第10話『私のこと、大好きって言った?』
――夜。越智隆之の部屋。
蛍光灯の明かりを落とし、デスクライトだけを点ける。
画面に浮かぶのは、無機質なログ表。
──感情ログ:202X/04/13(月)
・科学部:初日
・心拍数変化:詩織=+5、梓=+9、沙月=+2
・発言頻度:神田=4、俺=7
・行動メモ:入部届提出 → 受理確認済
(……会話の内容を数値で整理すれば、確かに“特異”だった。だが――)
マウスを握る指先が、一瞬だけ止まる。
(“あの場のノイズ”を、ただの記録で片付けることは……できなかった)
「……“青春とは違うジャンル”だと思ってくれていいわ」
神堂の声が、ふと脳裏をよぎる。
けれど、あの瞬間の俺は――
同じ空間で、似た熱量で反応しあえる存在に囲まれていた。
それだけで身体の負荷が、ほんの少しだけ軽くなった気がする。
Excelファイルを保存し、画面を閉じる。
そのとき――スマホがピッ、と通知音を鳴らした。
【クランチャット:CLANFIELD】
《C0c0r0n》
たかちゃ〜ん!入部おめでと〜!
科学部って……どんなとこだったの?笑
《たかちゃん》
……説明不能。記録できないレベル。
(※ファイル名:青春_カオス_白衣.xlsx)
《Lunaria》
ふふ、それは興味深いわね。
“論理では測れない何か”があった、ということでしょう?
《あまちゃん》
それ、ぜったい一回見てみたいヤツ〜。
今度こっそり忍び込もっかな?
《たかちゃん》
やめてくれ。
科学部には既に、“常時事故”みたいな先輩が存在してる。
《C0c0r0n》
っていうかさ!
今度の4人レイド、今週末に延期になったって〜!
《Lunaria》
問題ないわ。準備は整ってる。
むしろ、たかちゃん……あなた、感情の乱れには気をつけてね?
《たかちゃん》
感情は、制御下にある。
(※本日のピーク値:心拍+9)
《あまちゃん》
なにその“ピーク値”って!?笑
《C0c0r0n》
も〜〜っ!たかちゃんってば、すーぐデータで片付ける〜〜っ!
でも、そゆとこ……けっこー好きかもっ(←なでなでスタンプ)
《Lunaria》
さて、そろそろ落ちるわ。
……では、またね。ロジカルリンク。
《あまちゃん》
おつ〜!またロビーでね〜♪
《C0c0r0n》
たかちゃんも、ゆっくり休んでね♪
《たかちゃん》
ログ保存完了。離脱。
⸻
スマホの画面を伏せて、ベッドに横になる。
天井を見上げ、ひと呼吸。
思い出すのは、チャットの最後――
いつもより、少しだけ柔らかかった“あの一文”。
「ロジカルリンク」――あの言葉をLunariaが最初に口にしたのは、初めてVCで連携したあの夜だった。
俺に向かって、当たり前のように。何度も、何気なく。
──たぶん、あれはただの知的ごっこじゃない。
あいつ……“俺を選んだ”ってことか。
画面越しの記憶が、ふと鮮明に甦る。
――あのバトル。
魔導士同士、1対1のPvP決勝。
支援と封殺の読み合い。
ミリ秒単位で繰り出されるバフとカウンター。
こちらが配置したデバフ・フィールドを、詩のような呪文で上書きされた瞬間――
たった0.4秒、反応が遅れた。
それだけで落とされた。
『次は、ちゃんと避けてね?』
……あの一言だけは、ヘッドホン越しの記憶ごと、“ログから削除”することができなかった。
(数値にはできなくても。
確かにあれは、“心に刻まれるデータ”だった)
静かな部屋、ベッドに沈んだまま、
ログにも残らない何かが、胸の奥で揺れていた。
(……余計なバグは、今はスリープでいい)
まぶたを閉じて、呼吸をひとつ。
次に目を開けるときは、きっと――
また、記録すべき一日が始まっている。
* * *
夜の静寂に包まれた一室。
ディスプレイに映るログはすでに暗転し、静かな余熱だけが画面に滲んでいた。
