第2話『その観測対象は、制御不能』
入学式を終え、クラスでの時間がしばらく流れた頃――、教室の前に現れたのは、ふんわりとした印象をまとった大人の女性だった。
「改めまして、皆さん……ご入学、おめでとうございますね」
ゆっくりとしたテンポ、やわらかくて耳に残る声。
これが、1年A組の担任――杉本晴香先生だった。
「私はこのクラスの担任で、国語を担当している杉本といいます。
ふだんはちょっとのんびりしてるかもしれませんけど……皆さんの力になれたらと思っていますので、どうぞよろしくお願いしますね」
そう言って、杉本先生はふわりと微笑んだ。
その笑顔だけで、教室の空気がすこしだけほぐれた気がした。
「高校生活って、最初はやっぱり緊張しますよね。
でもね……焦らなくて大丈夫なんですよ。
“自分らしくいられる場所”って、すぐに見つけようとしなくていいんです。
ちゃんと、見つかりますからね。少しずつで、大丈夫です」
(……テンプレ感の強い台詞だが、語りのトーンと合っている)
教室のあちこちで、数人の生徒がこくこくと頷いていた。
「それから……あ、越智くん」
杉本先生が、ふいにこちらを見た。
「科学部に入部希望、出してくれてありがとうね。
部室は今日から開いているはずなので、このあとにでも覗いてみてください」
数人の生徒が、小さく反応するのが見えた。
(……この場で言及するとは思わなかった。意図は不明。だが、“動機の開示”がなされたと見るべきか)
席の前方で、隣の女子――犬神が、こちらに向かってぱっと振り返る。
「えっ、越智くんって科学部なんだ〜!へぇ〜〜っ、意外〜!」
「……そうか?」
(意外……なのか)
その声は、悪意も遠慮もなく、ただただ明るかった。
前の席――河田亜沙美も、少しだけ視線をこちらに向けてきたが、目が合う直前に、そっと下を向いてしまった。
(……まだ、クラス内の位置取りに不安があるタイプか)
テンポの速い空気と、どこか控えめな静けさ。
初対面の気配がまだ残る教室に、それは静かに重なっていた。
杉本先生の説明が終わって、一年生は解散。周囲が浮ついた足取りで昇降口へ向かう中、俺は、ひとりだけ階段を上がっていった。
行き先は、二階――理科準備室の奥。今日から開放されているはずの、科学部の部室だ。入部届けを出したばかりだが、誰かに会う予定はない。
それでも気になったのは、“あの部屋が、どういう空気をしているのか”という一点だった。
俺は一階の教室を出て、迷わず階段へ向かった。
(……部室は、理科準備室の奥だったはずだ)
と、背後から――パタパタと、軽い足音。
一段抜かしで登るようなリズム。
追ってきている、確実に。
「ねぇねぇっ、越智くんっ!」
振り返るより先に、その声が耳に届く。
犬神千晴。さっきまで隣にいた、あの元気なやつだ。
「やっぱり、こっち来てた〜っ!
えへへっ、気になってっ!」
パタパタと登ってきたその足音は、廊下に出た瞬間――ぴょこ、ぴょことリズムを変える。
俺のすぐ後ろを、無邪気に歩いてついてくる。
(……なんで、ついてくる)
問いかけたところで、答えは返ってこない。
というか、聞いたところで理解できる気がしない。
普通、新入生が部活を見に行く時に、さっき知り合ったばかりのクラスメイトを当然のように追いかけるものなのか?
少なくとも――俺にはその発想がない。
「科学部って、このへんなんだよね〜?
うわっ、なんか、静かで実験室っぽい空気っ!」
楽しそうな声が、やたらと近い距離で響く。
(……テンションの振れ幅、大きすぎないか?)
