第14話『ひみつの“わんこ日記”』
【4月14日(火)12:00 ──昼休み/越智隆之】
購買の喧騒から距離をとり、屋上へ続く階段を上る。
(神田は科学部に用があると言っていた。……なら、今日はひとりか)
最上段の出入口を押し開ける。
ひやりとした風が頬をかすめ、教室のざわめきが背後へ遠ざかっていく。
この静けさ――いつもの、屋上の空気だ。
屋上のベンチのひとつに腰を下ろして、弁当の蓋を開けたとき――背後からいつもの声が飛んできた。
「やっほ〜〜っ!! 屋上、当たりだっ!!」
(……声の主は、言わずもがな)
振り返ると、扉の向こうから飛び出してきた制服姿。
スカートがリズミカルに跳ねるように揺れて、足取りもどこか弾んでいる。
声だけじゃなくて、この登場のしかたも――まさに犬神そのものだ。
「犬神……保健室まで、ちゃんと届けてくれたんだな」
「うんっ。体育の授業中に、河田さんのカバンとお弁当、届けてきたよ〜っ!」
「……様子はどうだった?」
「まだ寝てたけど、顔色は悪くなかったよ〜。先生も“安静にしてたら大丈夫”って言ってたし!」
「……そうか」
(ちょっと気がかりだったが――とりあえず、安心か)
ふと視線を上げると、犬神が一歩、二歩とこちらへ近づいてくる。
制服の胸元のリボンがふわりと揺れて――そのまま、当たり前のように俺の隣へ腰を下ろした。
そして、何事もなかったかのように弁当を膝に置き、鼻歌なんか口ずさみながら、妙にリズミカルな手つきで蓋を開けはじめた。
その仕草がどこか楽しげで、見ているこっちの力がふっと抜けていく。
……どこまでマイペースなんだ、こいつは。
すると、そんな気配を察したように――犬神が、ふとこちらを見上げた。
「……ここ、いい?」
「……もう座ってるだろ」
「えへへ〜っ、ありがとっ♪」
馴れ馴れしいにもほどがある。……というか、なんでこんなに近いんだ。
【座標ログ:犬神千陽】
▶︎ 初期着座地点:ベンチ左端から17.4cm
▶︎ 自分との距離:10.2cm(※許容最短距離を超過)
▶︎ 推定意図:馴れ馴れしい/何も考えていない(後者の確率:82%)
【香気ログ:犬神千陽(春制服)】
▶ 検出成分:石鹸系洗剤/淡い甘さ(食材由来?)/春の外気
▶ 刺激値:微弱(分類:安心系)
▶ 生体反応:無意識に呼吸深度+1.3/――
▶ [ERROR]:感情干渉値上昇。識別不能成分:***\!@&%♡♬ (感情干渉)
(……は?)
一瞬、脳の処理が止まる。
無意識に呼吸が深くなって、視界の端が熱っぽく揺れる。
(……冷静になれ、俺。これはただの“距離感バグ”だ)
そんな時――
すぐ隣から、耳に触れるような柔らかい声が投げかけられた。
「ん〜? 越智くん、どうかした〜?」
無防備に首をかしげながら、満面の笑みで俺の顔を覗きこんでくる。
(……やめろ。至近距離で、それは反則だ)
「……いや。なんでもない」
なんとか表情筋の暴走を抑えつつ、俺はわずかに目をそらした。
意識を切り替えるように、わずかに息を整える。
隣では犬神が、嬉々とした様子で弁当の包みを広げていた。
「うんま〜〜っ!」
口いっぱいにおにぎりを頬張る姿に、思わず苦笑がこぼれた。
……まったく、どこまで無防備なんだ、こいつは。
俺もつられるように、静かに自分の弁当を取り出す。
手に持った感触で、まず気づいた。
(……今日は保冷剤、ついてないな)
指先に伝わる感触――常温。
そして――蓋の密着具合も、前回の“異常”時とは明らかに違う。
(大丈夫だ。今回は普通の弁当っぽい。……安心だ)
そう思って、そっとロックを外して――
すぐに、目に飛び込んできた光景に思わず息を呑んだ。
(……あっ)
そこに並んでいたのは、柴犬の顔にデコられたおにぎりが、ふたつ。
……しかも、満面の笑みでこっちを見ている。
【視覚ログ:昼食構成】
▶︎ 主菜:柴犬三角おにぎり(表情付き。耳:海苔/鼻:黒ゴマ/舌:カニカマ)
