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第13話『あの日の隣、今日の隣』

――遠くで、鈍く響くチャイムの音がした。


(……キーンコーン……カーン……)


その音が、ゆっくりと空気を震わせて消えていく。

やがて静かな余韻を残し、まぶたの奥をやわらかく照らした。


(……夢、見てた……気がする)


私が小さかった頃――よく一人で、近くの日向公園の砂場やブランコで遊んでいた。

赤と青のスコップを用意して、そのうちの青いほうで砂をざくざく掘って、小さなお山を作る。

木の葉がさらさらと揺れて、日差しがやわらかく背中を包み込む。


風が通るたび、どこからかラベンダーの香りがしていた。そのやわらかな香りにまじって、ほのかに甘い匂いが風にのる。

香りの先をたどるように目を向けると、遠くの丘に小さなみかん畑。朝陽のようなオレンジ色が、鮮やかに風の中で揺れていた。


そんな景色の中にある公園には、ふしぎと心がほどけるような、やさしい空気が流れていた。


だけど――


(……でも、なにか、大事なことを……忘れてるような気がする)


そう思った瞬間、胸の奥がふっとざわめいた。

その感覚を確かめるように、静かに目をあけると―― 白くて穏やかな天井が、ぼんやりと視界に広がっていく。

ほのかに漂うリネンの香りがして、カーテン越しにはやわらかな光が揺れていた。


保健室――私は、ベッドの上に横たわっていた。


体育ジャージの上着の裾が、まだ少し湿ってる。

保健室に着いたとき、先生がタオルで汗を拭いてくれたのを思い出した。


(そっか……倒れたんだ、わたし……)


上半身をそろりと起こしかけたそのとき――


「あれっ、メガネどこ……?」

思わずつぶやきながら、手探りでまわりを探す。


すぐそばの机の上に、それはちょこんと置かれていた。

そっと手に取りかけ直すと、ぼやけていた景色がふわっと輪郭を取り戻していく。


私は静かに足を動かして、ベッドの端に腰を下ろす。

冷たい床に足が触れた瞬間、ようやく“起きた”という実感がじんわり湧いてきた。


ふと目をやると、机の下には、見慣れた学生カバンとナップサックが寄り添うように並んでいた。

その真上――机の上には、いつものピンクのランチバッグが、そっと置かれている。


それを見た瞬間、ふわっと心がゆるんでいく。

誰かが丁寧に、ここまで運んでくれたんだ――

そう思うと、胸の奥がじんわりとあたたかくなる。


視線を落とすと、ランチバッグの持ち手に、ちいさく折り畳まれた紙片がひとつ。

それはまるで、そっと寄り添うように、優しく差し込まれていた。


私は、それにそっと指を伸ばし、静かに開く。


『かわださんへ

がんばりすぎずに、ゆっくりやすんでねっ!

ちはるより』


(……っ)


気づけば、目の奥がじわっと熱くなっていた。

まるで話しかけてくるみたいな、元気でやさしい文字。

そしてその下のすみに、小さく描かれたワンコの顔――

まんま、あの子だった。笑ってるみたいな丸い目と、ちょこんと出た舌。

その絵を見てるだけで、なんだか泣きそうになる。


(ありがとう、犬神さん……)


くしゃっと笑みがこぼれた、そのとき。


「もう大丈夫そうね、河田さん」


優しく落ち着いた声が、そっと耳に届いた。


振り返ると、そこに立っていたのは、保健室の先生――早川はやかわみお先生だった。

白衣の袖口からのぞく手首が細く、どこか二十代の若さを感じさせる。

ショートボブの髪に、やわらかな笑みがよく映えて、見ているだけで心がほっとする。

そっと寄り添ってくれるような包容力があって、思わず甘えたくなるような、そんな優しさを持っていた。


「少し脱水と疲労が出てただけよ。今の体温も平熱に戻ってるし、午後の授業は出られそうね」


「……はい、ありがとうございます」


カーテン越しに、外のにぎやかな声が微かに届く。

その喧騒から少し離れたこの場所で、先生の笑顔とやさしい声に包まれた瞬間――

胸の奥にたまっていた不安が、ふっとほどけていった。


大丈夫。

そう思えたら、体までふわっと軽くなった気がした。


「制服に着替えておこうか。カーテン、ちゃんと閉めておくから安心してね。終わったら声をかけてくれていいから」


先生はそう言って、カーテンの端をふわりと引いて仕切ってくれた。

そのまま外に出て、カーテンのすぐ向こう側で静かに待っていてくれている気配がする。


(……気遣ってくれてるんだ。ありがとう、先生)


