第19話『観測不能の鼓動』
【4月14日(火)21:00/越智隆之 自室】
部屋を出て、廊下をひと歩き。
タオルと着替えを腕に抱え、その感触を確かめながら、静かに風呂場へと向かった。
(……犬神。今日のあいつの表情……)
屋上で弁当を広げた時。
無邪気に笑った、その直後――ふっと瞳の奥に曇りが差した。
あの一瞬、意図的に隠された小さな“翳り”を、俺は確かに“観測”した。
それが何なのか――判断材料が足りない。
最適解は、不透明だ。
背中に貼りつくような“気配”。
怒りや恨み、“睨まれている”と感じたという犬神の反応。理屈では説明がつかない。
けれど――そこには再現性も、意図的な演技も感じられなかった。“体験”として、それは確かに存在したのだろう。
そして――あの犬神の見た“夢”。
それは、ただの幻想じゃない。
いじめられていた頃の河田。泣き出しそうな顔を、何とかこらえていた。
……その後ろに、もうひとつの記憶。
誰にも気づかれないまま、砂場にひとり座っていた幼い河田が、ぽつりと呟いたという。
――大きくなったら、誰かを助けられる人になりたい。
(……犬神の潜在意識、か。それとも……河田の“願い”のような想いに、彼女が“呼応した”のか――)
犬神は「受け取った」と言っていた。
俺も――あの日、犬神神社の中で“何か”に触れた。
科学では定義できない、“常識の境界”を越えた何かに。
(……犬神神社には、解明できない“異常値”がある)
“観測”しただけでは足りない。だが――“干渉”する資格は、俺にあるのか?
そう思ったとき――ふと脳裏に浮かんだのは、あの日の河田の姿だった。
初めて科学部を訪れた彼女は、どこか強張った表情をしていた。
けれど――にぎやかでどこか温かい、あの部室の雰囲気に包まれて、少しずつ彼女の緊張が和らいでいくのが分かった。
笹倉のカフェでは、明らかにテンションが上がっていた。コーヒーのカフェインによる刺激反応と考えるのが妥当だろう。
ただ観察するかぎり、それは単なる生理的変化だけではなかった。
笑顔の裏に、わずかだが“意図”のようなものが見えた。
あの高揚は――「現状の自分を、不十分と認識している者」のそれに近い。
分析は不完全だが、記録に残す価値はある。
(俺は……どこまで踏み込んでいいんだ)
誰かの“最適解”を導くことは得意だ。
けれど――“傷”を抱えた誰かに寄り添う答えだけは……“心”の解答は、式にできない。
理屈の方程式は解けても、“心”の答えはいつも未知数だ。
その思考のまま、気づけば脱衣所の前に立っていた。
深呼吸を一度だけして、何も考えないように――ドアに手をかける。
ガチャ。
「きゃああああああっっ!?!?!?」
視線が――ぶつかった。
脱衣所の奥。背中を向けていた彼女が、音に気づいてゆっくりと振り返る。
乾いた髪が肩にさらりとかかり、素肌に沿うバスタオルが、思った以上に無防備だった。
白いシャツはすでに脱ぎ終えていて、タオルの下から、ブラのホックがわずかに覗いている。
完全に“脱衣所モード”の朝比奈こころと、その逃げ場のない視線が、同時に俺を貫いてきた。
そして、彼女の顔が一瞬で真っ赤に染まっていくのを、ただ見つめたまま――
「た、たかちゃん何勝手に開けてんのよぉおおおおお〜〜〜っっ!!」
俺は静かに、何事もなかったかのようにドアを閉めた。
「……風呂に入るだけだった。お前が使ってるとは知らなかった」
冷静に言った。
だが、脳内では――予測不能のノイズが走っていた。
鍵が開いていたことも、脱衣所に彼女がいたことも――そして、真正面から視線が交わったことすら、予測にはなかった。
バスタオルとブラ一枚だけで立ち尽くす姿――……これは、“事故”の範囲では済まされない。
……いや、冷静になれ。情報を整理しろ。
脱衣所の扉は、静かに閉じられている。
その向こう側に広がるのは、今まさに“未知の領域”だ。
想像をかき立てるには十分な静けさ――
……その中で、脱衣所の向こうから小さな声が漏れた。
「……ね、たかちゃん……お願いがあるんだけど……」