▶︎ 尻尾:チーズをくるっと巻いた、らせん状パーツ(背面)
▶︎ 副菜:卵焼き、ブロッコリー、ウインナー(足跡型)
▶︎ 備考:見覚えのあるピンク色のピック刺し(※ハート型)
▶︎ 保存状況:今朝の気温と容器の密閉度を考慮すれば、保冷剤なしでも昼休みまでは安全圏。
(……別種の地雷だった)
思わず、そっと蓋を半分だけ戻しかけたそのとき――
「えっ!?なにそれっ、かわいすぎるんだけど〜〜っ!!」
横から犬神が、急激に距離を詰めてきた。
上体の角度は約45度、明らかに“覗き込みモード”だ。
距離、限界突破。――セーフティモード作動中。
不要な感情を一時遮断。
「ねえねえ、それって……柴犬!?うわぁ〜〜っ、しっぽもある〜っ!!!」
瞳をきらきらと輝かせて――まるで本物の柴犬が、仲間を見つけたときのような反応。
……尻尾まであったら、たぶん今ごろ千切れるほど振ってる。いや、もはや同族愛の発露。
「それ、お母さんが作ってくれたのっ?」
「……姉だ。」
「えぇ〜っ!? 越智くんのお姉さん、すっご〜〜いっ!料理上手なんだね〜っ!!」
犬神は、目を潤ませながら感心しきった声を上げる。
両手の動きにまでテンションが乗っていて、見ているこっちが少し気恥ずかしくなるほどだった。
「一度、会ってみたいな〜〜っ!」
(……もう会ってるんだが)
思わず口まで出かけたが、冷静に封じる。
さすがに、この場では黙秘一択だな。
言葉を飲み込んで、軽く息を吐いた。
犬神はというと、相変わらずのんきな顔で弁当に視線を落としている。
そのまま、嬉しそうにおにぎりを頬張って――
その目がきらりと光り、口元がほころび、頬がゆるんだ。
「ん〜〜っ♡」
一瞬、目を疑った。
視線の先――そこには、まるで“緑のじゅうたん”のように、ブロッコリーが敷き詰められていた。
……まさかの“緑一色”。
ブロッコリーで役満を狙う発想、統計的に希少種だな。
メインは俵型のおむすびが二つ。
ひとつは枝豆と雑穀入り、もうひとつは青菜と白ごまの塩むすび。
どちらもふっくらとしていて、香りは穏やか。
握りたての質感が残っていて、明らかに“朝の手仕事”の痕跡がある。
……が、それ以上に目を引いたのは、副菜のほうだ。
塩茹でブロッコリーが、まるで区画整理でもするように弁当箱を分断し、合間には、ブロッコリー入りの白和え。茎を刻んで甘辛く炒めたブロッコリーのきんぴら。
そして極めつけは――砕いたブロッコリーを混ぜ込んだ、一口サイズの“ポテトサラダ風”。
もはや、“ポテサラ”とは名ばかりで、主役は完全にブロッコリーだった。
芋は、あくまで“添え物”にすぎない。
「わあっ、ブロッコリー祭りだよ〜〜っ!」
思わず声をあげるその横顔が、ほんとうに幸せそうで……見てるこっちまで、にやけてしまいそうになる。
「……お前、ブロッコリーへの入れ込み、常軌を逸してないか」
「だって栄養満点だしっ! ビタミンCも鉄分も豊富っ!!それにね、ブロッコリーって、見てるだけでも元気になれる気がしない!?」
「……いや、しない」
思わず即答すると、犬神は一瞬だけ目を丸くして――
「えへへ〜っ、越智くんってば、ほんっと正直なんだから〜っ」
小さく笑いながら、ひと口ひと口、噛みしめるようにブロッコリーを味わっていた。
その食べ方がやけに丁寧で、見ているうちに思考がいつもの観察モードに切り替わる。
ブロッコリーの白和え&きんぴらに、枝豆と雑穀の塩むすび――どれも地味に見えるけれど、栄養バランスは“本気モード”。
「……お前の弁当、健康的すぎないか? 野菜中心で油も控えめ……よく噛んでるし」
一拍おいて、その言葉がじわじわと届いたらしい。
犬神は、小さく間を置いて顔を上げたかと思うと――
「ふふふ〜っ、よくぞ気づいてくれました〜〜っ!!」
と満面の笑みで胸を張る。
その目はキラキラと輝いていて、まるで“ごほうび待ちの柴犬”のようだ。
「そうですっ! わたし、健康オタクですっ!!