私はそっと立ち上がり、ナップサックの中から畳まれた制服を取り出した。

ささっと体操服を脱いで、肌についた汗を持参のタオルでぬぐうと、制服へと着替えていく。

脱いだ体操服は、犬神さんが届けてくれたナップサックに、丁寧にたたんで入れておいた。


制服の襟を整えて、そっと深呼吸。

そして、カーテン越しに声をかける。


「先生、着替え終わりました」


「分かったわ。それじゃ、無理せず、ゆっくり教室に戻ってね」


先生の声がまた、やわらかく響いた。


「……はい。ありがとうございます、先生」


ふと壁の時計に目をやると、針はもうお昼を過ぎていた。カーテン越しに、外の廊下から楽しげな声や足音が聞こえてくる。教室では、みんなでお弁当を広げている頃かもしれない。


(……そっか、もうお昼なんだ。ちゃんと食べなきゃ、ね)


おなかの奥が、きゅるっと鳴った。

それだけで、なんだか少し元気が湧いてくる。


私は机の上のカバンとランチバッグを抱え、ナップサックを肩にかける。ひとつ、深呼吸。

胸いっぱいに空気を満たして、そっと吐き出した。

足元に力が戻るのを感じながら、そのまま保健室の扉へと歩き出す。


(大丈夫。ちゃんと動ける。――もう、平気)


ベッドを囲うカーテンに、そっと手をかけたそのとき――外から控えめなノックの音が響いた。


「失礼します。生徒会の確認で参りました」


静かに扉が開いて、現れたのは――

今朝の校門前で、はじめて言葉を交わしたふたり。

金のウェーブ髪が印象的な高橋たかはし玲奈れな先輩と、艶やかな黒髪をきちんとまとめた九条くじょう詩織しおり先輩だった。


保健室の先生が穏やかに応じる。


「おふたりとも、いらっしゃい。救急箱の備品の件ね。今、準備するわね」


先生が奥へと入っていくと、ふたりの視線が私に向いた。


「……あら。河田さん?」


高橋先輩のまなざしが、わずかに揺れ――それから、品のある微笑みへとほどけていった。


「朝はご挨拶ありがとうございましたわ。……具合、大丈夫ですの?」


「……はい、ちょっと倒れちゃって。でも、もう大丈夫です。すみません、今朝はちゃんとご挨拶もできなくて……」


すると、隣の九条先輩が、ふわりと微笑んだ。


「ううん。ちゃんと覚えてるわよ、今朝のこと。――そういえば、さっき廊下で犬神さんとすれ違ったの。河田さんのこと、すごく心配してたわよ」


高橋先輩も、そっと頷きながら言葉を添える。


「そうですわね。あの子、感情がすぐ顔に出ますもの。……ところで、河田さん。お加減の方はもう宜しくて?」


「……えっと、はい。保健室の先生にも、午後の授業は出てもいいって言われて……」


「ふふっ、それは安心しましたわ」


高橋先輩は、ふっと安堵の息をついてみせた。

その横で、九条先輩も小さく微笑む。


そんなふたりの間に、ひとときの沈黙が訪れる。

その静けさすら気品に包まれていて――私は自然と姿勢を正していた。


やわらかな微笑みを浮かべながら、高橋先輩は落ち着いた声で言葉を紡ぐ。


「ちょうど私たちも、ひと通りの確認を終えたところですし。お昼休み、ご一緒に中庭でお弁当などいかがかしら?」


「えっ……あの、わたしと……?」


戸惑う私に、九条先輩がやわらかく微笑んで、続ける。


「無理にとは言わないわ。でも、ひとりで食べるよりは、少し賑やかな方が……気持ちもほぐれるかも」


「……っ」


その言葉に、不思議と胸があたたかくなる。


(あの朝に感じたやさしさは――気のせいなんかじゃなかったんだ)


