第15話『とびっきりの香りと、居場所の予感』
【4月14日(火)15:45 放課後/河田亜沙美】
黒板を消し、日直ノートを記入して、窓と電気の確認をひとつずつ終える。
最後にもう一度だけ教室を振り返って――そっとドアを閉めた。
その戸締まりのひとときが、心を整えるのにちょうどよかった。
カバンの持ち手を、ぎゅっと握る。深呼吸をひとつ。
ほんの少しだけ、胸の奥に沈む気持ちを抱きながら、私は理科棟へと歩き出した。
⸻
いくつかの教室を通りすぎ、廊下の奥へと進む。
やがて足を止めたのは、理科棟のいちばん奥。
校舎のざわめきがすっと遠のき、まるで別世界のような静けさが広がっていた。
扉の前で、私は小さく息をのむ。
(……この扉の奥に、越智くんや、神田くん、九条先輩が――)
ここまで来たのに、心だけがぽつんと取り残されたみたいで、足がどうしても前に出なかった。
でも、そのとき。
耳の奥に、ふわりとあの声がよみがえる。
(“あなたにとっての宝物になりますもの”……)
高橋先輩のあの声が、今も耳の奥でやさしく響いている。
そして九条先輩の微笑みが、その記憶をそっと包んでくれていた。
“新しい扉”は、もう静かに開いている。なら、次は――
(……それでも、知りたい。あの人たちが笑ってた場所を……)
呼吸を整える。
そして私は、一歩だけ足を踏み出した。
(……もし、誰もいなかったら……それはそれで、ホッとするかも……)
小さく息を吸い込んで、ドアノブを静かに回した。
ギィ……と音を立てて開けると、部屋の中は思いのほか暗い。
カーテンは閉じられ、天井の蛍光灯もついていない。
(あれ、誰もいないのかな?)
そう思った、まさにそのとき――
「か・が・く・の・チカラで〜〜〜っ! ようこそっ☆ 春の香りと笑顔の――科学部へ〜〜〜っ!!」
――パッ。
突然、部室の奥――ホワイトボードの前あたりから、まばゆい光が弾けた。
ステージに仕込まれたスイッチが作動したのか、白色LEDのスポットライトがバンッと点灯し、まるで劇場の幕が開いたように、室内が一瞬で照らし出される。
暗がりの中から浮かび上がったのは、段ボールとラバーマットで作られた即席のステージ。
その中央――まぶしいライトを浴びながら、金髪のポニーテールがふわりと宙に舞った。
その姿は、まるでライブのセンターに立つアイドルみたいで……でもよく見ると、白衣をひらりと翻す制服姿の小柄な女子生徒だった。
(……えっ、誰……!?)
制服の上に白衣を羽織ってるから、きっと科学部の人……?
でも、ポーズも決め台詞もキマりすぎてて、なんだか現実感がない。
一瞬、目がくらむほどの眩しさとテンションに、私はただ、ぽかんと立ち尽くすしかなかった。
「科学とアイドルの融合っ☆彡
実験系すぺしゃるアイドル、笹倉梓っっ! 本日ここに爆誕〜〜っ♪」
くるりとターンすると、白衣の裾と制服のスカートがふわりと舞い上がる。
すっと足を揃えて笑顔のまま止まると、胸の前で、ゆっくり両手を重ね――ハートマークをかたどった。
(……この人が、噂に聞いてた笹倉梓……先輩)
ちょっとびっくり……いや、かなりびっくりかも。
思ってた“科学部”のイメージ、完全に覆された。
すごいテンションで名乗ったその姿は、まるで本物のアイドルみたいで――気づけば、わたしは“そのステージ”のすぐ前に立っていた。
「あなたのハート、化学でキャッチっ♡」
そう囁くように言って、腰のポケットから――
きらりと光る“本物のマイク”を、片手でシュバッと取り出す!
そして――
「は〜いっ! ここからが、本当の“香り革命”っ☆
香りでキミのハート、狙い撃ちっ――ばきゅん♪」
マイクを掲げたまま、もう片方の手で“ばきゅん”ポーズっ!ポニーテールが揺れて、白衣がふわっと舞い――
教室が一瞬、キラキラに染まった気がした。
(えっと……これって……演出??)
「さあ、香りで春を召喚っっ!!