朝は白湯でリセットっ! 昼はブロッコリーでチャージっ! 夜は湯豆腐で整うのっ!!」
(……まるで一日かけてサウナの“ととのう”プログラムじゃないか)
元気すぎる口調のわりに内容は渋い。
テンションの方向性と健康志向のギャップに、つい苦笑が漏れそうになる。
「……テンションの振れ幅がすごいな」
(落ち着く暇もないくらい、感情のアクセルを踏み続けてる感じだ)
「だって、越智くんに褒められたら――元気出ちゃうじゃんっ!」
その言葉に思わず視線が泳いだ。
……なんなんだ、その理屈は。
犬神は気にも留めず、またブロッコリーを口に運ぶ。
【視覚ログ:動作連続】
▶ 一口目――もぐもぐ。しゃきしゃき。
▶ 二口目――咀嚼テンポ安定。表情、満足度高め。
……食感ログが途切れた。箸の動き、停止。
犬神がぱち、ぱち、と瞬きを繰り返す。観測データ的には“困惑寄り”。
【表情ログ:変化検知】
▶ 頬部:赤み+6%
▶ 唇:軽度の噛みしめ反応
▶ 視線:こちらにロックオン
▶ 備考:弁当箱を抱えたまま、プルプルと頬を膨らませる挙動あり。じと目。圧、強め。
(……その一連の流れ、反応の完成度が高すぎる)
「……越智くん、さっき……“よく噛んでる”って言ったよね……?」
「ああ」
「……それってさ……わたしのこと、ずっと見てたってことじゃんっ……!」
「隣だから、視界に入るだけだ」
「そーいう問題じゃないのっ!」
ぷるぷると震える声に、ついに声量まで加わる。
その反応速度と精度、犬の感情表現としては、もはや特級クラスだ。
あまりに素直な感情の揺れに、俺は無意識のうちに分析モードに入っていた。
【観測ログ:犬神千陽】
▶ 表情筋:頬・口角に緊張→照れの兆候(赤面)
▶ 音声:声量+15%、語尾伸長(興奮/羞恥)
▶ 目線:2.1秒以上持続(注視)
▶ 心拍数:+11bpm(※本人自覚:あり)
(……感情、露骨に出すタイプだな)
そう“ログ”には記録されているのに――俺自身の視線も、気づけば彼女から逸らせなくなっていた。
犬神の視線が、静かにこちらを射抜く。
「越智くんってば……わたしのこと、見すぎ〜〜っ……!」
「……分析対象だ」
「分析とかやめてよぉ〜〜っ! ぜったい照れてたもん〜〜っ!!」
【ログ補足】
▶ 観測者(俺)の心拍数:+9bpm
▶ 唇の端が0.4秒だけ上がる(感情反応:笑い)
▶ 額の温度、わずかに上昇(+0.3℃)
(……落ち着け。これはただの昼休み。観測対象、犬神に異常は――)
だが、そう思おうとするほどに、犬神の瞳に映る自分の姿が、“観測”では済まないものに思えてきた。
そのやりとりの余韻が残る中――
犬神の表情がふと、曇る。
……まるで、何かを思い出しかけたかのように。
「……あのね、越智くん。ちょっと……聞いてほしいことが、あるんだ」
その声には、ほんの少しだけ“緊張”が混ざっていた。
「最近ね……誰も見てないはずなのに、背中の奥が、ぞわってすることがあって……たぶん、見られてる――っていうより、“睨まれてる”に近いかも」
犬神は弁当箱のフタを閉じると、指先を静かに握りしめる。
「誰かの“怒り”とか、“恨み”とか……そういう“気配”が、ぐいって背中に貼りつく感じ」
俺は、それをすぐに分析せず、まず“受け止める”ことを選んだ。
「……それ、いつ頃からだ?」
「うーん……たぶん、ここ最近かな。でも――」