銀髪の少女が椅子にもたれ、ゆっくりとヘッドホンを外す。
「Lunaria」―― クラフィの世界で、詩的な呪文を操る攻撃特化型の魔導士。その名は、幾度もの戦場を制した名でもある。
けれど今、その横顔にはチャットで見せるような冷淡さも、毒のある皮肉も浮かんでいなかった。
風呂上りの髪は、まだ少し湿っていて――タオルに軽く巻かれた頭から、銀の髪がすべるように覗いている。
一本が頬にかかると、彼女は指先でそれを耳にかけた。癖のような自然な仕草。無防備で、どこか儚い。
まるで、欠けた月が夜に漂うような――不完全で、美しい静けさを纏っていた。
着ているのは、白のビッグTシャツと、淡いグレーのスウェットパンツ。細い肩には少し大きすぎて、袖口がくしゅりとたるんでいた。
画面越しのLunariaからは想像もできないほど、ラフで静かな服装だ。
ふと、視線が逸れた先にある机の隅には、小さな白い犬のぬいぐるみがぽつんと座っていた。
誰にも見せたことのない“素の夜”を、静かなやさしさを宿して――そっと、見守るように。
彼女は、そっと手を伸ばし、それを抱き上げる。
そして静かに、ため息をひとつ。
胸に、ぎゅっと引き寄せた。
「……“ロジカルリンク”、ね」
ぼそりと、自分でも気づかぬような声でつぶやいた。
あたしが――“選んだ”、とか。
はは、なにそれ。ほんと、バカみたい。
思考の隙間に、ふと声がよみがえる。
ボイチャ(VC)越しの、静かで落ち着いたトーン。
たかちゃんかぁ……どんな人なんだろ。
声は、まあ……カッコよかったけど。
「……って、うわ、あたし何言ってんの。まじ寒いんだけど」
ぽすっ、とぬいぐるみに頬をあずける。
ぬくもりの代わりに伝わってくるのは、やわらかな手触りと、ちょっと甘めの柔軟剤の香り。
「……なにやってんの、あたし……」
誰に見られるわけでもない、閉じた世界。
けれどその夜、彼女の胸の奥には、小さな“熱”が確かに灯っていた。
* * *
【4月14日(火)午前10:20 日向高校 1A教室/河田亜沙美】
中休み。
チャイムが鳴って、何人かの生徒が静かに席を立ち、教室をあとにする。
ノートを閉じ、私は静かに立ち上がった。
教室の空気が、さっきから――ほんのわずかに重たい。
(……トイレだけ行って、すぐ戻ろう)
教室の後ろを、そっと通り抜ける。
目線は上げないまま、張りつめたような静けさのなかを歩く。
やがて、ひと気のない廊下を進み、女子トイレの入り口へ――。
(別に、大丈夫……)
洗面台の前に立ち、鏡に映った自分をそっと見る。
昨日より、目元が少し赤い。
無理に笑うのは、今は違う気がして……そっと、目を伏せた。
そのとき――
「ねぇ、河田さん」
背後からかけられた声。聞き覚えのある、柔らかすぎる声色。
(……やっぱり)
鏡越しに、二人の女子が立っていた。同じ学年だけど、わたしとは別クラス。
中学時代に関わりのあった――“あの子たち”。
「朝さ〜、犬神さんと話してたよね? ……けっこう楽しそうだったし」
「へぇ〜……なんか、ちょっと意外だったなぁ」
その“意外”のひと言に、ぐさりと何かが刺さる。
声色は柔らかくても、言葉の輪郭だけは鋭かった。
「うちらのこと、避けてるわりには……ああいう子とは話すんだ?」
「別にいいけどね? ただ……そういうの、目立つから気をつけたほうがいいよ、いろんな意味で」
語尾は、軽やかに跳ねるように。まるで世間話の延長みたいな調子で。
嫌味でも、悪意でもないフリをして――それでも、ちゃんと届くように“刺してくる”。
「無視? 感じわる〜」
「ねぇ、また始まったんじゃない? “わたし可哀想”ってやつ〜」
一人が、ゆっくりと私に近づいてくる。
鏡越しに、その目が――私だけを見ていた。
「中学のときもそうだったよね。