この二人と、もっとたくさん話してみたい――そう思った瞬間、気づけば顔を上げていた。


「……はい。わたしも、ご一緒させてください」


高橋先輩がふわりと笑みを深め、九条先輩と目を合わせる。


「準備は整いましたわね」


そのタイミングで、保健室の奥から先生が戻ってきた。

手には、常備薬の詰まったケースがふたつ。


「お待たせしたわね。こちら、生徒会と科学部の分ね」


先生は、ふたりにそれぞれ手渡したあと、私の方をちらりと見やった。


「河田さん、無理はしないようにね。午後、しんどくなったら遠慮なくここに来ていいから」


その優しい声が、心の奥にゆっくり染みていく。

気づけば、体の力がすっと抜けていた。


「……はい。ありがとうございます」


先生がふたりにケースを手渡し終えると、先輩たちはふとこちらへと視線を向けた。

高橋先輩は、どこか安心したように目を細めて、やさしく微笑む。


「わたくしたち、備品を先にお届けしてまいります。河田さんは、中庭でごゆっくりお待ちになってくださいませね。すぐに参りますわ」


やわらかな声音に促されて、私はそっと頷いた。


ケースを抱えたふたりは、静かに保健室をあとにする。

その背中を見送りながら、胸の奥にあたたかさがふわりと残った。


廊下には、やさしい陽射しとともに、昼休みの賑わいが広がっていた。

教室からは話し声や笑い声があふれ、友達と並んで歩く生徒たちの姿もあちこちに見える。

そんな日常の空気に包まれながら、私はゆっくりと歩き出す。


自分の教室に戻ると、犬神さんの姿はなかった。

何人かのクラスメイトが気づいて、「大丈夫?」と心配そうに声をかけてくれた。

私は小さく頷いて、お礼を言いながら自分の席に荷物を戻す。

そのままお弁当を抱え直して、ひとつ深呼吸。


ほんの少しだけ背筋を伸ばして――先輩が待つ、中庭へと歩き出した。


* * *


中庭のベンチに腰を下ろし、そっと膝の上にお弁当を抱えたまま、空を見上げる。


春の陽射しが、やわらかくまぶたを照らす。

保健室で過ごした静かな時間のあとに、こうして外の風を感じられることが、少しだけ嬉しかった。


(……わたし、ほんのちょっとだけど、変われてるのかな)


あの頃は、誰かの言葉に怯えて、ひとりで泣いて、ただ黙ってやりすごす事しかできなかった。


でも今は――

たとえば、無邪気な笑顔でまっすぐ言葉をくれた犬神さん。

静かに支えてくれた、越智くんと神田くん。

そっと寄り添い、目線を合わせてくれた高橋先輩と九条先輩。


いろんなかたちの優しさを、ちゃんと受け止められる気がしてる。

私も、いつか……誰かの力になれたらって、そう思える瞬間がある。


(変わりたい。ちゃんと、自分の足で立てるように)


胸の奥に灯った小さな決意が、春の光に溶けていく。

その瞬間、背後から――かすかなヒールの音。

空気がわずかに張りつめ、香り立つような声が届いた。


「お待たせいたしましたわ、河田さん」


黄金色こがねいろの髪が陽にきらめいて――

高橋先輩が、やわらかな声で手を振ってくれる。

その隣には、九条先輩の姿もあった。


私がベンチの真ん中で立ち上がろうとすると、高橋先輩がそっと手のひらを向けて微笑んだ。


「どうぞ、そのままで。わたくしたちが、お隣を失礼いたしますわ」


その声とほぼ同時に、九条先輩が私の肩にそっと触れてくれる。

ふたりは静かに腰を下ろし、私を挟むように左右に座った――その瞬間、かすかに、どこか品のあるフローラルな香りが舞い込んできた。


(……な、なにこの光景……!)


