第18話『香りで近づく、ふたりの距離』
【4月14日(火)17:00/Aroma Café ササクラ店内
河田 亜沙美】
カフェの奥、小さな窓から差し込む夕方の光と、天井のスポットライトが重なり、柔らかな明かりに包まれた小さな雑貨スペース。
木の棚に並ぶガラスの小瓶が、淡く光を含みながら、ふわりと甘い香りを漂わせていた。
「……わぁ……なんか、すごく落ち着く匂い……」
思わず声が漏れる。さっきまでのカフェの空気とは少し違う、やわらかい静けさ。
ふと視線を棚に向けると――
丸い瓶、四角い瓶、しずくみたいな形の瓶。
どれも手のひらに収まるくらいのサイズで、光を受けて小さくきらめいていた。
「……形もバラバラで……どれも小さくて可愛い……っ。なんか……宝石みたい……」
隣で小瓶を指先で軽く揺らした笹倉先輩が、にこっと笑った。
「ね、いいでしょ? ここ、ボクのお気に入りコーナーなんだ〜」
彼女は、ひとつのサンプル用の瓶をそっと片手に取り、もう一方の手で棚を指し示しながら、軽い口調で続ける。
「こっちはシトラス系、こっちはフローラル……で、こっちはちょっとだけスパイス入ってるやつ。香りって組み合わせで全然違うから面白いんだよ〜♪」
にこっと笑うと、慣れた手つきで瓶を両手に持ち替え、キャップに指をかけた。
「それにね、香水って時間で表情も変わるんだ。
最初にふわっと香る“トップ”は第一印象。
レモンとかベルガモットみたいに軽やかで明るい香りが多いんだよ」
キャップをそっと外し、瓶をこちらに傾けた瞬間――淡いシトラスが空気に広がり、ほんのり漂う香りが胸の奥までそっと届いた。
「少し経つと“ミドル”。オレンジの花とかジャスミンみたいなやさしい香りに変わって……最後は“ラスト”。
カモミールみたいに落ち着く余韻が残るんだ」
「……うん……この香り、“新しい朝の始まり”みたいで……元気出る……」
気持ちが、やさしくほどけていくのを感じる。
「……ね? 香りって、ちょっとした物語みたいでしょ?」
笹倉先輩は、香りを確かめるように、ゆっくりと息を吸い込んで―― ふっと目を細め、柔らかく笑った。
「……あ、ちなみにさ。ボクの“香りで恋は始まるのか”研究、順調なんだよね〜っ♪ 最近、いい“反応”があってさ〜♪」
「いい反応?……えっと、それって……どういうことなんですか?」
そのタイミングで、笹倉先輩の視線がじーっとこっちに向く。
ほんのり照れくさそうにしながらも、まるで“反応”を観察するジト目で――不意に、胸の奥がふっと跳ねた。
(……な、なんで今のタイミングで目合わせてくるの……っ!?)
胸元に置いた手が、ほんの少し汗ばんでいた。
小瓶を片手でくるくると回しながら、彼女はわざとらしく肩をすくめる。
「“香りでドキッ=恋の可能性あり”って仮説、河田さんで証明できそうだから〜っ」
「えっ!? ちょっ……ちょっと待ってくださいっ、それ実験台ってことじゃないですかぁっ!」
反射的に声が裏返ると、笹倉先輩は肩を揺らして楽しそうに笑った。
「ふふっ。でもね、恋じゃなくてもいいんだ。
“レディになる香り”ってのも……ありでしょ?」
その仕草に、ふわりと香りの余韻が寄り添っている気がして――
そのままの手つきで別の香水のキャップに指をかけ、静かに香りを確かめる。
目を細める横顔が、さっきより少しだけ真剣に見えた。
「……フェロモンってさ、匂いじゃなくて“信号”なんだよね」
「し、信号……?」
思わず声が上擦り、自分でも胸がざわっとした。
(……どうして……こんな言葉に、反応してるんだろう)
「うん。それにねっ、香りの記憶と一緒になると――
心が“ドキッ”って反応しやすくなる。
だから、“香り+フェロモン”は恋のブースターかもって……ボクの仮説」
(……恋のブースター……そんなふうに言われると……)
胸の奥が、ほんのりくすぐったくなる。香りに包まれたこの空間ごと、少し特別に思えてしまう。
「ま、まだ仮説段階だけどねっ♪ でも河田さん、いい反応してるから……ボクの研究、だいぶ進みそうだな〜っ☆」
「ちょっ……わ、わたしで実験しないでください〜っ!」
両手で顔を覆ったら、頬の熱まで閉じ込められそうで……余計に恥ずかしい。