誰かに守ってもらえるって、思い込んでたじゃん?」
(……やめて)
背中が固まる。言葉が出ない。
「聞いてんの?」
ドンッ――
すぐ横の壁に、勢いよく手が叩きつけられた。
乾いた音が反響して、胸の奥がびくりと跳ねる。
もう片方の手が、じわじわとわたしの肩に向かって伸びてくる。狭い空間に、相手の呼吸だけが近くて――
心臓の音ばかりが、大きくなる。
(……怖い。動けない)
声を出したいのに、唇がわずかに震えるだけで、言葉にならない。足がすくんで、膝がふるえた。
視界が、ぐらりと揺れる。
力が抜けて、そのまま膝から崩れ落ちた。
冷たいタイルの床に手をつきながら、必死に呼吸を整えようとするけれど――背後から、靴音が、ゆっくりと確かに近づいてくる。
背中に感じる、重たい気配。
振り向けない。鏡を見ることすら、怖かった。
ただ、じわりと背に張りついてくるような“何か”が、
じっと、わたしを見下ろしている気がした。
もう、どこにも――逃げ場なんてなかった。
(……ダメ、動けない……誰か、助けて)
その瞬間――
鋭い声が、静寂をぶち破った。
「――やめなよっ!!」
トイレの入り口に現れたのは――犬神千陽だった。
制服の袖をまくったまま、小柄な体でぐっと一歩前へ出る。
「河田さんに、手ぇ出そうとしてたでしょっ!?」
その瞳は真っすぐで、全身から怒りと――どこか、仲間を守ろうとする本能のような気迫が伝わってくる。
「やめなよ。そういうの、ほんっと最低っ!」
「……は? なに、いきなり」
「いきなりじゃないよっ! 河田さん、あんなに怯えてたじゃん! ちゃんと見てたよ、わたしはっ!」
「……ちょ、犬神……」
「わたしの大切な友達に、なにかしたら――“超”怒るからねっ!!」
あまりにも直球すぎて、言葉が返ってこない。
ふざけた空気が崩れ、女子たちは少し面倒くさそうに言い訳しながら退いていく。
「なに、マジなやつ……うける」
「行こ。めんど……」
ふたりの足音が、廊下の奥へ遠ざかっていった。
「……だいじょぶ?」
犬神さんが、私のほうに顔を向ける。
さっきまで怒っていたはずのその瞳は、今は――
涙をこらえているみたいに、やさしく揺れていた。
私は、ほんの少しだけ勇気を出して、問いかける。
「……どうして、わたしを……助けてくれたの?」
犬神さんは、胸の前でぎゅっと拳を握って、ひとつ、深く息を吸い込んだあと――まっすぐに言った。
「……助けようって考える前に……気づいたら、一歩、踏み出してたの。だって、あんなの見てられなかったから」
声が震える。それでも言葉は止まらない。
「河田さんが、ちゃんと笑ってくれてたのに……っ。
あんなふうに、傷つけられるの――悔しくて、苦しくて……もう、黙ってなんかいられなかったのっ」
そして、そっと微笑んで――
「……それに、わたし……河田さんのこと、大好きだから。だれかが悲しい思いしてるの、もう……見たくないよ」
「えっ」
「だって!ブロッコリー好きでしょ!? わたしと同じ“緑推し”なんだもん!!」
「……え、そっち……?」
「そっち“も”っ!!」
なにそれ……って思ったけど。でも――
口の端がふるふるって震えて、そのまま笑ってしまった。
誰かに「大好きだから」って言われたの、……たぶん、生まれて初めてかもしれない。
しかもそれが、犬神さんからだったなんて。
その言葉が、心の奥まで、じんわり沁みていく。
さっきまで動けなかった手が、ほんの少し震えながら、
犬神さんの袖を、そっとつかむ。
その瞬間、ふわっと手が伸びてきて――
彼女がしゃがみこみ、わたしの手をぎゅっと包み込んだ。
片手でメガネをずらし、そっと涙をぬぐう。
胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ溶けていく気がした。
顔を上げると、そこには変わらない犬神さんの笑顔。
