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午後7時15分。
蔵岡市で二番目に大きい大衆割烹店である『居酒屋勘太郎』の二階にある宴会場は約120人に及ぶ八雲製作所の社員でひしめいていた。ここにいる社員はほとんどが本社勤務の者で、工場勤務の者は技術責任者や主任などの役職を任された者と、その他の数名だけだった。
「それでは社長、乾杯の音頭をお願いいたします!」
今回の宴会の司会を務めている第一営業部の課長補佐、山口信二が大声で言う。
「では、皆さん。僭越ながら私が乾杯の音頭を取らせていただきます。皆様のご健勝と我が社のさらなる発展を願って、乾杯!」
「「「「乾杯!」」」」
八雲製作所社長、八雲寛治のかけ声によって宴会が始まった。社員達はそれぞれの直属の上司や役員達と乾杯をするために歩き回っている。
「安藤課長、いつもお疲れ様です!」
「ああ、今井君もお疲れ様!」
「今井さんの次、自分もお願いして良いですか?」
「ああ、もちろんだよ!」
安藤興介は部下達から次々と声を掛けられていた。部下達全員と乾杯が終わった後、彼は部長達や副社長、社長に挨拶に行こうと思っていた。
会社員にとって飲み会とはいわば戦場である。ここでいかに上司に好かれるかによってその人の将来が決まってくる場合がある。それ故、会社員達は自分をアピールするチャンスとばかりに上司や役員にへつらい、媚びを売る。イス取りゲームに全員が夢中なのである。
挨拶周りが一段落付くと社員達は笑い合い、語らいながら飲み食いを始めた。
「課長は本当によく飲まれますね。」
安藤の部下である第二営業部の望月薫が安藤に声を掛けてきた。
「ああ、なんせ若い頃に高橋部長に鍛えられたからな!」
「昔は安藤君と二人で何件もはしごしたりしたんだよ。他の奴が帰った後に一緒にカラオケなんかにも行ったこともあったなあ。」
「懐かしいですね部長!二人で特撮映画について語り合ったりもして・・・良い思い出です。」
「嬉しいこと言ってくれるじゃないか安藤君!これからもよろしく頼むよ!君は我が社のエースなんだからね!」
「はい、精進いたします!」
安藤はここぞとばかりに自分の直属の部長である高橋という男に媚びを売る。安藤は周りからは次期部長は確定だと言われているが、安藤本人は相当な心配性である。そのためできる限りのことをしようと努力していた。
しばらく安藤は高橋部長と談笑をしていたが、彼らの前を一人の女性が通ろうとした。高橋部長はその女性を目にすると、すぐに手招きして安藤に彼女の紹介を始めた。
「ああ、そういえば安藤君に紹介したい人がいてね。こちら経理部の遠藤君。決算書とかで何回かお世話になったんだけど、仕事がとても早くてね。それに正確なんだ。本当に一昨年入社したばかりだとは思えないよ。」
高橋部長に呼ばれてきた遠藤は、安藤興介に軽く挨拶をし始めた。
「遠藤明です。今日はありがとうございました。」
「ああ、こちらこそありがとうね。見積書とても助かったよ。」
「いえ、お力になれたのでしたら嬉しい限りです。」
安藤は、遠藤と軽く会話を交わしながら、営業部長である高橋の話を聞いて、彼は内心驚いていた。
(この女、一昨年入社したばかりだったのか。にもかかわらず、あれを短時間で作っててくるのか。)
安藤はこの遠藤という経理部の女性社員に対して好印象は持っていなかった。何しろ自分のもくろみが失敗した原因だからである。そしてこの遠藤という女性社員も安藤に対してあまり良い印象は持ってはいなかった。安藤は感情を表情に出さず、うまく取り繕っていたが、遠藤だけは他の社員達が気づかなかった安藤の感情をなんとなくではあるが読み取っていた。彼女は他人に感情移入などはしないが、他人の感情を読み取ることだけには幼い頃から長けていた。
「あれ?遠藤さんじゃないですか!」
遠藤が高橋部長に紹介されている最中に、第二営業部の社員である丸山が、会話に割って入ってきた。
「第二営業部の丸山ですよ!いやあ奇遇ですね。こんなに人が多いのにすぐに会えるなんて。なんか僕、運命感じちゃうなあ。」
「丸山さん。午前の打ち合わせ以来ですね。改めてご挨拶させていただきます。経理部の遠藤明です。よろしくお願いいたします。」
「丸山周平です。それにしても明さんって言うんですか。なんだか男みたいな名前ですね。」
この丸山周平という男は少々デリカシーに欠けているようだ。
「丸山さん。女性に対して失礼ですよ。遠藤明さんだよね。たしか僕と同期だった。」
丸山と同じで第二営業部に所属し、安藤興介の部下の一人でもある望月は、丸山を少々叱責しながら遠藤に声を掛けた。
「はい。一昨年私と一緒に入社ました望月薫さんですよね。」
「名前、覚えていてくれたんですか!嬉しいなあ。」
望月は遠藤が自分の名前を覚えていたことを知って嬉しくなった。
「なんだ、望月とタメか。ということは入社二年目?それであの仕事の速さって君すごいね。」
丸山は感心したように遠藤に言った。彼は遠藤明が年下だと分かった瞬間に、急に上から物言うような態度になっていた。彼らの会話はしばらく続くと思われたが、急に遠藤が時間を気にする様子を見せた。
