(1)
9月3日午前5時。
もうすぐ日の出のためか、辺りは薄明かりだ。
渡部刑事が乗った白黒パトカーが湯野岬第二トンネルに到着した。渡部刑事はパトカーをトンネルの入り口付近に停め、パトカーを降りた。そして、彼はトンネルの入り口に置かれていた車の通行を禁止するためのブロックをまたぐと、トンネルの中をどんどん歩いて進んでいった。
トンネルの中は、以前は所々に設置されていた豆電球も取り外され、完全に暗黒である。その人工の闇の中を渡部刑事は携帯電話のライトのみで進む。もはや彼に恐怖心というものが全くないことは誰の目にも明かだ。そして彼の腰の革製ホルダーにはしっかりと拳銃が収められていた。この湯野岬第二トンネルに向かう前に、彼は蔵岡警察署に寄り、そこで無許可で拳銃を取ってきたのである。
“コツコツコツ。”
トンネルの中の音は渡部刑事の足音のみだった。彼の足音がトンネル内に反響し、全てがこの音のみで構成されているような、不思議な世界がトンネルの中に作られていた。
3、4分ほど歩き続けただろうか。渡部刑事の足音が止まった。同時に世界も止まってしまったかのような静寂がトンネル内を支配した。
「来てやったぞ、花村!」
渡部刑事は大声で叫んだ。彼の目の前にある道は真っ黒な煤で覆われていた。ここはあの八雲製鉄所第二営業部の社員達が乗車していたバスが放火された場所だった。
「どこだ、どこにいる!いるのは分かっているんだ。俺は一人だぞ。さあ、出てこい!」
渡部刑事がまた叫んだときだった。トンネルの中に足音が響いた。走っている音だった。
渡部刑事はその音を聞くやいなや、音が響いた出所らしき方角に一発撃った。
“バン!”
トンネル内で響いて、拳銃の発砲音はバズーカ砲の発砲音へと変化した。
“タタタタタタタタ。”
また、誰かが走る音がする。その次の瞬間、またバズーカ砲の大音量が鳴った。
「塵屑野郎が。」
渡部刑事は携帯のライトを四方八方に向けて、暗闇に隠れた獲物を探した。
“タタタタタタタタ。”
また足音がしたが、渡部刑事はその足音の方角が分からなかった。足音は一人分のものであったが、彼にとってはそこら中で鳴り響いたからである。
渡部刑事がまた拳銃を撃とうとしたときだった。彼の後頭部に激しい痛みが走った。硬い何かで殴られたのである。
「ああ!」
渡部刑事は大声で喚いた。そして携帯電話を持った手で、反射的に痛む自身の後頭部を抑えようとした。しかし再び後頭部に衝撃が走り、彼が持っている携帯電話はライトが点いたまま遠くに飛んでいってしまった。
「やあ、渡部君。まさか君から来てくれるなんてね。知っていたかい?トンネルのような反響音が激しい場所では、音源の近くにいるほど、その音源の場所を特定するのが難しいんだ。こういう雑学は知っといて損はないよ。知識は人間にとって一番大事な武器であり宝だろう?」
渡部刑事を殴った人物が彼に話しかけてきた。花村のぼるだった。花村はうつぶせになりながらも拳銃を構えようとした渡部刑事の手を踏みつけた。また渡部刑事は叫んだ。
「ちなみに、暗闇の中で明かりを灯すなんて馬鹿じゃないのか?暗闇に目を慣らしたほうが良いのに。目からの情報は人が受け取るほとんどの情報だよ。それなのにねえ。」
「花村!お前は殺す。おまえだけは何があっても殺してやる!」
渡辺刑事は半狂乱になりながら叫んだ。
「殺してやるだと?」
渡辺刑事の発言を聞いた瞬間、花村の様子が一瞬にして変わった。
「それはこちらの台詞だ。お前なんかを私のイナンナが愛するなどと、ふざけるな。ありえない。そんなことはあってはならないんだ。女神は私だけのものなんだ。もうすぐ一緒になるはずだった。もうすぐ私たちは一緒になるはずだったのに。それをお前はぶち壊したんだ。お前は私の世界のすべてをぶち壊したんだ。もう刑罰なんかではすまされない。」
花村は渡辺刑事の拳銃を握った手を蹴り上げ、拳銃を遠くへ飛ばした。そして右手に持っていた警棒で渡辺刑事の背中を殴り始めた。
「お前は!刑罰なんかじゃなく!ただ殺す、殴り殺す!何の意味もなく、飛んでいるだけで殺される羽虫のように!お前なんかに価値などない!意味なく死ね!死ね、死ね、死ね!」
発狂した野生動物は、渡辺刑事の背中を殴り続けながら途切れ途切れに叫んだ。息が上がろうと、お構いなしにそれを続けた。
渡辺刑事は息をする暇もなく、背中に走り続ける激痛に耐えていた。しかし、先ほど頭部を殴打された衝撃で、思考がうまくまとまらなくなっていた状態がようやく治ってきてもいた。
「はあ、はあ、はあ、はあ。」
渡部刑事の耳に花村の獣じみた荒い息づかいが聞こえた。花村は呼吸の乱れを整えようと、少しの間渡部刑事を殴打するのを止め、肩で息をした。一〇秒ほどのインターバルを空けた。しかしこれが彼の今後の運命を決めてしまった。このちょっとの小休憩が渡部刑事に反撃のチャンスを与えてしまったのである。
渡部刑事は痛みに耐えるために両手に握り拳を作っていた。花村の猛攻が止んだ時、渡部刑事は自分の両手の握り拳を少し弱めた。その時に彼はあることに気がついたのである。彼の両手には大量の煤が握られていた。それは床に散乱していたものの一部だった。
「じゃあ再開だ。」
渡部刑事が自分の拳の中にあったものの正体に気がついた時、花村は声を上げた。
「背中は人間にとって一番防御に適した部分だ。身体を支えるとても太い背骨。そして適度に運動すれば自然に鍛えられる背筋。なぜ背中にこれほどの防御力が備わっているのか。それは背骨に脊髄があるからだ。脳がコンピューターならばこちらは配線だ。絶対になくてはならないものだ。」
花村は自分が知っている知識を得意気に話し続ける。これは花村が幼い頃からの悪癖であった。彼は多くの知識を持つ自分に酔っており、それを人にひけらかすことが好きなのだ。
「さて、十分に君はサンドバックとして機能してくれたから、次は別の所に焦点を置こうか。脳だ、頭だ、後頭部だ。後頭部は人間の頭蓋骨で二番目に硬い部分だ。それ故、その下にあるのは脳の大切な部分でもある。安心していいよ、サンドバック君。すぐに痛みも感じなくなるから。」
花村が渡部刑事の頭髪を掴み、彼の顔を持ち上げたときだった。渡部刑事は花村の二つの眼球にめがけて、それまで握り拳の中に隠していた大量の煤を投げかけた。