「……なんだ」
「……入ってきて……ブラ、ホック外して……」
一瞬、間を置いた。
けれど、その声は本気で困っている響きで――
やれやれ、と息をついてドアを開ける。
中に戻ると、こころはタオルを胸元でぎゅっと押さえたまま、そっぽを向いていた。
その背中から、気まずさと照れがにじみ出ている。
……無言の圧が、明確に感じられた。
けれど俺は、あえていつも通りに振る舞う。
深く詫びると逆に気まずさが増すのは、この手のケースでは明白だ。
「……シャツ脱ぐときにね……ちょっと手が届かなくなっちゃったのっ……」
無言で後ろに回る。
こころは、タオルがずれそうになるのを気にしてか、両腕で抱えるように押さえ直していた。
タオル越しに指先が触れた。
わずかに沈む感触と、その奥にある柔らかさが伝わってくる。
物理的には厚みのある布のはずなのに、不自然なほど“近さ”を感じた。
「……動くなよ」
「……ん」
かちり――。
小さな音と共にホックが外れる。
タオルがわずかに肩口で揺れ、息が止まるような間が落ちた。
「……ありがと」
その声は振り返らず、少し震えていた。
そして、ふっと小さく笑って――
「ふーん……そうやって冷静装ってるけどさ〜〜?
ほんとはちょっと……“ドキドキ”したんでしょ〜〜?」
「していない」
「え〜〜〜〜!? 観測ログには、ちゃんと残ってるんじゃないのぉ〜〜??」
「ログは記録しない。分類不能の異常データだ」
こころは、ふにゃっと笑いながら指をぴょいっと立てた。
「じゃあ、その心拍数……測ってみよっか? 背中、流してくれてもいいんだよぉ〜〜?」
「その選択肢は排除する」
沈黙。
こころのバスタオルが、ふわりと揺れた。
「……ノリ悪い〜〜〜〜〜〜〜っ!!」
(……こいつ、生徒会長だよな?)
(記録分類:認知バグ:お風呂場インシデント)
……やれやれ。風呂の時間、後にずらすべきだったな。
***
タオルを肩にかけたまま、まだ少しだけ髪の滴る状態で、俺は部屋の椅子に腰を下ろした。
湯船に浸かっている間は、何も考えないつもりだった。
……けれど、頭の中は結局、誰かの姿ばかりがちらついていた。
(河田。犬神。そして、あの“事故”の件……)
気を逸らすために、ディスプレイの電源を入れる。
ログイン画面に光が灯る頃には、日常の“観測記録”も、少しずつ“ゲームモード”に切り替わっていた。
ディスプレイにログイン画面が立ち上がる。
ユーザー名:たかちゃん
クラン:癒し騎士団(IYAKISHI)
パーティ接続:完了
本日、ログイン済み:あまちゃん/Lunaria/KanDa00(NEW!)
《たかちゃん:全員そろったな》
《あまちゃん:ふっふっふ〜〜!今日は新人くんのクラン戦デビューなのだ〜〜っ!!》
《Lunaria:守護役が配置についたわね。……これで陣形が落ち着く》
《KanDa00:構成確認。前方ヘイト誘導、可能》
《あまちゃん:きたっ!メイン盾きたっ!!これで勝つる〜〜〜っ!!》
《こころん:なにそれ?なんかの魔法!?》
《KanDa00:……誰のログだ、それ》
《たかちゃん:15年以上前の迷言。無視していい》
《こころん:あたしは観戦中で〜〜す♪ みんな、がんばれ〜〜〜っ!》
《あまちゃん:お姉ちゃん応援モードだぁ〜〜っ!?!?》
《Lunaria:観測支援、私が引き受けるわ。全体の流れは見えている》
《KanDa00:観測支援、確認》
《たかちゃん:残り敵数2。次のヘイト誘導、右後方》
《KanDa00:了承。挑発2、セット済み》
《Lunaria:静かなまま制圧する。……火力は、私が担当するわ》
《たかちゃん:後方、ラッシュ波。Lunariaカット可能か》
《Lunaria:……この波、私が断ち切る》
《KanDa00:1番:挑発/2番:防御上昇バフ セット》
《あまちゃん:新人くん強い〜〜っ!!完全に“本物の盾”だよぉぉ〜〜!!》
――その時、部屋のドアが静かに開いた。
ふわりと、湯上がり特有の香りが空気に混じる。
「たかちゃ〜ん、観戦モードって、空いてる〜〜?」