「丸山さん、ありがとうございます。しかしすみません。経理部の方々と飲んでおりますので、大変申し訳ないのですがそろそろ持ち場に帰らせていただいてもよろしいでしょうか。」
彼女がそう言うと高橋部長もそれまで手に持っていた飲みかけのグラスを置いた。
「ああ、大丈夫だよ。遠藤君、来てくれてありがとうね。」
「いえ、高橋部長。こちらこそありがとうございました。」
遠藤は一礼をすると経理部の社員達で固まっている席に帰って行った。高橋部長は、遠藤が去って行くのを見送ると再び安藤興介に話しかけた。
「遠藤君なんだけどねえ。仕事はしっかりこなすし、勤務態度も模範的なんだけど、何考えているのかたまにわからなくてね。」
「ああ、確かに。まあ表情に出にくい人ってたまにいますからね。」
高橋部長に相槌を言いながら安藤は遠藤明について少し考える。その後ろでは、彼の部下である望月と丸山が話し込んでいた。
「にしても可愛いっていうより綺麗って感じでしたね。中性的な見た目だからかなあ。」
「丸山さんは本当に女性の話になると面倒くさくなるんですから。」
「でも望月の同期か・・・。望月は遠藤さんと話とかしないの?」
「入社したときからあまり目立つ子ではなかったですしね。それに部署も違うので会う機会がなかったんですよ。」
「そっか。じゃあ俺アタックしちゃおうかな。」
「丸山さんこないだも企画部の女の子に話しかけていたじゃないですか。自重した方が良いと思いますよ。」
「望月、いい子ぶるのはやめろよ。お前も含めて男は皆、羊の皮を被った狼さ。お前だって遠藤さん可愛いと思ったんじゃないのか。」
「自分、彼女いますので。」
その言葉に丸山が反応する。
「おまえ、彼女いたのかよ。どんな子?」
「丸山さんには絶対に教えません。」
「何だよ、つれないなあ。」
丸山はそれ以降望月の彼女について言及することはなかったので、望月はほっとした。
宴会が始まってから1時間近くが経過した。
安藤はトイレに行くためにいったん席を立った。トイレに向かって宴会場からトイレまで続いている細い廊下を歩いていると、そこにあの経理部の女性社員である遠藤明がいた。そして、いつの間にか安藤は彼女に話しかけていた。
「こんなところでどうしたんですか、遠藤さん。もしかして体調が優れないとか。」
「いえ、安藤課長。ちょっと少し人が少ない場所で涼みたいと思って出てきただけなので大丈夫です。お気遣いありがとうございます。」
「若い人はまだあまりお酒の席に慣れていないですからね。上司の接待とか大変でしょ?あまり無理しないでね。」
「はい、ありがとうございます。」
遠藤の淡々とした態度に安藤は少しばかりむっとした。
(上司から気遣われているのだからもう少し敬った態度を取れよ。)
安藤は心の中では遠藤に悪態をつきながらも決して表には出さないようにしていたが、安藤のどことなく苛ついた態度に遠藤は気づいた。
「あの、何か気に触ることを言ってしまったでしょうか?」
「え、何?」
「いや、すみません。何でもないです。」
「そうじゃなくて、だから何かな。」
遠藤は『先ほどの質問はすべきではなかった。失敗した』と悟ったが、酒が入っていたせいか安藤の機嫌はどんどん悪くなっていった。
「君ねえ、もう少し先輩を敬った方が良いよ。仕事できるからって調子に乗っちゃいけないよ。もう少しねえ、なんていうか先輩をたててやるというか・・・とにかくねえ、なんか態度悪いよ。」
「すみませんでした、安藤課長。以後このようなことがないように気をつけます。」
「いや、だからねえ。その態度が気にくわないって言っているんだよ。君、俺のことなんだかなめてない?」
安藤に何かのスイッチが入ってしまった。普段から出世のために良い上司、良い部下を演じてきた安藤だったが、少なくない量の酒が入り、上司の接待に疲れていたせいか、彼に貯まっていた何かが一気に外に出てしまったのである。
「だいたいねえ。今日の昼間もそうだったけど丸山の仕事取るなよ。あれはあいつにやらせるつもりで考えていたんだよ。それなのにただの打ち合わせで済ますものをほとんど完成品を持ってきやがって。君、ありがた迷惑って言葉を知ってる?他には、小さな親切大きなお世話とかさあ。おかげで丸山はこれからもうちの部署にとどまることになったじゃないか。経理事務ごときが出しゃばりやがって。」
「待ってください。何の話をされているんですか?全く分からないのですが。」
「だからその態度が気に入らないって言っているんだよ!」
安藤の口調がどんどんヒートアップしていく。安藤興介にとって遠藤明のような人間は嫌いな部類に入っていた。仕事は出来るがどこか素っ気ない人間。上司にも媚びず、ただマイペースな人間。そんな人間が安藤興介は大嫌いだった。そしてそんな人間が、彼が考えた『丸山という気にくわない部下を追い出す』計画を意図したわけではなかったが邪魔してしまった。それ故、彼はここまでその本心を外に出してしまったのかもしれない。
「だいだいおまえは・・・。」
安藤は話しの途中でこちらを見ている一人の女性社員に気がついた。今井佳枝だった。
「チッ!とにかく、もう少し態度を改めないと皆から嫌われるからな!」
安藤はそう言い残して足早に遠藤から遠ざかっていった。そんな彼の後ろ姿を見ていた遠藤の目はひどいものだった。