《スプリング・サクラ・ブロッサム No.1》、全力投香ぁ〜〜〜〜っ!!」
「香りの中に、春のぬくもりを込めて……
新入部員さんっ、たっぷり浴びてってねぇ〜〜〜っ♡」
ピースして、ターンして、ウィンクまでして。
――笹倉先輩は、ノリノリのアイドルになりきっていた。
……と、思ったのも束の間。
\ボフンッ!!/
突如、装置のノズルが“ぴゅるるるっ”と逆回転して――
あっという間に、教室が“何か”に包まれた。
\しゅばぁっ/ → カレーのスパイシーな香り
\ぱふっ/ → チョコレートみたいな甘い香り
\ぶしゅぅぅっ/ → 懐かしい駄菓子のにおい
\ぽんっ/ → ふわっと広がるラベンダーの香り
\しゅぅ〜っ/ → 鼻の奥がすーっとする、クールなミントの香り
「うわっ!? な、なにこれ!? 匂い、混ざってるっ!?!?」
くんくん……ってしてる間にも、次々と押し寄せてくる――カレーのスパイシーな香り、チョコみたいな甘さ、駄菓子のなつかしい匂い、ラベンダーのふわっとした癒し、そしてミントのすーすー感っ!
(ど、どれも個性が強すぎる〜〜っ!!)
鼻の中がてんやわんやで、どれを感じてるのかもう訳わかんない!
それどころか、脳内で全ジャンルの香りが、椅子取りゲームを始めたみたいで――
しかも!誰も譲る気ゼロのガチ勢っ!!
「香り制御、異常反応」
「芳香率、想定の220%超過。危険域」
ホワイトボードのすぐ裏、ステージ機材の裏方スペースでは――越智くんと神田くんが、いつもの冷静モードで淡々と分析を続けていた。
それよりこっちは鼻と脳で椅子取り合戦どころかガチバトル中!
(……もう無理。混ざりすぎて、頭の中がぐるぐるする……)
でも、その混乱の中で――ふと、気づいた。
(……香りって、戦場なんだ……)
そんな香りの戦場の中心で、当の本人は――
「……あれれっ!? これ、ちょっとだけ盛りすぎちゃったかも〜〜っ☆」
満面の笑みで、悪びれる様子ゼロの笹倉先輩。
白衣の袖で鼻をぱたぱた扇ぎながら、ふいに後ろへ下がろうとした――そのとき。
「やばっ……足っ、もつれたぁ〜〜〜っ!」
足元のコードに、つまずいて――
\ドテッ!/
「せ、先輩っ……!?」
思わず声を上げたわたしの前で、笹倉先輩はステージに尻もちをついていた。
でも、まるで何事もなかったかのように、ステージの上で片膝を立てて座ったまま、こちらを見て――にっこりウィンク。
「ふへぇ……あはは〜☆ 実験、失敗しちゃった♪
てへぺろっ☆」
その笑顔は、まるで転んだことすら“演出”していたかのようで――
ずるいほどに愛されオーラを放っていて、私は瞬きを忘れるほど見とれてしまった。
……と、その姿を見たとき、ふと気づいた。
白衣の下のスカートが、ふわりとめくれていて――
気づけば、ちょっと大胆なポーズに。
ゆるく開いた太もものあいだから、ふわっと可愛い水色のパンツがちらり。
……しかも、前側には、ちょこんと〝わんこの刺繍〟。
(えっ……見えてる……!?)