ドキン、と胸が跳ねた。

きらきらな金髪に、知的な黒髪。

左右を見れば、右に“完璧お嬢さま”の高橋たかはし玲奈れな先輩。

左に“知性派ミステリアス”の九条くじょう詩織しおり先輩。

頭の中で変なアラームが鳴るくらい、ぜいたくすぎるこの状況に――わたしの心臓は大忙し!


(な、なんかもう……お姫さまたちに挟まれてる庶民感……。場違いじゃないよね、わたし!?)


胸の鼓動がうるさいほど響いて、どうしたらいいかわからなかった。

けれど、ふたりの笑みと声の調子が、次第にその音を鎮めていく。


そのぬくもりに包まれ、肩の力がすっと抜けていった。

私は、ふたりの横顔をそっと見つめながら――小さく息を吸い込んだ。


「……あの。お昼ごはん……誘ってくださって、ありがとうございます」


少しだけ震えた声――でも、それはちゃんと、届いた。


高橋先輩がふわりと笑って、ひとつ頷く。

九条先輩も、やさしい眼差しで目を細めてくれた。


「ふふ……そんなに気を張らなくても大丈夫ですわ、河田さん」


「うん。お弁当は、美味しく食べるのがいちばんよ」


そんなふたりに囲まれていることが、少しずつ“特別”から“心地よさ”へと変わっていく。


自然と視線を交わしながら――

私たちは、並んでお弁当の包みを広げた。

風にゆれる木々の音。どこか遠くで響く、昼休みの笑い声。そのすべてが、やさしくテーブルを囲むように感じられた。


高橋先輩のお弁当は、淡い桜柄の細長いお重箱。

ふたを開けると、ふわふわのだし巻き卵に季節の煮物、ていねいに握られた俵型のおにぎりが端正に並んでいた。

どの一品も手間がかかっていて、それでいて控えめな量にまとまっていて――まさに“上品”そのものだった。


一方、九条先輩は、シンプルな布袋からサンドイッチの詰まったバスケットを取り出す。

添えられていたのは、ガラス瓶に注がれた手製の紅茶。

ハーブがほんのり香る、透き通った琥珀色だった。

飾らないのに上品で、どこか不思議な空気をまとう人。

その静けさとぬくもりが、紅茶の香りといっしょに、そっと風に溶けていく気がした。


私のは、手作りの素朴なお弁当……。

俵形のおにぎり、卵焼き、ウインナー、そして……犬神さんに勧められて、今日から入れることにしたブロッコリー。


さっき見た、高橋先輩の美しい和のお重や、九条先輩の紅茶とサンドイッチの組み合わせとは、まるで違っていて―― なんだか急に、自分のお弁当がちょっとだけ、〝お子様っぽく〟見えてしまった。


胸の奥が少しくすぐったくなるような気持ちのまま、私はお箸を手に取って、そっとブロッコリーをつまむ。


「……ふふっ、ブロッコリー好きなのね」


思わず顔を上げると、九条先輩が静かに微笑んでいた。


(あああ……なんか、“意識高い系”っぽく見えてたらどうしよう……!)