聞き慣れた緩い声が、のんびりと響く。
髪にはバスタオルを巻いたまま、淡いピンクのルームワンピをふわりと羽織っていた。
肩をわずかに露出させ、素足のまま、ゆっくりと歩み寄ってくる。
朝比奈こころ。
“生徒会長”という肩書きとは程遠い、“脱力モード全開”の姉キャラが、のそりと部屋に現れる。
俺は画面に視線を戻して、淡々と告げた。
「……入るならノックしろ」
けれど、ほんのわずかに。
視界の端に映った彼女の姿に、心拍の**誤差**が生じていた。
(観測ログ:心拍+7bpm)
――視線が一瞬だけ“迷った”。
その小さな“揺れ”を、こころは確かに捉えていた。
「えへへ〜っ、ノックしたよ〜〜。心の中で、ね?」
言いながら、こころは俺の隣――デスク横に置かれた丸椅子に腰を下ろす。
肩先が、かすかに触れそうな距離。ぎりぎりの間合い。
俺の肩にかけたタオルの端が、わずかにこころの肩に触れた。
「……ちょっと寄りすぎじゃないか」
「え? 気のせいじゃない〜〜?」
「たかちゃんってば、ほんと冷たいんだからぁ〜〜っ!」
(ピト)
今度は、肩と肩がわずかに重なりそうになる。
俺が入力するショートカットキーの合間――
こころは、体重の一部を自然に預けてくる。
湯上がりの髪から、微かにシャンプーの匂い。
ほんのり上気した頬に、まだ残る火照りが滲んでいた。
その笑顔は、その柔らかな空気と混ざって、絶妙な“無防備さ”を纏っていた。
声を出したら、この“静けさ”が崩れてしまいそうで――
けれど、沈黙を選ぶこともできなかった。
「……集中できない」
「え〜〜?なんで〜〜?
あたし、ただ観てるだけなのにっ?」
《たかちゃん:……》
《KanDa00:……回線不安定か?》
《あまちゃん:たかちゃ〜〜〜ん!?返事ぃ〜〜〜!!》
(隆之:心拍ログ、記録不能状態)
キーボードの入力が止まり、画面内の“たかちゃん”は棒立ちのまま。そんな様子を横目に、こころはにっこり笑って、耳元でささやいた。
「わたしが観てると、やっぱり、意識しちゃう?」
「……意識してない」
「ふ〜〜ん……ほんとかなぁ〜っ?」
その“からかい”に応じるように、ゲーム内ではボスがゆっくりと崩れ落ちていった。
エフェクトが弾け、画面には“VICTORY”の文字。
そしてログには、次々とリザルトのデータが流れ込んでくる。
《SYSTEM:クエストクリア!》
《パーティメンバーが離脱しました》
モニターには、戦闘のリザルトとログウィンドウ。
順にパーティが解散していく中で――隣から、ぽそっと、あの声が届いた。
「……ねえ、たかちゃん」
「……なんだ」
視線を外さずに返す。
「……この《KanDa00》って……同じクラスの神田くんでしょ?前にクランに誘ったって言ってたよね?」
「……ああ。科学部で“面白いゲームないか”って聞かれて、少しだけ話して――このゲームを勧めた」
「ふ〜〜ん……」
こころが、椅子にもたれながら小さく笑う気配。
「無口だけど、動きはすっごく正確だったな〜〜って」
「タンクに向いてるタイプだ」
「……でもさ」
少しだけ、声のトーンが変わった。
「この前、生徒会の書類で科学部に行ったとき……
神田くんの目線、ちょっとだけ、揺れてたの。
話しかけた瞬間、0.7秒くらいの“遅れ”」
「……」
「視線の先にいた“誰か”に、気を取られてた感じだったよ」
(……)
沈黙を返した俺に、こころはふふっと笑った。
「たかちゃんってば、何も言わないけど――知ってるよね?」
「検索するな。俺は余計なログには――干渉しない主義だ。」
「はいは〜〜い♪ 観測者どうし、了解〜〜〜っ!」
こころの観察眼は鋭い。
でも――その“誰か”が誰なのか、あえて口に出す様子はない。そして俺も、それを口に出すつもりはなかった。
「たかちゃんはさ、恋のログとか、記録してたりしないの〜〜?」
「してない」
「ふふ〜ん……じゃあ“未保存の一時データ”ってことで〜〜?」
からかうようなその笑いを背中に受けながら、ディスプレイの画面を閉じた瞬間――ポーン、とスマホが軽やかに鳴った。
(……通知?)