びっくりして、思わず目を逸らしてしまった。
でも、見て見ぬふりなんてできない。
心を決めて――そっと足を踏み出し、近くまで歩み寄る。
「……先輩。
スカートの中……その、“わんこ”、見えてます……」
目を伏せたまま、小さな声で、そっと伝えた。
「……えっ……」
笹倉先輩は、一瞬フリーズしたあと、
顔がぱあっと真っ赤になって、白衣をばさばさ整えながら、慌てて立ち上がる。
でも勢い余って、ぐらりとよろけて――
「わ、わっ……ふぇぇ〜〜っ☆」
そのまま勢いよく、ぐるりと回って――見事に、ぺたん。
「わああ〜〜〜んっ!! ボク、もう……お嫁に行けな――あっ、でも……見たの、女の子……な、なら……ぎ、ぎりセーフ〜〜〜っ!?!?」
(……こ、こんな先輩、初めて見た)
両手でスカートの裾をぎゅっと押さえて、ぷるぷる震えるその姿は――とびきり可愛くて、ちょっと変で……。
でも、なぜだろう。
この人のこと、もっと知りたいって――そう思ってしまった、私がいた。
……と、その頃。
ホワイトボード裏のステージ裏方エリアでは、越智くんと神田くんが、嵐の後とは思えない手際で、淡々と後処理を進めていた。
慣れた手つきでモニターとコードを整える姿は、もはや“裏方職人”の域だった。
「香りの拡散率、異常上昇。設定ミスだな。」
隣で、越智くんが手際よくコードを巻いていた。
動作に無駄はなく、騒動の余韻など微塵も感じさせない。
神田くんが小さく頷き、すぐにノートPCへ指を走らせる。
「ログは取ってある。アレクサ、除臭モード。」
その声に反応して、壁際の空気清浄機がピッと短く音を立てた。
混ざり合った香りを吸い込みながら、部室の空気が少しずつ落ち着いていく。
まるで“香りの嵐”も、“ステージ騒ぎ”も関係なかったかのように、
「視覚トラブルは――未検出で処理」
「当然だ。何も起きていない」
ふたりとも、最初から平常運転だったみたいに、
いつもの“科学部モード”に戻っていった。
(……やっぱりこの人たち、マイペースの極みだ……)
思わず心の中でツッコミそうになったけれど――
たぶんこれが、科学部の“いつもの光景”なんだと思う。
誤作動で拡散された香りは、まだ空気の中で入り混じっていた。
甘くて、優しくて、どこか懐かしい――けれど、ちょっと混沌としてる。
なのに、不思議と胸の奥がふわりと温かくなった。
「ふふっ……なに、これ……っ」
涙がにじみそうになるのをこらえながら、自然と口元がゆるむ。
――計算されてるようで、どこか抜けてて。
そんな、少し不器用なやさしさで迎えられることが、なんだかすごく嬉しかった。
そのあたたかさの余韻が残る中、
目の前で笹倉先輩が白衣をぱたぱた整えながら立ち上がると、にこっと笑って、ピースをしてみせる。
「改めましてっ♪ ようこそ、科学部へ〜〜っ☆
来てくれて、ありがとっ♪ さっきは、ちょっとドタバタだったけど……!」
ふわっと金髪ポニーテールが揺れる。
片手を胸にあて、まっすぐな声で続けるその仕草に――私は、どこか見覚えのある面影を重ねていた。
(……なんだか、犬神さんにちょっと似てるかも)
急にきりっと表情を引き締めた彼女は、白衣の裾をきゅっとつまんで、小さく一礼。
「……あ、えっと!」
「改めましてっ! 日向高校の2年生〜っ☆
ボク、笹倉梓ですっ!
香りと化学の融合を日々探究する、実験大好き科学部員っ♪」
そう言って、今度は試験管を持つような仕草でポーズを決めて、にっこり。
「さっきのは……ちょっと香料ミックスが暴走しちゃったけど……まぁ、“記憶に残る”って意味では、大成功っ……だよねっ♪」
その無邪気な笑顔に、胸がじんわりあたたかくなる。
眩しいな、と思った。
目を逸らしたくなるほどの光だったけれど、
それでも、ちゃんと――見ていたかった。
「……笹倉、先輩……」
私は、ほんの一歩、前に出る。
「あの……はじめまして。河田、亜沙美です。
……まだ、よくわからないことだらけですけど……
よろしくお願いしますっ」
少し震えた声だったかもしれない。
でもそこには――自分自身の、“これから”の覚悟があった。
「うんうん♪ よろしくね〜っ!」
笹倉先輩は、白衣のポケットから小さな香水スプレーを取り出して、くすっと笑ってウィンクした。
「香りのことなら、ボクに任せてねっ!
好きなのはもちろん、“似合う香り”ってあるんだよ〜〜っ」
そこで一瞬、白衣の裾を軽く整えて、髪を指先で払うように直すと――また、弾む声で続けた。
「……それにね? 香りだけじゃなくて、ファッションとかメイクとかも――“その人らしさ”を見つけるの、大好きなのっ!」
「よくわかんなかったら、いつでも聞いてっ!