思考の整理が追いつかないまま、理科準備室の前に立ち止まる。少し年季の入った扉。張り紙には小さく「科学部・部室」と書かれていた。
ここが、これから俺が所属する場所――の、はずだ。
扉は、鍵がかかっていなかった。
少し重たい音を立てて開くと、そこには――薄暗くて、どこか薬品の匂いが残る空間。棚にはフラスコ、ビーカー、分解途中の装置。窓際には白衣が丁寧に掛けられている。
(……悪くない)
埃はあるが、雑ではない。必要最小限が整っている感じがした。
俺はそっと中へ足を踏み入れる。
その気配を察したのか、後ろからまた足音――
ぴょこ、ぴょこ。
「わぁっ……ここが科学部の部室なんだ〜〜っ!」
犬神が、目を輝かせて中をのぞき込んできた。
「……部外者、だよな?」
「えっ、ダメなの? ちょっと見るだけっ!ほらほらっ、この器具とか、めっちゃ本格的〜〜っ!」
彼女は棚にあった小さなアルコールランプを手に取り、まるでおもちゃでも見つけたかのように、きゃっきゃとはしゃいでいた。
(……触るな。割るな。お願いだから静かにしてくれ)
心の中で何度も念じる。
だが、犬神千晴という存在は、どうやら**“観察不能な自然現象”**らしい。
「これ、もしかして爆発とかするヤツだったりする〜?」
「しない。……というか、点けるな」
「わふっ!? ……って、越智くんの声、ちょっと強めだった〜っ!」
そう言って、くぅ〜ん……と困ったように眉を下げる。
でも次の瞬間には、いつもの調子でにぱっと笑って、ランプをそっと棚に戻していた。
(……切り替え、早っ)
彼女の無防備なリアクションと声のトーンが、この静かな部屋の空気をじわじわと押し広げていく。
犬神は、部室のあちこちを見てまわりながら、相変わらず楽しそうに鼻を鳴らしていた。
「ねえねえ、これって何するやつ?
試験管とか……あ、これ理科の授業で見たことあるっ!」
「蒸留用のガラス器具。……触るな、倒れる」
「わわっ!? は〜いっ」
素直な返事とは裏腹に、好奇心は止まらないらしい。
俺は白衣の掛かった棚を確認しながら、ふと口を開いた。
「……お前、科学部に入るつもりなのか?」
「ん〜〜、違うよっ」
犬神は棚の前でぴたりと止まって、くるっと振り返る。
「わたしはテニス部に入る予定っ!
小学生の頃からずーっとやってるんだ〜♪
杉本先生が顧問って聞いて、それもなんか安心しちゃってっ!」
そう言って、にぱっと笑う。
(……杉本先生が顧問で、安心?)
部活の選択に“安心感”を基準にするあたりが、どこまでも彼女らしいと思った。
俺はてっきり、“走れそうだから”とか“動きたいから”とか、もっと衝動的な理由で選んでいるのかと。
(……意外と、ちゃんと考えてるんだな)
犬神はそのまま、部屋の隅にあった棚の引き出しをひょいっと引っぱって――
「わあ〜っ、試験管だらけだ〜っ!しかもキラキラに並んでる〜っ!こういうの、なんか……好きかも〜っ、ウズウズする〜〜っ!」
「触るな。ガラスだ。割れたら弁償だからな」
「うぅっ……そんな言い方しなくてもいいじゃん〜っ!ほらっ、ちゃんと手は後ろっ、見てるだけモードですっ!」
慌てて引き出しを戻しながら、口を尖らせてこちらをチラ見する。
その様子を見て、思わず口の端がわずかに緩んでいた。
(……なんなんだ、こいつ)
俺の中の予定にはなかった。
部室見学に“第三者”が同行するという時点で計算外だったが、それ以上に、局所的とはいえ、ここまで空気を撹乱するノイズ因子が存在するとは――完全に予測外だった。
そんな俺の思考とは裏腹に、犬神は棚の前で屈みこみ、白衣の袖を指先でいじっていた。
「こういうの、なんか……かっこいいよね。
越智くんが、ここで白衣着てるのとか、想像しちゃうかもっ」
「……やめろ。気持ち悪い」
「えぇぇ〜〜〜!? せっかく褒めたのにぃ〜〜っ!
くぅ〜〜ん……」
感情表出の比喩として“しっぽが垂れる”という現象があるならば、まさに今の彼女がそれに該当する。
(……思ったより、わかりやすいやつだな)