第1話『始業式と、春の心拍バグ』
【4月7日(火)08:45 入学式/日向高校 正門前】
高校一年生の春――入学式。
俺は日向高校に入学した。
まだ着慣れない制服、少し固い革靴。
校門をくぐった瞬間から、周囲のテンションの高さにやや疲労を覚えていた。
俺――越智隆之は、そういう空気には慣れていない。
……ちなみに俺には、ひとつだけ、昔から“ちょっと変わった体質”がある。
自分の《心拍数》や《呼吸数》《体温》が、なぜかいつも“数値”としてわかるのだ。
医者に言っても笑われるだけの話だし、誰かの役に立ったこともない。
要するに、ただの“無意味な体内モニター”である。
入学式当日の朝、心拍数は72。体温36.6℃。呼吸数は14。
……いつも通りだ。つまり――何の感動もない、平常運転だった。
⸻
入学式は、体育館で静かに始まった。
体育館特有の反響音と、きっちりと並べられた椅子の列。
新しい制服に身を包んだ俺たち新入生は、緊張と期待の入り混じった空気の中に座っていた。名前を呼ばれて立ち上がる入学生、拍手の音、そして――
「続きまして――生徒会長より新入生への歓迎の言葉です」
ざわり、と周囲の空気が少し変わる。
ステージの壇上に一人の女子生徒が上がる。
肩まで整えられた髪、制服の襟元に揺れるエンブレム、そしてメガネ。
すっと立つ姿勢に、教員よりも安定した貫禄がある。
「ご入学、おめでとうございます。
日向高校生徒会長、朝比奈こころです」
その声は、壇上のマイクを通して響いた。
澄んでいて、落ち着いていて、どこか機械的なほど完璧な発音だった。
前の方から、女子のささやき声が漏れ聞こえる。
「生徒会長って、ほんと綺麗……」
「話し方も落ち着いてて、憧れるよね〜」
「しかも成績トップなんでしょ?やば〜……」
(テンプレの賛美。予測済み)
スピーチの内容も、耳に入ってはいるが、
俺の思考はすでに別のことに向いていた。
「皆さんがこれから始める高校生活には、きっと期待と不安が入り混じっていると思います。けれどそれは、どちらも“未知の可能性”の証です。
日向高校は、皆さんが“自分らしくいられる場所”を見つけられるよう、私たち生徒会も全力でサポートします。どうか安心して、一歩を踏み出してください」
文面・構成・抑揚――完璧な模範回答。
(予想通り。以上)
拍手が起こる。
だが俺の心拍は変動しなかった。
(予測範囲内。74から1も動かない)
もう少し効率的な進行はあるだろうに……
テンプレの段取りと形式美に、一通りの意味しか見出せず、思考はすでに分析モードだった。
朝比奈こころ。
それがどんな人物か、知っていようといまいと――
ここは“学校”。
テンプレの式典には、テンプレのリアクションで充分だ。
⸻
式が終わり、教室へと案内される。
番号順に机が並べられた教室に入り、自分の名前のある席を探して椅子を引いた。
俺の席は、一番後ろの――窓際だった。
(……悪くない)
視界に余計なものが入らず、後方から教室全体を俯瞰できる。周囲に干渉されにくいこの位置は、観察と記録に最適だ。緊張はない。
いつも通り、ただ“新しい空間に適応する”だけ。
今日という日は、俺にとって“環境初期化”の一工程にすぎない。
カバンを横にかけ、ペンケースの中身をチェックする。
ノートの角度、消しゴムの配置、筆圧テスト――
いつもの通りに、自分の“観測環境”を整えていく。
──そのときだった。
「わわっ、ここかな……あった!犬神千陽って、ここで合ってるよね〜っ!」
勢いのある声と同時に、隣の机がわずかに揺れたその瞬間、鞄が机に置かれた音と椅子の軋む音が、ざわつく教室の空気を一瞬、切り裂いた。
わずかに崩れた赤いリボンが、制服の襟元でひときわ目を引く。
髪型はセミロング。明るめの茶髪が動くたびに軽やかに揺れて、毛先はぴょこっと跳ねている。
鞄を乱雑に置いたかと思えば、すぐに中から筆箱を取り出して――きっちり机の右端に揃える。
一見大雑把で、部分的に妙に几帳面。
(……粗雑と几帳面が併存している。パターン化が難しいタイプか)
頭の中で、分類がうまくいかないことにちょっとしたストレスを覚えた。
陽気な声とともに、ぐいっと距離を詰めてくるような勢いで、彼女が顔をのぞき込んできた。
「あっ、隣、よろしくね〜! えっと……越智くん?」
ふいに目が合う。
「……ああ。よろしく」
それだけで、十分だった。
彼女がそう呼んだ瞬間――心拍が、ほんのわずかに跳ね上がったのを感じた。
(……なんだ、今のは)
胸の内側が、一瞬だけざわついた。
外的要因も心理的トリガーも思い当たらない。
ただ、視線が交わった――それだけのことで。
(平常時との差――約4〜5拍/分。
明確な動揺……だとすれば、要因は?)
思考が自動的に要因分析を始めていた。
だが、答えは出なかった。
今のところ、ただのクラスメイトにすぎないはずのその存在が、なぜか俺の脈拍のリズムを乱した。
(……観測ログ、要継続)
ほんの数秒のやりとりに、“想定外の変数”が、はっきりと刻まれた気がした。
(……なんなんだ、こいつ)
あまりにも明るく、あまりにも近い。
警戒心も間合いも、教室に入ってきたばかりの“新入生”とは思えない。
犬神千陽。
初日から、俺の“観測ログ”にノイズを刻みつけてくる存在――
どうやら予測不能な変数が、すでに隣に配置されてしまったらしい。
まだ誰がどこに座るか完全に把握できてはいなかったが、前方から椅子の背もたれに軽く体重を預ける気配がした。
「……あの、えっと……越智くん、よろしくね。
その……同じクラスになったから、一応……」
振り返った女子が、小さな声で話しかけてきた。
細い銀縁のメガネ越しに、少しだけ伏し目がちの視線が覗く。
語尾に曖昧さが残り、どこか探るような目線。
表情は笑顔のつもりらしいが、頬と目元の筋肉の連動がぎこちない。
「ああ。よろしく」
そう返しながら、俺は視線をほんの少しだけ上げた。
彼女の挨拶に、こちらも最低限の言葉を添える。
それだけのこと――のはずだった。
でも、なぜか耳に残る声の高さと視線の揺れが、思ったより強く記憶に刻まれた。
(……河田亜沙美、か)
席は、俺のすぐ前。
地毛だろうか、落ち着いたブラウンの髪は細い三つ編みにまとめられていた。
耳元で揺れる後れ毛――整えようとした跡はあるが、どこかぎこちない。
ノーメイク。制服も、教科書通りの“正解”そのもの。
ネクタイの締め方、ブレザーの合わせ方、どれも真面目すぎるほど真面目だ。
視線の泳ぎ方や、肩の小さな動き、ペンを持つ手の硬さまで……どの仕草にも、「目立たずにいたい」という意思が滲んでいた。
(他者との関係構築に慎重なタイプ……でも、会話に混ざりたいとは思ってる)
データ的に言えば、“内向型の対人欲求持ち”。
……つまり、“変わる余地がある”人間だ。
高校一年の春――最初に記録されたバグは、想定よりもずっと近くにいた。