一緒に、ピッタリの“自分”を探そっ♪」
明るく差し出されたその言葉に、思わず息が止まった。
ちょっとオーバーなくらいキラキラしてるのに――不思議と胸の奥にすとんと届く。
笹倉先輩は、ほんの少し身を乗り出しながら、まっすぐな瞳でこちらを見つめていた。
その笑顔があたたかくて、気づけば――私は口を開いていた。
「……わたし、ファッションとか全然分からないし……そういうのって、自分には無理だって思ってたけど――」
一瞬だけ視線を伏せて、でもすぐにふわっと笑う。
「でも……なんか、すっごく楽しそうで。ちょっとだけ――やってみたいなって、思っちゃいました」
気づけば、声がほんの少し弾んでいた。
不器用な私だけど、今日はちょっとだけ素直になれた気がする。
「河田ちゃん……めちゃくちゃかわいいっ!!
もう、ぜっったい似合うって! 一緒に輝こうねっ☆」
「そ、そんなの……恥ずかしい。でも……ちょっと、嬉しいかも」
(……エネルギーがすごい。あんなふうに、自信を持って笑えるって……本当にすごい人だ)
私も、こんなふうに笑えるようになれたら、どんなにいいだろう――
その感情が胸に広がった直後、先輩がこちらを見て柔らかく微笑んだ。
「……ふふっ、それじゃあ、ボクは調香に戻るねっ。
よかったら、ゆっくりしていってね〜〜っ♪」
笹倉先輩は白衣の裾をふわっと揺らしながら、部室の左奥――香りの漂う、彼女だけの“調香スペース”へと歩いていく。
そのあとに、ほのかに甘い香りがひとすじ、そっと空気に溶けて残った。
そんな中、ふと――
入れ替わるように、すぐそばにいた神田くんが、机の上を片づけながらぽつりとつぶやく。
「……香りで、気持ちごと残してくタイプだよな、あの人」
淡々とした口調。
けれどその声には、どこかあたたかい余韻があった。
「……笹倉先輩、何度も口にしていた。『せっかく見学に来てくれるから、全力で歓迎したい』って」
「……え?」
「ちょっとやりすぎたけど……気持ちは、本気だったと思う」
神田くんは、こちらを見ないままノートにペンを走らせ続けていた。
だけどその声は、不思議なくらいまっすぐで、そっと心に触れてくるような優しいぬくもりを帯びていた。
(……笹倉先輩の優しさが、ちゃんと伝わってきた)
――と、そのとき。
やわらかな声が、部室の手前側から背中越しにふいに届いた。
「ふふっ……ごめんなさいね」
紅茶の香りがふわりと混ざり、思わず振り返った。
「梓の“歓迎パフォーマンス”、少し驚かせてしまったでしょう?」
入口すぐ横のソファに座っていたのは――九条詩織先輩。
今朝の通学路で出会って、保健室で寄り添ってくれて。
そして中庭では、穏やかなまなざしで包んでくれた人だった。
「体調はもう、大丈夫かしら? 無理はしないでね」
「……はい。ありがとうございます」
私が返した声に、ほんのりと優しい香りが混ざる。
それに気づいた瞬間――そっと先輩が微笑んだ。
「今日はカモミールなの。
緊張してるなら、ぴったりの香りよ」
九条先輩はポットから静かに紅茶を注ぎ、ティーカップをテーブルに置いた。
その所作に誘われるように、私は向かいの椅子に腰を下ろす。両手でカップを受け取り、小さく会釈した。
「……いただきますっ」
ふわりと香ったカモミールが、鼻先を優しくくすぐる。
可憐な小花の模様があしらわれたティーカップ。
そこから立ちのぼる香りに、いつの間にか気持ちがふわっと和らいでいた。
そしてひと息つき、そっと紅茶を啜る。
その紅茶の味わいが、じんわりと心まで沁み渡っていった。
「……ふふっ。ちなみに、それは玲奈からいただいたティーカップなの。
紅茶好き同士の、ささやかな贈りものよ」
「……高橋先輩からの――とっても、オシャレなティーカップ…ですね」
両手の中のあたたかさを感じながら、私は小さく息を吐いた。
この器に触れているだけで、不思議と背筋が伸びる気がする。――凛としていて、気品があって。