「あっ、えっと……実は苦手だったんですけど、犬神さんが、“だまされたと思って食べてみて”って……」


ちょっと照れながら、お箸でブロッコリーをつつく。

そのとき、ふと――犬神さんのあの言葉を思い出して。

私は思わず、くすっと笑って言葉を続けた。


「“緑の野菜を食べないと、毛ヅヤが悪くなるのっ!”って……意味わかんないけど、なんか説得力があって…」


「……まったく、あの方らしいですわね」


高橋先輩は、やれやれと苦笑してみせたあと、瞳にほんのりと優しさをにじませながら、そっと言葉を継いだ。


「でも、いいことだと思いますわよ。好き嫌いなく食べられるって」


「……えへへ。頑張ってます」


ふと、風が吹き抜ける。

どこか、時間が止まったみたいな――やさしい午後。


「……なんだか懐かしいですわね」

高橋先輩が、ふと空を見上げてつぶやいた。


「こうして学校の中庭でお弁当をいただくのは――中学の頃を思い出しますの。詩織とは、その頃からずっとご一緒でしたわ」


「そうね。“中庭組”、だったのよ」

九条先輩が、穏やかな笑みを浮かべて続ける。


「ふたりで勝手に、そう呼んでたわね……懐かしいわ」


「ふふ。部活の話とか、進路とか、よく語ってましたわね。詩織の真面目さに、よく諭されていた気がするわ」


「……そんなこと、あったかしら?」


「あら、お忘れですの?」


ふたりの掛け合いに、自然と笑みがこぼれる。

その空気に混ざれることが、少しだけ誇らしかった。


私は、お箸でそっと俵型のおにぎりをつまみ、ひと口。やさしい塩気が広がって、気持ちがふわっとゆるんでいく。


隣では、九条先輩が紅茶をひと口ふくんでから、サンドイッチに手を伸ばす。

その何気ない所作さえ、どこか絵になるようだった。


高橋先輩は、お重のだし巻き卵をお箸で摘まみ、静かに口へ運ぶ。

ひと息ついたあと、そっと口元をぬぐって、ふわりと微笑んだ。


その空気に背中を押されるように、私はお箸を置き、ゆっくりと顔を上げて話しかけた。


「……あの、九条先輩。今朝、犬神さんとお話したときのことなんですけど……」


九条先輩が、静かに視線を向けてくれる。

そのまなざしは、とてもやわらかくて。


「少しだけ……科学部、見に行ってみたいなって思ってて。放課後、もしよかったら……」


言葉にするだけで、胸がどきどきする。

でも、それを伝えたいと思ったのは、きっと“今”だからこそ。


九条先輩は、ふんわりと微笑んだ。

カップの紅茶がきらりと光を返し、その穏やかな瞳に溶けていく。


「そう……今朝の言葉、ちゃんと届いていたのね。うれしいわ」


その声に、胸の内がじんわりとほどけていく。


すると、高橋先輩も隣でやさしく微笑みながら言葉を添えた。


「きっと素敵な時間になりますわ。河田さんが選んだ“気持ち”なら――その一歩は、あなたにとっての宝物になりますもの」


その言葉が私の中にやさしく染み込んでいき、思わず小さく笑みがこぼれた。

そして、そっとうなずいた――そのときだった。


あの朝――校門でかけられた言葉が、ふいに浮かんだ。


(“生徒会のお手伝いも大歓迎ですわ”――)


高橋先輩が、今朝――通学中にかけてくれた、あの一言。そのときは、ただの社交辞令だと思っていた。

でも今なら、わかる気がする。

あの言葉には、ちゃんと“わたし”を見てくれた想いがあったんだ。


選ばれなかった道――でも、心の奥でそっと息をしてる“可能性”。

まだ知らない“好き”が、どこかにあるのかもしれない。

そんな思いに包まれていたとき――

ふと、九条先輩がすっと視線をこちらに向けて、柔らかく微笑んだ。


「……ようこそ、研究と爆発の世界へ」


「ちょっと詩織? それではまるで、科学部が危険な場所みたいではありませんの」


「ふふっ。冗談よ、河田さん。最初は見学だけでも構わないから」


「……はい。ありがとうございますっ」


そのとき、高橋先輩がふと目線を落として、少しだけ声のトーンをやわらげる。


「それと……もし、生徒会にもご興味が湧きましたら、遠慮なく声をかけてくださいませね」


「えっ……生徒会、ですか?」


「広報担当の枠が、ひとつ空いておりまして。もちろん、無理にとは申しませんけれど――“新しい扉”って、意外と静かに開いているものですのよ」


「……はい」


短くても、ちゃんと届くように返した。


その言葉が、私の中にそっと染み込んでいく。

やわらかくて、あたたかくて――

ひとりで閉じこもってた心に、そっと風が吹いた日。


苦手だったブロッコリーが、口の中でふわりと甘くほどけた。


――それは、“拒んでいた”気持ちが、そっとほどけた瞬間だった。

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