小瓶を棚に戻した彼女は、ふわっと優しい笑顔を向けてきた。
「ね……“レディになる”ための、一歩をくれる香りってあると思わない?」
“レディ”――その言葉に、胸が小さく跳ねた。
(……素敵なレディ、かぁ……)
「……そんな香り、あるのかな……? わ、わたしも……なりたい、です……っ!」
ぽつりとこぼれた言葉に、彼女は迷いなくうなずいた。
「なれるよ。だって、“なりたい”って思った時点で、もう一歩踏み出してるんだもん」
ほんのりシトラスの香りが重なって、胸の奥がじんわりと温かくなった。
……と、そのとき、ぱちんっと軽やかな音が響く。
「そうだっ! 河田さん、“素敵なレディ”に一歩近づく場所、行ってみない?」
「えっ……?」
突然の提案に、目を瞬かせる。
先輩は、にこっとウィンクしながら、人差し指をそっと横に向けた。
「このお店の隣、“Clair Lierre (クレール・リエール)”。服も小物も……“なりたい”を見つけるのにぴったりなんだ〜っ♪」
* * *
カフェの扉を開けると、夕暮れの気配が肌にふっと触れた。オレンジ色に染まる通りを、笹倉先輩が軽やかに歩いていく。
隣に並ぶと、その横顔が少しだけまぶしく見えた。
「さ、こっちだよ〜♪」
白いドアにかかった“Clair Lierre (クレール・リエール)”のプレート。
彼女がそっと押すと、ちりん、と優しいベルの音が鳴った。
新しく仕立てられた布の、ほんのり甘くて澄んだ香り。
その瞬間、空気が一段階やさしくなった。
「いらっしゃいませ」
奥から現れたのは、優しい雰囲気の大人の女性だった。
「梓ちゃん、こんにちは。……お友達?」
「はいっ、高校の後輩なんです。河田さんっていいます」
「は、はじめましてっ……!」
胸がどきどきする。店内の落ち着いた空気と、その女性の柔らかい声に、背筋が自然と伸びた。
「この人ね、藤崎 佳乃さん。ボクのママの友達で、このお店の店主さんなんだ〜」
「ふふっ、梓ちゃんがそう紹介してくれるの、ちょっと照れるわ」
「藤崎……さん……素敵なお店ですねっ」
名前を口にした瞬間、藤崎さんが優しく微笑んで「ありがとう」と返してくれる。
そのやわらかさが、店全体に似ている気がした。
店内は淡い木目と白を基調にした、やわらかな空間だった。
間接照明が布地を優しく照らしていて、ラックに並んだ服たちが、まるで静かに呼吸しているみたいに見える。
「……わぁ……どの服も、すごく可愛い……っ」
思わず目が奪われて、胸がきゅっと高鳴る。
色合いもデザインも、ひとつひとつがオシャレで――
こんなの、着たことない。
自然と指先が布地に伸びそうになったその瞬間、笹倉先輩がにこっと笑った。
「でしょ? デザインも可愛いけど……なんか、着る人を“やさしく”見せてくれる服なんだよね〜♪」
隣にいた藤崎さんが、奥の試着室のカーテンをやわらかく示しながら微笑んだ。
「せっかくだし、一着くらい試してみる?」
「えっ……わ、わたしが……!?」
胸が一気に高鳴る。
笹倉先輩は迷わずラックを物色して――
「あっ、これ絶対河田さんに似合うやつ!」
手に取ったのは、少し背伸びした雰囲気の淡いピンクのワンピース。
柔らかい色合いなのに、大人っぽさがほんのり混じっている。
「え、えぇっ……わ、わたし……っ!? そ、そんなの……ム、ムリムリ……っ!」
受け取ったワンピースを胸に抱えた瞬間、生地のぬくもりが胸の奥をそっとくすぐった。
声が裏返って、ワンピースを持つ手がわたわたと宙を泳ぐ。
どうしたらいいのかわからなくて、視線もオロオロとカーテンと先輩を行き来した。
「ふふっ、大丈夫っ♪ 試着だけだから」
笹倉先輩に促されてカーテンの向こうに入ると、わずかに緊張した空気と新しい布の香り。
生地が肌に触れるたび、鼓動がさらに速まっていく。
(……こんなの、初めて……っ)
* * *
カーテンをそっと開けた瞬間、空気が少し変わった気がした。
鏡越しに映った自分の姿――見慣れた制服じゃない。
少しだけ、大人に近づいた“誰か”がそこに立っていた。
「……ど、どう……ですか……?」
恥ずかしさで声が小さくなる。
笹倉先輩は、きょとんとしたあと、ぱっと目を輝かせて――
「……わぁ……河田さん……めっちゃいい……!」