犬神が言いかけたその瞬間、脳裏にあの光景が蘇る。
張りつめた空気のなか、立ち尽くしていた自分。
胸の奥に、確かに届いた、凛とした声。
そして――背後から吹き抜けた、“風のような何か”。
あの瞬間――すべてが、変わったんだ。
「……犬神神社で、お前が倒れた日。あのときだ」
「え……?」
彼女の肩が、わずかに揺れる。
「俺も、あの日を境に変わった。身体の変化、感覚の異常。お前も、あの時――何かを“受け取った”んじゃないか?」
風が一筋、間を割くように吹き抜けた。
髪をふわりと揺らしながら、犬神はしばらく黙っていた。
やがて、小さな声がこぼれる。
「……そうなのかな。わたしも、なにか――“力”に目覚めちゃったのかな」
そして、ためらうように、彼女は続きを語り出した。
「実はね、この前……教室で、うとうとしてた時。
夢の中で、河田さんのことを……見ちゃったんだ」
「……お前の夢に、河田が?」
「いじめられてた時のこと。苦しそうで……泣きそうで……」
「でも、それがただの夢って感じじゃなくて……“心の中”を覗いてたような……そんな気がしたの」
犬神は、そこで一度、言葉を切った。
まるで、記憶を辿るように――ほんの少しだけ、表情が揺らぐ。
「――そのあと、もうひとつ夢を見たんだ」
犬神がぽつりと口を開く。
声はいつも通り明るいのに、どこか“深く沈んでいる”ようにも聞こえた。
「今度はね……たぶん、ずっと昔のこと。
どこかの公園で、女の子がひとり、砂場で遊んでたの。
わたしは――ただ、それを近くで眺めてた」
……語り口が変わる。続く光景の描写は、やけに具体的だ。
「その子、青いスコップを持っててね。
小さな山を作っては崩して、また作って……ずっと、ひとりだったの。
風が吹くたび、ラベンダーの香りがして、
その向こうには小さなみかん畑。
オレンジ色の実が、陽ざしの中できらきら揺れてたの」
言葉を紡ぐたびに、犬神のまぶたがゆっくりと細くなる。
「そういえば、その場所、日向公園にそっくりだった。
あのベンチの並びとか、柵の感じとかも」
小さく息を吐き、言葉の底を探るように黙った。
「……その子の顔は、うまく思い出せないんだけど――
小さな声が、確かに聞こえたんだ」
その瞳は、どこか遠くを見ていた。
『“あさみ、大きくなったら、誰かを助けられる人になりたいのっ……”って――』
俺は黙って、彼女の言葉を聞いていた。
「夢だから、確かじゃないかもだけど……でも、なんか変だったの。
自分の夢のはずなのに、まるで“誰かの記憶”を覗いてるみたいで……」
犬神の眉が、わずかに寄る。
「……あれって、もしかして、河田さんの“過去”だったのかなって」
小さな声でそう呟いたときの犬神の横顔は、まるで、自分の中に湧き上がった“確信”と“ためらい”のあいだで、揺れているように見えた。
「……」
「どうした、犬神?」
「……ううん、なんでもないっ」
笑顔を見せたその一瞬――ほんのわずかに、何かが引っかかったような気がした。
犬神の語りから導かれる仮説に、俺は即座の返答は控えた。今の段階では、まだ観測と検証の途中にすぎない。
けれど――確かに言えることが、ひとつだけある。
(……犬神千陽。その存在は、すでに“観測の枠”を超えかけている)
* * *
弁当箱を片づけて、静かな空気が流れはじめる。
風の流れが、少しだけ変わった気がした。