そのまま、にっこりと微笑んで――
「……教室、戻ろっか?」
その声は、あたたかくて、やわらかくて。
私は、小さくうなずいて――その手を、ぎゅっと握り返す。そして、ゆっくりと立ち上がった。
それから、ふたりで並んで洗面所をあとにする。
まわりの喧騒のなか、足音だけが小さく溶けていく。
それは、心にそっと灯る、小さな“はじまり”の音だった。
* * *
放課後。春の陽が、少しだけ傾いてきた。
昇降口のあたりで、私は少し立ち止まっていた。
靴を履き替える手が、ゆっくりと動く。
「河田さ〜〜んっ! 一緒に帰ろ〜〜っ!!」
……やっぱり、この声には敵わない。
顔を上げると、犬神さんがカバンを肩に引っかけて、うれしそうに手を振っていた。
そのすぐ後ろには、いつも通り無表情な神田くんと、「またか……」って顔で腕を組んでいる越智くんの姿。
「……うん、行こ」
自然と、足が動き出す。
「そういえばさ〜っ、今朝のチラシに載ってたんだよっ! ブロッコリー、今日の夕方だけ特売なんだってっ!!」
「お前、それ朝も言ってただろ……」
越智くんが、呆れ顔でツッコむ。
「それは“朝ブロ”っ!! 今のは“夕ブロ”なんだよっ!! 完全にべつもんっ!!」
「……違い、説明してみろ」
「“朝ブロ”は、“気合い入れて今日もいくぞっ!”って感じっ!!“夕ブロ”は、“おつかれ自分♡ これで栄養チャージっ!”っていう“ごほうび型”なのっ!」
「それ、気分の問題じゃねぇか……」
「気分こそすべてだよっ!?
だって朝は“戦うワンコモード”! 夕方は“まったり撫で待ちワンコモード”なんだもんっ!!」
「また犬の話かよ……」
「つまりねっ、朝は“走り出す柴犬”!! 夕方は“ブロッコリーくわえて帰ってくる柴犬”なのっ!!」
「……どんな柴犬だよ」
「わたし、ブロッコリー界の柴犬なんだもんっ!! しっぽふりふりでスーパー行くのっ!!」
「……ただの食いしん坊ワンコだな、それは」
「ちが〜〜〜うっ!! “ブロ柴”だよっ、“ブロ柴”っ!!」
神田くんが、いつの間にかスマホで検索しながら、ぽつり。
「……ブロ柴、検索しても出ないな」
「だって今、わたしが生み出したからっ!!世界初の柴犬種なんだよっ!!」
つい、ぷっと笑ってしまった。
この人は、ほんとうに――どうして、こんなにおもしろいんだろう。
(……こんな会話が、できるなんて)
交差点で、信号が変わるのを待つ時間。四人の足音が、コンクリートの上で軽く響く。その中で私は、ふと一歩だけ遅れて、後ろを歩いた。
(あったかいな……)
夕暮れの光に包まれて、犬神さんの笑顔がきらきらしていた。
神田くんと越智くんも、言葉少なめだけど、ちゃんと“ここにいる”。
(……わたし、ちゃんと、今……この中にいるんだ)
――
帰り道の途中で、みんなと別れる。
「また明日ね〜〜〜っ!!」
「気をつけて帰れよ」
「……うん。また、明日」
ひとりきりになった帰り道。
でも、それはもう――昨日までの“ひとり”とは、まるで違っていた。
風の匂いも、夕暮れの色も、街のざわめきさえも。
今日の私は、ちゃんと、自分の中に取りこめていた。
小さな交差点の前で、ふと足が止まる。
信号はまだ赤のままで、ぽつんと立ち尽くすその間に、
かばんの持ち手を、そっと、ぎゅっと握りしめた。
もう、誰にも届かないと思っていたこの手が――
今日、確かに“誰か”と繋がった。
胸の奥に、ぽっと火が灯るような感覚。
あの瞬間の言葉も、あの笑顔も全部、ちゃんと私の心に残ってる。
信号が、静かに青へと変わっていく。
その光に背中を押されるようにして、私は一歩、踏み出した。
(……今日のこと、ちょっとだけ――好きかも)
夕陽が、そっと頬を撫でる。
私は、少しだけうつむきながら――
それでも、確かに笑っていた。