少しだけ、あの先輩みたいになれたような、そんな気がした。
こんなふうに、誰かの“選んでくれたもの”が、そっと自分の輪郭を温めてくれることもあるんだ。
紅茶の香りが、まだふんわりと漂う中――
部室の中央でノートを閉じる音がして、ひと息おいてから低い声が響いた。
「初対面……かと思ったが」
視線を上げたその先。
神田くんと並んで座る越智くんが、私を見ていた。
「お昼に九条先輩と会っていたなら、問題ない。
空気に慣れるのも早いだろう」
私は一拍おいて、胸元でそっと両手を重ねて口を開いた。
「うんっ……緊張はしてるけど……なんだか、ここって不思議と安心できる気がして」
「無理に話す必要はない。ここは、そういう部だ」
越智くんがノートに視線を戻した、その直後。
「――その通り」
部屋の奥の研究エリアらしき場所から、静かな声がすっと届いた。
「どんなに言葉を重ねても、本質は“態度”に現れる。
私はそれを記録する」
不意に振り向くと――
奥の研究机に、まるで最初からそこにいたかのように、ひとりの先輩が静かに座っていた。
銀髪はすっきりと束ねられ、動きに一切の無駄がない。
その姿に、私は思わず息をのむ。
「神堂沙月。三年。この科学部の部長にして、“観察と記録”の管理者でもある」
言葉は淡々としていて、感情の波は見えない。
それでも圧迫感はなく、むしろ空気を引き締めるような凛とした気配をまとっていた。
「……あの……えっと……」
どう返せばいいのかわからず、私は思わずティーカップを両手で包み込んだ。
紅茶の香りとともに、指先に残るぬくもりがまだ消えない。
神堂先輩は一拍の間を置くと、少しだけ口調を和らげる。
「大丈夫。これは試験ではない。“観察”とは評価ではなく――仮説を立てるための行為よ」
「あなたが何を感じて、どう動くか。その過程と結果を、私は静かに見届けるだけ」
ほんの少し声を落としながら、言葉を継ぐ。
「仮説ではあるけれど……あなたには、“観る者”の素質があると思う」
「目立たず、干渉せず、けれど静かに見守り、記憶する。そういう人は、多くないわ」
そう言って、神堂先輩は椅子を引いて立ち上がり、一歩こちらへ近づく。
「自分の存在を抑え、場の呼吸を見極めてから動く。
言葉を選び、反応の仕方で雰囲気を調整する――」
「それは、この部に、必要とされる力よ」
「……わ、わたし……」
声がかすかに揺れる。
けれど先輩は、その迷いさえ否定せず、静かに見つめてくれていた。
「入部を強制する気はない。ただ――もし、少しでも“知りたい”と思ったなら」
「私たちは、その選択を歓迎する」
その言葉は、まるで心の奥に一つの“問い”をそっと置いたようだった。
「ね、沙月先輩の言葉って……ちょっとドキッとするでしょ?」
奥の研究スペースからふわりと声がして、スプレーボトルを手にした笹倉先輩が、こちらに首を傾けながら楽しそうに笑いかけてきた。
「でも、ほんとにそうなんだよ〜っ。
ボクも最初は“香りの研究”がしたいだけだったけど……ここ、けっこう居心地いいのよ〜。クセはあるけどねっ♪」
「あなたがここで、何かを見つけられるかどうか――それは、あなた次第よ」
神堂先輩のその声は、どこか冷静で、けれどそっと背中を押してくれるような響きがあった。
「…………」
私は、ティーカップを見つめる。
緊張は、まだすこし残っている。
でも――張りつめていた空気が、少しだけ和らいだ気がする。
「……また、来てもいいですか?」
その言葉に、笹倉先輩がパァッと笑顔をはじけさせた。
「もちろんだよ〜〜っ!! ボク、いつでも待ってるからねっ!」
そのあと、まるで企業秘密でも打ち明けるように、小声で付け足して――
「……とびっきりの香りを用意して、待ってるから♪」
「えっ……」
ぽかんとしたまま、先輩の笑顔を見つめる。
一体どんな香りなんだろう?