ワンピース姿のわたしを見て、ふわっと笑顔になる。
「うんうんっ♪ ……すごく“大人っぽいレディ”って感じ。今の河田さん、ほんと素敵だよ〜っ☆」
その言葉が胸にまっすぐ届いて、頬がじんわり熱くなった。
「……今の河田さんも素敵だけど……」
笹倉先輩は少し考えるように、わたしの顔を覗き込んで――
「ね……もしメガネ外したら、さらに雰囲気変わるかも。コンタクト、試したことある?」
「えっ……!? な、ないですっ……!」
耳まで一気に熱くなる。
にこっと笑って、少しだけ柔らかい声で続ける。
「そっか〜。……でもさ、“なりたい”って思った時点で、もう変わり始めてるんだよ。香りだって、選んだ瞬間から“その人らしさ”になるでしょ? 外見も、中身も、きっと同じだよ」
そう言って、片目をそっと閉じるウィンク。
その仕草と一緒に、その言葉が心にまっすぐ届いて、やさしく残った。
(……わたし、本当に……そんなふうに、なれるのかな)
笹倉先輩はそのまま棚をくるりと見て――
「あっ、これとこれ……色違いだけど、並ぶと絶対可愛い!」
手に取ったのは、わたしのワンピースと同じデザインの淡いミントカラー。
「ね、せっかくだし“お揃い”してみない?」
「お、お揃い……っ!?」
耳まで一気に熱くなるのがわかった。
「ふふっ、今日の“レディになる一歩”……一緒に残そうよ♪」
──数分後。カーテンがそっと開いて、ミントグリーンの布地がひらりと揺れた。
そこに立っていたのは、淡い色合いのワンピースに着替えた笹倉先輩。
金髪のポニーテールが、やわらかな色と不思議なくらい似合っていて……思わず、息を呑んだ。
「……どうかな? ボク、似合ってる?」
少しだけ首をかしげる仕草に、胸がきゅっと高鳴る。
「……す、すごく……っ! 先輩、めちゃくちゃ可愛いです……!」
彼女と並んで鏡の前に立った瞬間、胸の奥がふわっと温かくなった。
淡いピンクとミントグリーン。色違いなのに、どこか並ぶとしっくりくる。
「わぁ……本当に……お揃いだ……」
思わず口からこぼれた声は、自分でも驚くくらい柔らかかった。
そのとき、そっと背後から声がした。
「ふふ……とっても素敵。写真、撮ってあげようか?」
振り返ると、藤崎さんがやさしく微笑んでいた。
「えっ……!? あ、はいっ!
ぜひお願いしますっ!」
「スマホ、どっちか貸して?」
慌ててポケットからスマホを取り出すと、藤崎さんは受け取りながら、ふんわりと笑った。
「ふたりとも、本当にいい顔してる」
藤崎さんは微笑んだまま、スマホをそっと構えた。
「じゃあ、ちょっとだけ近づいて……はい、笑って♪」
シャッターの音と一緒に、淡い香りと笑顔がそのまま切り取られた気がした。
笹倉先輩は、にこっと笑って小さく肩をすくめた。
「ね? なんかさ……今日の“時間”と“香り”、すごく良い思い出になりそうな気がする」
(……今日の時間と、香り……)
胸の奥に、その言葉が優しく落ちていく。
「……この写真と……笹倉先輩と過ごした“香りの時間”……ずっと大切にしますねっ」
言葉にしたら、頬が少し熱くなった。
笹倉先輩は、そんなわたしを見て、ふわっと優しい声で言った。
「……うん。ボクも……今日のこと、きっと忘れない」
鏡に映ったふたりの笑顔が、そっと重なって――
淡い光と香りに包まれるみたいに、時間が静かに流れていった。
* * *
【4月14日(火)21:00/笹倉 梓 自室】
湯気の残る部屋。
タオルで髪を拭きながら、ベッドに腰を下ろした。
ほんのりシトラスの香りが、まだ肌に残っている。
「……河田さん、今日ほんとにいい顔してたな」
ぽつりとこぼれた声は、湯気の中に溶けていった。
ふと、カフェで囲んだテーブルの景色が蘇る。
紅茶とクッキーの香り、優しい笑い声たち――
あの空気が、今も胸の奥でそっと灯っている。
……香りって、ほんとに記憶と一緒に残るんだな。
あの時間も、今日のこの香りも……きっと忘れない。
指先で、小さな香水の瓶をそっと転がす。
淡いシトラスの余韻が、静かに広がった。
こうやって笑ってる時間が、
誰かの“最初の一歩”になるなら――
ボクは、ずっとその隣で笑っていたい。
その想いだけが、優しく胸の奥に残った。