表示された名前は、“犬神千陽”。
新規トーク。初めての――RINE。
「えっ……」
こころが、ぴたりと肩を寄せたまま、覗き込んできた。
「……たかちゃん、今のって……」
「犬神からだ」
「へぇ〜〜〜〜〜〜〜……」
妙に声が伸びてる。なぜか視線がちょっとだけ刺さってる。届いたメッセージは、短くて、でもやけに印象に残る文面だった。
ちはる『えへへっ、きょうはありがと〜〜っ♡
RINE、ためしにおくってみたのっ!
とどいてたら、うれしいな……っ(わふっ)』
文面だけで、犬神の笑顔が浮かぶ。
(……届いてる。問題なく)
「……ふ〜ん。RINE交換、したんだ」
「……ああ」
「……ふ〜〜〜ん」
間があった。
こころはスマホから視線を逸らすと、頬杖をついたまま、少しだけ首をかしげて――横目で、俺を見た。
その仕草に、思わず目が引き寄せられる。
「……ん〜、わたし、あんまり得意じゃないんだよね。RINEとか、はじめての人に聞くの、ちょっとだけ……気恥ずかしいっていうか」
……その横目の一瞬に、数秒だけこちらの集中が奪われた。
それでも――こころの中の伝えようとする意志は、確かにそこに宿っていた。
……視線をスマホへと戻し、そのまま画面を見つめながら――俺は、少しだけ迷って、スタンプを選んだ。
ポン、と柴犬が“OK!”ポーズを決めるスタンプを送信する。
「……それで返すんだ?」
「文章を選ぶより、速い」
「ふふ……でも、それで十分伝わるんだね」
こころは、スマホの画面をそっと見て笑った。
そして――ちいさな声で、ぽつりと。
「……私も、ちはるちゃんとRINE交換……してみたいなぁ……」
照れ笑いと、ほんの少しの勇気が混じった横顔。
そのつぶやきには、“一歩踏み出してみたい”
――そんな淡い願いが、表情の奥に滲んでいた。
こころはスマホを見つめながら、しばらく無言だった。
画面には、さっき送った柴犬のスタンプが、変わらず“OK!”ポーズで微笑んでいる。
けれど次の瞬間、ふいに目尻を押さえる素振りで――
「うぅっ……隆之が……他の女の子とRINE交換……」
「……?」
「お姉ちゃん……お姉ちゃん、感動してますぅ……っ!!」
胸に手を当て、涙ぐんだフリをしながら、芝居がかった動きで床にくずおれる。
「ずっと、無口で無感情だった弟が……っ!」
「それなのに、“ありがとう、RINEするね”って……! たかちゃんが……そんな優しいやりとりができるようになるなんてっ……!」
「……ただ、柴犬のスタンプを送っただけだ」
「でもそれが! それがねっ!? すごいことなのっ!!」
「奥手で、理屈でしか動けない弟が……女の子と、連絡先を交換した奇跡っ!! これはもう、尊いのっ!!!」
(……やかましい)
こころはハンカチで、ありもしない涙をぬぐう演技をしてみせた。
「えぐっ……お姉ちゃん、今夜は感動で眠れないかも……」
「……寝ろ」
「ぐすんっ、夜はさみしくて寝れないかも〜〜っ!」
「やさしいお姉ちゃんと寝れるチャンスだぞっ? どうだっ?♡」
「論外。仮定する価値もない」
「も〜、冷たいんだから〜っ!」
それでもこころは、どこか満足げに微笑んだまま、そっとスマホの画面に残った“柴犬スタンプ”を見つめていた――。