想像もつかないのに、胸の奥がふわっと弾む。
……次に来るときが、ちょっと楽しみになってきた。
私が言葉を探すより先に、奥のスペースからこちらを見やった笹倉先輩が、くすっと笑みを浮かべた。
そのまなざしの余韻の中で、静かな声があとを継ぐ。
神堂先輩だった。
「歓迎するわ。……あなたの選択を」
灰色の瞳に、あたたかな色が宿っていて――ほんの少しだけ、背中を押してくれるようだった。
ふっと静けさが戻り、さっきまで張りつめていた空気がほどけて、息が少しだけ楽になる。
そんな中で、不意に声がした。
「……今日のお前は、前に進んでたな」
そう言ったのは越智くんだった。
思わず顔を上げると、真っ直ぐなまなざしがこちらを見ていて――すると、隣で神田くんがぽつりと続けた。
「……そうだな。ちゃんと届いてたよ。お前の声。
震えてたけど、それでも前に進もうとしていた」
ふたりの言葉が、まるでひとつの想いみたいに重なって、心に沁みていく。
その優しさが、やわらかな毛布みたいに、そっと包んでくれる気がした。
「……わっ、ちょっと照れる。けど、ありがと」
そう言って微笑んだとき――心のどこかが、すとんと落ち着いた。
今日、勇気を出してこのドアをノックしたこと……。
全部、間違いじゃなかったって、今なら思える。
ほんの少しだけ、世界が優しくなった気がした。
そんなとき――
「――そうだっ!」
部室の奥でスプレーボトルを振っていた笹倉先輩が、急にくるりとこちらを振り向き、手を軽くぴょんと上げた。
「ねぇねぇっ、今日このあと、うち寄ってかない〜〜っ?」
「……笹倉先輩の…お家?」
「そう。ボクんち、カフェやってるんだ〜っ♪ 今の時間なら貸切みたいなもんだし、ほらっ、スイーツの試作品もあるしっ!」
「……カフェと、スイーツ……? わぁ、めっちゃ気になる……! いいんですかっ?」
――そのやりとりを、隣のソファで紅茶を手にしていた九条先輩が、ふと笑みを浮かべながら見守っている。
「いいじゃない。雰囲気も悪くないから、一度立ち寄ってみるのもいいかもしれないわね」
「それに今日の部は“自由解散”ってことになってるの。沙月先輩も、このあと予定があるみたい」
その声に続くように、奥から神堂先輩がちらりと腕時計に視線を落とす。
「私はこのあと、知り合いと合流する予定がある」
それだけ告げると、私と越智くん、神田くんを順に見やって続けた。
「笹倉の店、一度は行ってみるといい。気分転換にもなるし、視点を変えるには悪くない」
言い方はまっすぐでブレがない。けれど、その声はどこかやさしい“後押し”にも聞こえた。
「えっ……そ、それじゃあ……」
言いかけた私の言葉を、越智くんがさらっと受け取った。
「行ってみてもいいな。笹倉先輩のカフェ。ちょっと変わった造りだって噂もあるし……構造的に気になる部分がある」
「……オレも。甘いもん、嫌いじゃないし」
神田くんがぽつりと呟く。視線は外してたけど、その声には、ちゃんと優しさがこもっていた。
「私はまた週末に。……ね?」
そう言って、九条先輩はティーカップを口元に運びながら、静かに微笑んだ。
「やった〜〜っ!じゃあ決まりだねっ♪
せっかくだから、みんなでゆっくりおしゃべりしよ〜っ♡
今日は、新入部員ちゃんに――笹倉流、しちゃいますっ☆」
笹倉先輩が嬉しさを隠しきれないように、ぴょんっと軽くジャンプする。
白衣の裾がふわっと揺れて、まるでスイーツみたいに弾ける笑顔。
その無邪気な仕草に、わたしの胸までぽかぽかしてきた。
なんだろう……この空気。
さっきまでちょっと緊張してたのに――今なら、ちゃんと笑える気がする。
それに……笹倉先輩のカフェ、どんなところなんだろう。
ちょっと緊張もあるけど――でも、うん。
扉の向こうには、まだ知らない“わたし”が――きっと、待ってる。
……だから、行ってみたいって思った。
私の“はじめて”が、またひとつ、増える気がしたから。
* * * * * *
あとがき
科学部部室レイアウト紹介
――知識と混沌が同居する、理系のアジトへようこそ!
