったあとも、心の中に残った温度だけは、しばらく下がらなかった。
きっと――夕陽の下で輝くふたりの背中は、ずっと忘れられない景色になる。
* * *
【昼休み・生徒会室】
窓から差し込む光が、整頓された机の上を静かに照らしていた。
生徒会室には、カチッという書類ファイルを閉じる音だけが響く。
副会長・高橋玲奈は、ひと息ついて手元のペンを置いた。
「……お疲れさま」
穏やかな声に、玲奈が顔を上げると――
生徒会長・朝比奈こころが、書類を抱えてそっと入室してきたところだった。
「生徒会長……」
「ふふ。そんなに身構えなくていいのよ?」
そう微笑んだあと、こころは静かに給湯スペースへ向かう。
慣れた手つきで紅茶を淹れ、ポットから立ちのぼる湯気がふんわり広がった。
注がれたカップから漂うのは、やさしいベルガモットの香り。
「アールグレイ。少しでも落ち着けたら、と思って」
そう言って、こころは玲奈の机の上に静かにカップを置いた。
玲奈は、カップの縁にそっと指を添えながら小さく頷く。
「……ありがとうございます、会長」
「ふふ。ふたりきりの時は、“こころ”って呼んでほしいわ、玲奈さん?」
カップを手にしたまま、こころも窓際の自席へと腰を下ろす。
背筋をすっと伸ばしたその姿に、自然と空気が引き締まった。
「では……お言葉に甘えて。こころ先輩」
ふっと笑い合うふたりだったが――
次に落ちた沈黙は、少しだけ重かった。
こころは、カップを手に取ったまま視線を伏せる。
「……あなたの知り合いの河田さんが、今朝――同じ学年の女生徒二人に、心ない言葉を投げかけられているのを見かけたの」
その名を聞いた瞬間、玲奈のまつげがかすかに揺れた。
一瞬だけ――感情を抑えるように、唇をきゅっと引き結ぶ。
「そうでしたの……初めて耳にしましたわ。何があったのかは分かりませんけれど……気になりますわ」
「今朝、私が少しだけ声をかけたわ。でも……まだ、心を閉ざすような影が表情に残っていたの」
こころの言葉に、玲奈は静かに頷き――そのまま目を合わせた。
「……お昼に、私もお話しました」
玲奈はまっすぐに顔を上げ、続ける。
「少しでも気持ちを切り替えられたらと、放課後はテニス部の見学に誘ってみましたの。きっと――犬神さんの存在も、背中を押してくれたのだと思いますわ」
「ええ……あの子、河田さん。優しさに敏感だからこそ……届く言葉を選んであげたいわね」
カップの縁に指を沿わせ、こころは視線を落とす。
窓辺からの光が、紅茶の表面を淡く揺らす。
ベルガモットの香りが、二人の間に静かに満ちていく。
しばしの沈黙のなかで、玲奈は言葉を選ぶように息を整え――静かに口を開いた。
「……私たちが、最初に相談してもらえる存在になれるよう、少しずつ歩み寄っていきたいですわ」
その瞳に小さな揺らぎが浮かぶ。
すぐに柔らかな微笑みを返し、そっとティーカップを置く。
小さな音が、ふたりのあいだにやさしい余韻を残した。
沈黙を抱いたまま数秒――
こころが、窓の向こうに目を向けながら、静かに想いをこぼす。
「生徒会の仕事は、“記録”でも“処罰”でもなくて――“寄り添い”だと思うの」
午後の光を受けたこころの横顔は、凛として、静かな決意をたたえながら遠くを見据えていた。
玲奈も顔を上げ、しっかりと頷く。
「その“寄り添い”こそが、誰かを救うきっかけになるのですわ」
目が合い、二人はそっと微笑んだ。
昼下がりの生徒会室に、紅茶の香りと、ささやかな温もりがそっと満ちていった。