犬神はゆっくりと立ち上がり、近くの屋上の柵へと歩いていく。
制服のスカートが、春の風にふわりと揺れた。
柵の向こうには、まだ青さの残る昼の空。
「……なんか、変な話しちゃったね。ありがと、越智くん。おかげで、ちょっと気持ちが軽くなったかもっ」
そう言って空を見上げた犬神の後ろ姿には、さっきまでの不安を示す兆候が、もう見当たらなかった。
呼吸のリズム。まぶたの動き。口元の角度。
どれもが、落ち着きと“納得”を示すデータだった。
――感情を言葉で処理するよりも、先に整理して受け入れている。
その後ろ姿に――俺は、気づけば立ち上がっていた。
ベンチを離れ、静かに犬神の隣へと歩いていく。
柵の前、同じ空の下――すぐそばに並んだ。
ほんのわずかな距離。それだけで、風の感じ方が少しだけ変わるのが分かった。
……なぜ隣に立ったのか、自分でも説明はつかない。
ただ、この横顔を見ていたくなった。観測でも、記録でもない。……それ以外の、理由にもならない“感情”。
俺はスマホを握ったまま、しばらく黙っていた。
言葉にするには、まだ何かが足りない。でも――黙っているには、あふれてしまいそうだった。
ふと、視線が彼女の髪先へ。
春の光に包まれて、やさしく揺れている。
【観測ログ:犬神千陽】
▶ 距離:0.6m(隣接)
▶ 髪 :光に透ける淡茶色。風との相互干渉により揺れが発生(周期:不定)
▶ 表情:上空に向けた視線。緊張・喜悦の兆候なし。静的安定
▶ 光 :右頬に陽光直射。背景空との視差により一時的なフレア干渉あり
▶ 香り:至近距離にて、微弱な有機系香気を検出。構成不明。布素材が陽を含んだ際の揮発傾向に類似
▶ 心拍変化(越智隆之):+13 bpm(安静時比)
▶ コメント:これは記録ではない。
――ただ、“この一瞬を残したい”と思った。
外的要因はなかったはずだ。
けれど――今の彼女の横顔が、妙に強く、視覚記憶として残った。
……一目惚れって、こういうふうに始まるのだろうか。
――いや、違う。そういう感情的な言葉は、論理からこぼれすぎる。
けれど今の俺には、彼女との接触をもう少し“継続的”にする手段が必要だった。
(犬神という“観測対象”との相互理解を深めるには、
日常的なやりとり――そう、情報交換の経路がいる)
だったら、RINEの連絡先を交換するという手段は、合理的な一手と言える。
そう判断して、俺は思い切って――犬神に言った。
「犬神……」
「……ん? どうしたの?」
声の調子はいつも通り――柔らかく、ゆるやか。
だが、返答の間にわずかな“期待”が滲んでいた。
「……れ、連絡……こ、交か……交換しておこうか」
……噛んだ。よりによって、最悪のタイミングで。
脳内では何度もシミュレーションしていたのに、現実の“演算”は大幅に狂っていた。
口が先に動いたせいで、言語処理が間に合わない。
息の乱れ、滑舌の乱れ、思考の乱れ――
……こんなの、“ログ”に残すわけにはいかない。
「……ふえぇっ!? な、なにそれ、噛んだ!?!?」
その目が、俺を見たまま、ふっと細くなる。
口元がわずかに緩んで――笑った。
くすぐったそうに。うれしそうに。
……なんだ、それ。
「えへへ〜っ、びっくりしたけど……うれしい、かもっ! ほんとはね。自分から言おうか、ずっと迷ってたんだ〜〜っ。
だから、これから健康情報いっぱい送ってもいいっ!?