日向高校・科学部の部室は、文化部らしい年季の入った空間に、クセ強メンバーたちの“趣味とこだわり”がぎゅうぎゅうに詰め込まれた場所。以下、簡単なゾーンごとの紹介です♪
⸻
【部室全体】
•横長の長方形構造(6畳×2部屋分くらい)
•出入口は南側の右寄り
•コンセプトは「知識と混沌が同居する理系のアジト」
⸻
【主なレイアウト】
① 北壁中央:ホワイトボード(ステージ)
•九条詩織が整然とスケジュールを書き出すけど、梓がすぐ落書きする。
•梓の“香りライブ”の舞台にも早変わり。
② 裏方エリア(ホワイトボード裏)
•照明・音響・香り演出はここで裏操作(越智&神田)。
•梓ステージの際は裏ステージに。
③ 左奥:梓&沙月の調香・実験ゾーン
•梓の香水棚、沙月のガスコンロ、星座カレンダー。
•火気厳禁の貼り紙の横に“フレーバー着火中”の付箋あり(意味不明)。
④ 右奥:ロッカー&私物棚
•越智の記録ノート、神田の“開かずの黒箱”、梓の香水瓶など個性派ぞろい。
•沙月のロック付き棚は全員ノータッチ(というか恐れられてる)。
⑤ 南壁中央左寄り:九条詩織の紅茶コーナー
•ソファ&ティーテーブルが設置され、部室の癒しエリアに。
•空気清浄機が香りに負けて誤作動 → 火災報知器がピィィィ!の事件も。
⑥ 南側右寄り:越智&神田の共同作業机
•データ分析・機材メンテなど真面目ゾーン。
•紅茶コーナーに巻き込まれがち。
⸻
おまけ演出:部室小ネタ
•「爆発回数ランキング」黒板(1位は不動の梓)
•火気厳禁の貼り紙のすぐ横に“着火実験中”ってどういうこと?
•火災報知器 vs 香りの暴発(勝つのは……たぶん香り)
⸻
どこを切り取っても、“科学”と“感性”がぶつかり合う青春空間。
初めて来た読者さんはびっくりするかもだけど、通い慣れた部員たちにとっては――
今日もきっと、ここが「世界でいちばん楽しい実験場」なのでしたっ☆
あとがき
科学部部室レイアウト紹介
――知識と混沌が同居する、理系のアジトへようこそ!
日向高校・科学部の部室は、文化部らしい年季の入った空間に、クセ強メンバーたちの“趣味とこだわり”がぎゅうぎゅうに詰め込まれた場所。以下、簡単なゾーンごとの紹介です♪
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【部室全体】
•横長の長方形構造(6畳×2部屋分くらい)
•出入口は南側の右寄り
•コンセプトは「知識と混沌が同居する理系のアジト」
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【主なレイアウト】
① 北壁中央:ホワイトボード(ステージ)
•九条詩織が整然とスケジュールを書き出すけど、梓がすぐ落書きする。
•梓の“香りライブ”の舞台にも早変わり。
② 裏方エリア(ホワイトボード裏)
•照明・音響・香り演出はここで裏操作(越智&神田)。
•梓ステージの際は裏ステージに。
③ 左奥:梓&沙月の調香・実験ゾーン
•梓の香水棚、沙月のガスコンロ、星座カレンダー。
•火気厳禁の貼り紙の横に“フレーバー着火中”の付箋あり(意味不明)。
④ 右奥:ロッカー&私物棚
•越智の記録ノート、神田の“開かずの黒箱”、梓の香水瓶など個性派ぞろい。
•沙月のロック付き棚は全員ノータッチ(というか恐れられてる)。
⑤ 南壁中央左寄り:九条詩織の紅茶コーナー
•ソファ&ティーテーブルが設置され、部室の癒しエリアに。
•空気清浄機が香りに負けて誤作動 → 火災報知器がピィィィ!の事件も。
⑥ 南側右寄り:越智&神田の共同作業机
•データ分析・機材メンテなど真面目ゾーン。
•紅茶コーナーに巻き込まれがち。
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おまけ演出:部室小ネタ
•「爆発回数ランキング」黒板(1位は不動の梓)
•火気厳禁の貼り紙のすぐ横に“着火実験中”ってどういうこと?
•火災報知器 vs 香りの暴発(勝つのは……たぶん香り)
⸻
どこを切り取っても、“科学”と“感性”がぶつかり合う青春空間。
初めて来た読者さんはびっくりするかもだけど、通い慣れた部員たちにとっては――
今日もきっと、ここが「世界でいちばん楽しい実験場」なのでしたっ☆




