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9月2日蔵岡署内。
渡部刑事はいつも通りの業務に取りかかっていた。10時30分に恒例の捜査会議という名の状況報告会に参加し、その後は蔵岡市で指名手配されてから大量に寄せられた花村のぼるの目撃情報の整理を始めた。これまで全ての目撃情報を、捜査官達は一軒一軒しっかりと当たったが、これといった進展はなかった。この日に行われた花村の捜索もめぼしい進展はなく、渡部刑事は刻々と過ぎていく時間を感じながら、もどかしい気持ちになった。
(今日も何の成果もなかった。花村はいったい今どこにいるんだ。奴の自宅やその他の所有している物件も全て当たった。蔵岡市の宿泊施設も全て当たった。なのに、どこにもあいつはいない。最終的に市民に情報を公開し、目撃情報に頼るしかなくなってしまった。)
渡部刑事は深いため息を一つつくと、先ほど署内の自動販売機で買ってきた、彼の好物である無糖のエスプレッソを飲んだ。
(ひょっとして、あいつはもう市内にはいないんじゃないか?遠藤さんがここにいる限り市内から出るはずが無いと思っていたが、遠藤さんが自宅に帰らなくなったから、あいつは遠藤さんがどこか遠くに行ったと思って出て行ったのかもしれない。)
渡部は遠藤明の自宅周辺で何回か聞き込みをしたのだが、不審人物を見たという人間は一人も見当たらなかった。
渡部刑事はまたため息をつく。そして今日4杯目のエスプレッソを買いに自動販売機へと向かった。他の捜査官も彼と似たり寄ったりだった。頭を掻きむしり、イライラとした態度を隠さない者。今日9本目になる10ミリグラムのたばこを吸いに喫煙所に行く者。外で捜索を行っていたが、結果を得られず落ち込んだ様子で署内に帰ってくる者。捜査本部はいつも通りのなんとも言えない暗い空気に包まれていた。
午後18時30分。
一本の通報が署内に響いた。火災の通報だった。この通報を受けてから約20分後、一人の巡査長が捜査本部である第二会議室に駆け込んできた。
「渡部刑事、渡部斉紀巡査部長はいらっしゃいますか!」
慌ただしくその巡査長は叫んだ。その大声に部屋にいた全員が驚いたが、呼ばれた本人はもっと驚いていた。
「はい、自分です!何かあったんですか?」
渡部刑事は突然の事にびっくりしながらも、すぐに巡査長の下に駆け寄った。すると巡査長はずっと走っていたせいか、息を切らしながら言った。
「刑事のご自宅が火事に!」
巡査長の言った言葉が、渡部刑事には一瞬理解できなかった。2、3秒彼は立ち尽くしてしまったが、ふと我に返り、彼は巡査長の肩をつかんだ。
「何だって?本当なのか?」
渡部刑事は震える声で言った。
「はい、先ほど火災の通報がありまして、現在消火活動が行われています。」
その言葉を聞いた渡部刑事は走り出した。彼の頭の中は何も考えられなくなっていた。しかし本能的に彼は自宅へ向かう。署内を全速力で走って飛び出し、いつもの覆面パトカーに乗り、サイレンを鳴らすと法定速度を30キロ越えた速度で走った。彼は道中一言も発しない。彼のハンドルを握る両手は冷や汗でひんやりとしていた。彼が自宅に帰るのに、いつもは40分弱かかっていたのだが、この日は20分で着いてしまった。
渡部刑事が自宅に着いたとき、彼は中には入れなかった。自宅から大きな火柱が上がり、空高く黒煙が伸びていたからである。渡部刑事の耳には大声で叫ぶ男の声が聞こえていたが、それが自分の口から出ているものだと彼は気づかなかった。全力で自宅に入ろうとする彼を体格が良い消防士が二人がかりで止めていた。結局、消火活動が完全に終了したのは、それから2時間後のことだった。