栄養バランスとか、睡眠のこととか、いーっぱいあるよっ!」
「……通知制限は考える」
「え〜〜〜っ!?ひどぉ〜〜いっ!!」
スマホのRINE画面に、新しい名前が登録される――“犬神千陽”。
その瞬間――どんなログよりも、その名前が心の奥に、静かに響いていた。
そして、ほんの一拍の静けさのあと。
犬神が、いつもの調子で声をかけてきた。
「あ、そうだっ。越智くんって、部活どうするの? やっぱり、科学部に決めた?」
「……ああ。放課後に、様子を見に行くつもりだ」
「おぉ〜〜っ、さすが〜! 理系男子って感じ〜〜っ!
白衣姿とか、似合いそうだよね〜っ。なんか、薬品混ぜて爆発起こしそうなイメージっ」
「起こさない。むしろ止める側だ」
「あははっ、ちゃんとツッコんでくれるの、好き〜〜っ♪」
(……勝手に“好感度”を上げてこないでくれ)
元気な声が、昼下がりの空に跳ねるように響く。
まぶしい笑顔を浮かべながら、犬神は空に向かって手をかざしていた。
「……それで。犬神は、テニス部に入ったんだな」
声に抑揚はなかった。情報として把握し、確認する――ただ、それだけの問い。
「うんっ♪ 担任の杉本先生が顧問って聞いて、なんか安心してさ〜。 小学生の頃からずっと続けてるから、ちゃんと打ち込める場所がほしいなって!」
言葉の端々に、彼女の“本気”がにじんでいた。
(賑やかに見えて、芯は意外としっかりしてる……)
ただ明るいだけじゃない。犬神の言葉には、ちゃんと地に足がついている気がした。
「今日の放課後、テニス部の活動があるのっ!
入部してから、初めて本格的な練習するんだ〜〜っ!
でもねっ、科学部もちょっと気になってて……今度、ちょこっとだけ覗いてみてもいい?」
「……部外者、だろ」
「いいじゃんっ! ちょっと見るだけだしっ!
越智くんが白衣着てるとこ、わたしの“わんこ日記”にもちゃんと記録しとかないとっ♪」
「……お前のほうこそ。俺のこと、見すぎてないか?」
「えっ……」
犬神が一瞬だけ固まる。
両手でスカートの端をそっと握ったまま、顔がじわりと赤く染まっていく。
「そ、それって……さっきのわたしのセリフ、仕返ししてきたっ!?」
「別に。気になったことを、言っただけだ」
「うぅぅ〜〜っ、ズルいぃ〜〜〜っっ!!
わたしの方が、先に言ったのにぃ〜〜っ!!」
「予想どおりの反応だな……」
でも、次の瞬間には――いつもの笑顔が戻っていた。
「えへへ〜っ。じゃあおあいこだねっ!
わたしも、越智くんのこと……もっといっぱい知りたいもんっ!」
【心拍ログ比較:越智隆之 / 犬神千陽】
▶ 心拍数変動(会話時点計測)
・越智隆之:+12bpm(情動反応/推定要因:対象の発言)
・犬神千陽:+13bpm(視線交差時に最大ピーク)
▶ コメント:
互いの心拍が、同じリズムで揺れてる。……完全にリンクしてる。
(……やはり、こいつは“観測不能な自然現象”だ)
* * *
「キーンコーン、カーンコーン……」
昼休みの終わりを告げるチャイムが、静かな屋上に響く。
「じゃあ、戻ろっかっ!」
犬神が振り返り、扉へと歩き出す。
俺の視線は、自然とその背中を追っていた。
……犬神と交わしたひとときが、妙に記憶に焼きついている。
頬に残る熱も、否応なく意識に残っていた。
この反応は、“想定外の入力”。
だが、不思議と――拒絶の兆候はなかった。
むしろ、どこか温度を帯びた“揺らぎ”として、感覚の中に沈んでいる。
世間なら、こういう揺れを“恋”と呼ぶのだろうか。
だとしたら――この先、俺は、どんな“ログ”を残すんだろうな。
ため息のように息を吐き、視線をそらす。
――まるで、春の陽射しが眩しかったせいかのように。




